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恩師平洲との別れと相互扶助  治憲51歳~

細井平洲師死去の知らせが治憲に届く。

茫然とその知らせを見つめながら、平洲先生の思い出が走馬灯のように巡る。


『勇なるかな勇なるかな 勇にあらずして何をもって行なわんや』

思えば、この言葉を胸にここまでやってきた。

そして・・・『率先垂範』『先施の心』


『私は先生の教えを恥ずかしめていないでしょうか?』と平洲の教えを思い出す。




治憲が始めて細井平洲に会ったのは、藁科松伯の紹介によるものだった。


農家の出身でありながら、学問を極めんとするその姿勢に心酔し、師事することを決めた。

誰にでもわかりやすく、実践を第一に考えるその教えは治憲の考え方に大きな影響を与えた。


そして、藩主となってからは、三度の米沢入りをたまわった。


『初めて米沢の地に訪れていただいたのは、私が21歳の時であったな』と懐かしむ。

1年間もの間、米沢に逗留いただき多くの教えを受けた。


その最たるものとして、鍬をもって農地を耕した『籍田の礼』であった。

正に平洲の唱える『率先垂範』を体現したものだった。



『二度目の時は、興譲館の創設に尽力いただいた』

興譲館は、広く領民すべてに学問を、との平洲の思いが詰まったものだった。


学問とは道しるべであり、自らの進むべき道を照らすものである・・・との思いから、平洲は農民や町民にも学問を学ぶ大切さを説いていた。



そして、三度目の来訪は、平洲が69歳と高齢になってからだった。


しかし・・・と当時を思い出し

『先生の来訪が待ち切れず、羽黒神社の普門院まで迎えにいった時は、流石に驚かれたようだったな』と懐かしむ。


享年74歳であった。


『平洲先生の教えは、私の提灯ちょうちんとなって行く先を照らしてくれております。

これからも「勇なるかな」の思いを胸に刻み藩政に努めます』と心に近い、細井平洲との別れを惜しんだ。



※※※※



その日、いつものように餐霞館さいかかんで粥を食べながら治憲は考えていた。


前世の教育では『士農工商』の身分制度を学んだ。

すなわち武士が一番偉く、次いで農民・・・というアレだ。


しかし、米沢藩の藩政をおこなうと、武士から農民になるものなども多く、武士が一番偉いといった雰囲気はなかった。


歴史に詳しくないため、米沢藩がそうなのか他藩も同じなのかはわからない治憲だった。

注)『士農工商』は(全ての人々)を指す儒教の言葉で、身分制度ではなかった・・・らしい。



そうは言っても、農民の立場が強くないことは事実だった。

『農民は食を守り育てる国の基盤である』との思いから農民の生活の安定は重要な課題であった。


「善政を呼べ」と小姓に伝え、莅戸善政を呼び寄せる。


「お呼びにございましょうか」と平伏す善政に

「農民の生活を安定させるための仕組みを考えた故、各農村に周知せよ」と指示する。



治憲が考えたのは、いわゆる『協同組合』の仕組みに近いものだった。


『農民一人の力は弱い。ならば5人、10人が集まればどうか?』

『また、農村も一村だけでは同じく弱いが、村同士でまとまれば強い力を持つ』


この時代にはすでに『五人組み』と言う制度はあった。


だが、この『五人組み』は「相互監視」と「連帯責任」の意味合いが強い制度だった。


『五人組み』の誰かが犯罪を犯せば『五人組み』全員が処罰され、また誰かが年貢を納めないと同じく全員が処罰される。


犯罪抑止と確実な年貢の取立ての為、常に隣の者を監視し、そして監視されるのが『五人組み』と言える。



一方で治憲が示した『伍什組合』は


誰かが困難となった場合は他の4名も協力せよ。

5名でも困難であれば10名で協力せよ。

10名でも困難であれば村全体で協力せよ。

村全体でも困難であれば隣村も協力せよ。

それでも困難であれば、藩に求めよ。


と言った内容であった。



治憲は相互監視や連帯責任といったマイナス感情での協力体制ではなく、協力や協調といったプラス感情での相互扶助を農村に広める決意をした。


しかし「恐れながら申し上げます」と善政が反対の意思を示す。


「五人組み程度であれば問題ありませんが、村が纏まっては百姓一揆に広がる恐れがございます。まして他の村まで巻き込んでは大一揆に発展するやもしれませんぞ」


「善政よ、我が子である村人が藩政に刃を向けるのであれば、それは藩政に間違いがある。百姓一揆を恐れて村人を分断するのではなく、皆が協力しあうことでより良い藩政を目指せば良い」と善政を説得し『伍什組合』の仕組みを米沢藩に取り入れることを決めた。




その村人は痛めた腰をさすりながら、自分の畑を耕す男達に声をかける。

「手伝ってもらってすまないな〜」


「なに、困った時はお互い様よ」

「家に何かあったら次は頼むから気にするな」

と、畑を耕しながら村人を気遣う。


「そうそう、こんな時は『すまない』ではなく『ありがとう』と笑えば良い」と皆が笑いあった。






治憲は今は亡き恩師を想いながら空を見上げ

『私は平洲先生の学びを役立てられているでしょうか?』と問いかける。



その答えは…村人たちの笑顔が知っていた。




士農工商(その後に続く言葉を含めて)は世代ギャップがありそうですが、治憲の前世の時代は身分制度として教えられていました。

今では教科書から消えたみたいですね。

そもそも士農工商の士は『武士』を示すものですらなかったみたいで   当時の教育って…

※Wikipediaより

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