米沢入り前 治憲19歳~
~松伯の死~
これから改革を・・・と意気込んだ治憲だが、いきなりその出鼻を挫かれることになる。
藩医である藁科松伯の死だ。数少ない治憲の味方であり、改革の中心的なメンバーの訃報に驚く。
以前に見舞った時は、感染るといけないからと部屋の外から声を掛けたが、まだ元気であった様に見えた。
私に心配を掛けまいと無理をしていたか?
しかし、わずか33歳の若さで逝くとは…。これからの改革に欠かせぬ人材であったのに、と悔やむ。
初めて松伯に出会ったのは、14歳で上杉家に婿入りした日であったな、と昔を思い出す。
養父重定公の側医として紹介されたが、勉学が好きで家塾『菁莪館』を自宅に開き、竹俣当綱や莅戸善政らを塾生としてくれたおかげで、私にも腹心の部下ができた。
しかも、細井平洲先生にも引き合わせてくれるなど、私の藩主としての礎を築いてくれたのは間違いなく藁科松伯と言う人物だった。
時世の句は
『今朝の露と われも消えり 草の陰』
善政によると肺を患っていたとのこと。
『結核』かな?と思いながら、『医師であっても病気に勝てぬか』と落ち込む。
借金まみれの現状ではどうしようもないが、何とか財政を持ち直した折には医療の充実も図ろうとぼんやり考える。
これからは松伯の志しを受け継ぎ、米沢藩の再興に努める故、安らかに眠ってくれ・・・と心の中で手を合わせ改革の同志に別れを告げた。
~幸姫との婚礼~
今更感は否めないが、幸姫との婚儀が決まった。もはや9年越しの婚約時代を経ている。
幸姫は17歳となったが、その外見は10歳にも満たない。そしてその言動も見た目の通りである。
倹約令を出していることに加え、幸姫のお披露目を行うこともできないことから、婚礼は内々での質素なものではあったが、改めて幸姫を幸せにしようと誓う。
「幸様、貴女のような身体でも暮らしやすい藩となるようにしますね」と、傍らの幸姫に笑いかける。
人形や折り紙、お手玉など、幸姫との触れ合いは、逼迫した藩制改革に疲れ切った心に安らぎを与えてくれる。
この天女のような笑顔をいつまでも守っていこう。
~米沢藩への出立~
いよいよ、国入りの日が決まると、江戸家老の須田満主が訪ねてきた。
「お屋形様、初の国入りおめでとうございます。しからば、国入りの隊列ですが、千名ほどの準備でよろしいでしょうか?」と尋ねてくる。
一瞬理解ができず「え、千名?」と返した。すると満主は「おや、千名では足りませぬか?では二千名では?」と媚びた顔で言ってくる。
怒鳴りつけたい気持ちを抑え「満主よ、且方は藩の現状を理解しておらぬのか?」と問う。
すると満主は「お屋形様こそ、上杉家の格式と体面をご理解なさっていないようで・・・」と相変わらずの下卑た顔で答える。
『その格式と体面のためにどれだけの金がかかると思っている!』と叫びそうになる。だが、この類の人間は怒鳴りつけてはいけない。意地になって言固辞になるだけなのを、前世で学んだ。
とはいえ、プライドという壁に阻まれ言葉は通じない。
やさしく諭すように「この度の国入りは側近のみでおこなう、異論は認めぬ」と告げた。
「そのような貧相な国入り、聞いたことがございませぬ。そもそも、由緒正しき上杉家の参勤交代であり、新しいお屋形様のお披露目でございますぞ。何卒お考え直しください」と満主が語気を荒げる。
「もはや決めたことだ。衣類も普段の木綿で良い」と告げ席を立つ。
「お屋形様、お考え直しを~」と叫ぶ満主を残し部屋を後にする。
そもそも参勤交代では、江戸入りに際しては大名行列を組むことが幕府により決められている。しかし、国元に帰る時はその限りになく、自由な帰還が許される。
しかし、常に側にいた江戸家老がこれでは、国元の老臣や重臣は言うに及ばずの状態であろうな〜と、気持ちが落ち込む。
沈んだ気持ちを和ませるため、幸姫に会うことにした。 幸姫の笑顔を見ると、殺伐とした気持ちが緩み幸せな気持ちになる。
折り紙を折りながら幸姫に「参勤交代で国元に入ります。しばらくの別れとなりますが、御自愛ください」と告げ、幸姫に別れの挨拶をおこなった。
〜出立の朝〜
細井平州師より一通の書状が届く。
そこには、茨の道とも言える米沢藩の藩主としての心構えを説き、決して折れることの無いように、との励ましを込めた言葉が添えられていた。
『勇なるかな勇なるかな 勇にあらずして何をもって行なわんや』
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