三度目の逆縁と病魔との戦い 治憲44歳~
中津川郷の農家で、一人の子供が泣き叫んでいた。
「痒いよ~ 痒いよ~ ゴホンゴホン」
その母親が心配そうに「掻いたら駄目よ。我慢して」と我が子をなだめていた。
「痒いよ~ 痒いよ~」
その響きは、この家だけではなく、他の家からも響きわたっていた。
同日、餐霞館の奥座敷では治憲とお豊の方が並んで床に伏せる顕孝を心配そうに診ていた。
その顔や身体には赤い発疹が広がり高熱を発していた。
「中殿様、お豊の方様・・・顕孝様は痘瘡(天然痘)にございます」と診察を終えた藩医の堀内忠明が治憲の目を見据え、「天然痘には薬がございません故、顕孝様の体力次第で・・・本日が山かと存じます」と苦しそうに告げる。
※以降痘瘡は天然痘と表記
その晩、治憲やお豊の方の懸命の介護も虚しく、顕孝はわずか19歳で夭折する。
『何故じゃ~・・・』と治憲は声にならぬ叫びを上げ慟哭する。
『前世の孝子、今世では寛之助に続き顕孝まで・・・神よ、私はこの世に子孫を残してはならんと仰せなのか?』と天を睨み神を呪う。
『米沢の民は我が子と同じである。だが、我が子を皆連れ去っていくのは何故じゃ~』
治憲の声にならぬ慟哭は、何時までも続くかと思えた・・・。
しかし、現実がそれを許さない。
「中殿様・・・」と、どう声をかけて良いか解らぬ様子で、しかし伝えねばならぬと決意を込めて除戸善政が治憲に報告をした。
「中津川郷におきまして、天然痘が大流行致しております・・・」
『私には、悲しむ時すら与えてもらえぬのか』と自虐ぎみに
『ならば・・・顕孝の弔い合戦じゃ。この病魔に打ち勝って見せよう』と亡き顕孝に誓う。
治憲は藩医の堀内忠明を呼び「天然痘に詳しい医師はおるか?」と尋ねる。
「されば江戸の津江柏寿殿が第一人者かと存じます」
「ならば、直ちに津江柏寿殿を米沢に招致して治療にあたらせよ」と指示し
「忠明よ。且方と伊藤祐徳は津江柏寿殿に付き、天然痘の対応を学びとれ」と命じる。
莅戸善政を呼び出し
「善政よ、天然痘の治療にかかる治療費は全て藩が負担せよ。好生堂に限らず、町医者などの薬代も全て負担する故、罹患したものは直ちに治療を始めさせよ」と檄を飛ばし
「家族に病人が出た家庭には支援金を与えよ」
「津江柏寿殿より看病の心得を聞き取り、各農村に周知せよ」
と具体的な対策を指示した。
治憲らの懸命の対応により、まもなく天然痘の流行は治まるが、米沢藩ではおよそ8千人が罹患し、内2千人が亡くなる。
これをきっかけとして、米沢藩では医療の発展に力を注ぎ、堀内忠明の子『堀内素堂』や、伊藤祐徳の子『伊藤祐直(昇迪)、高橋桂山などの優れた医師を排出し、積極的に長崎などに留学させて西洋医学を学ばせている。
また、好生堂には佐藤平三郎などを招き、薬学の発展にも力を注ぎ、高価な機材や専門書を治憲が自費で購入して寄与をおこない、医療の発展に注力をおこなった。
※※※※
伊藤祐直は長崎の地を目指していた。
道すがら、祖父伊藤祐徳と上杉鷹山が米沢藩で天然痘が流行した時の悲劇に思いを寄せる。
『祖父から聞いた話では、2千名もの死者が出た上、鷹山公の御子顕孝様までが亡くなったとか。このような惨状を何とかしたい』と医学を学ぶために自費で米沢からはるばる長崎を目指していた。
ある日祐直がいつものように長崎の出島で学んでいると、シーボルト先生が話しかけてきた。
「祐直さん、緒方春朔を知っていますか?」
『シーボルト先生によると、秋月藩(福岡県の一部)の藩医緒方春朔先生が、清の医学書を参考として天然痘の予防方法を開発されたとか。これを学び帰れば、中津川郷のような悲劇を防げるかも』と、新しい医学に期待を寄せる。
注) 緒方春朔の天然痘予防は、天然痘患者から取った瘡蓋を粉末としたものを粘膜接種するものであった。
これはジェンナーが牛痘を皮膚から接種する予防接種を開発するよりも6年先駆けていた。
長崎の地で天然痘の瘡蓋を手に入れた祐直は米沢に帰り、早速瘡蓋を村人たちに接種しようとするが・・・当然受け入れられるはずがない。
そこで祐直は、自分の娘2人に瘡蓋を接種して村人たちの説得をおこなった。
奇しくもそれは、ジェンナーが牛痘の予防接種を広げるために、我が子に接種したのに同じであった。
このような先人たちの努力が実り、世界から天然痘が撲滅されるが・・・それはまた別の話である。
※※※※
治憲は天然痘が落ち着いた中津川郷を訪れていた。
そこには、身体に発疹の痕は見られるが、元気に走り回る子供たちの姿があった。
「藩からのご支援で、何とか子供が元気になりました」と道端の母親が礼を言ってくる。
その姿に安堵しながらも、更なる医療の発展を今は亡き顕孝に誓う治憲だった。




