改革の始まりその3と当綱との別れ 治憲42歳~
その日、屋代町に作られた御国産所に莅戸善政の姿があった。
藩で収穫された作物や物産品は、この御国産所に集められ出荷されることになっている。
そこには、衣服や畳、漆器や和紙に薬草などあらゆるものが集まっていた。
「藩士の衣服に関しては、すべて米沢で作られたものに限る」とすでに触れを出しているが、他の物産においても藩内のものを優先するように推奨せねば・・・」と集まった物資を確認する。
「やはり、他藩に高く売れそうなものは、反物とその原料の麻荢となるか」と見て回ると、わずかではあるが絹糸があった。
『これは置賜地域のものか。中殿様が養蚕を気にしておったから、この地域を養蚕の中心として発展させようか』と考えながら、その絹糸を手に取った。
『なんと手触りの良い糸じゃ。この糸で反物を仕立てれば高値で売れることは間違いない』と中殿様が絹糸に執着する理由を実感する。
養蚕の促進には桑の木が必須となる。100万本植樹計画で、ある程度の植樹は進んだが、天明の大飢饉の影響や漆の木を優先させたため、十分な数が揃っているとは言えなかった。
「桑の苗木を無償で配ろうか」と視察から戻った善政に治憲が声を掛けた。
「桑畑は言に及ばず、各屋敷の庭などあらゆる土地で桑を育てよ」と治憲が指示する。
「中殿様、苗木の手配が・・・」と言い淀む善政に、「金はこれを使うがよい」と治憲が50両もの金を差し出す。
「常々言っておるが、私は金を使わぬ故皆のために使ってくれ」と笑う治憲に、ただ頭を下げるしかない善政であった。
こうした努力により、徐々にではあるが絹糸の生産量が増えてきた。
まだ十分な量の絹糸が得られぬことから、絹と麻の混合による反物ではあったが、確実に反物の産地として米沢藩は全国に知られていくことになる。
「時に善政よ。御国産所だが他にはどんなものがあった?」と問う。
「はい、畳や漆器、和紙に薬草などが目につきましてございます」
治憲はそれを聞いて「薬草であるか」と考え込む。
その脳裏に、若くして労咳で亡くなった藁科松伯を思い出していた。
「善政よ、御国産所に薬学を、いや医学を学ぶ藩校を作れぬか?」と問う。
「なれば、藩医の伊藤祐徳殿に声を掛けてみましょう」と答えた。
こうして、医学館『好生堂』が完成し、米沢藩いや日本の医療の発展に大きな影響を与える。
しかし…この好生堂の設立を持ってしても防ぎきれない災害がすぐ目の前に訪れようとしていた。
※※※※
竹俣当綱殿が死去いたしました・・・
その訃報は突然であった。
「まだ65歳ではないか。若すぎるぞ当綱・・・」と言葉を飲み込む。
治憲は竹俣当綱との出会いを思い出していた。
『初めて会ったのは、当綱が森平右衛門を乱賊として成敗し、江戸に放逐された時であったな』と当時を懐かしむ。
『養父重定公に切腹を命じられたのを何とか説得して、私の腹心にしたことから忠誠を誓ってもらったが』と晩年の迷いに惑わされたことを悔やむ。
『それでも、商人たちとの交渉や植樹の手配、上書(長夜の寝言)など、当綱が米沢に生みだした功績は計り知れない』と感謝の言葉しかなかった。
『心残りは、借財の完済を見せてやれなかったことか』と空を見上げて
『当綱よ、10年、20年先の米沢藩は、且方の手配した木々によって豊かな藩となっておろう。天より見守ってくれ』とそっと涙を拭った。
そして、治憲は庭の桜を見ながら
『まさに桜のような男であった。豪快に咲き誇り、あっと言う間に散りゆくか』
と、右腕でもあった忠臣に別れを告げた。




