改革の始まり その2 治憲42歳~
治広の承認を受け、治憲と面会した後の莅戸善政の動きは早かった。
 
米沢藩の金主は越後の渡辺家、塩田の本間家、江戸の三谷家などがあったが、その全てに善政自らが訪問し関係の改善を願うこととした。
この訪問に先立ち、治憲から『農商の民との約束は違えぬよう』と念を押されていた。
即ち、借りた借財は必ず返すことを確約すると治憲が保証したことになる。
 
 
善政は訪問先で、黒井忠寄と作成した16年返済計画を基に、借財の利子の引き下げや新たな関係の改善を求めることになる。
ここで、具体的な計画が出されたことに加え、治憲の返済保証が決めてとなり、大幅な利下げや減債、新たな貸付が叶う。
加えて、各商家から『勧農金』として多額の支援も集まり、農業の振興が進むこととなる。
 
 
越後の渡辺家では莅戸善政の訪問を受け
「前回訪れました志賀様は、無い袖は振れぬの一点張りでホトホト困り果てておりました」と善政の訪問を喜んだ。
「私ども商人は確かに『利』が大切でございますが、それ以上に『信用』に重きを置きます」と善政が持ち込んだ計画書を手に取った。
 
「確かにこの16年の返済計画は、不作が無いことや産業復興が上手くいった場合であり、正直見通しはわかりませんが、この計画に沿って藩政を進められる意思と、中殿様の約束を守るとの決意が読み取れます」と善政に語りかけた。
 
「この渡辺家は、莅戸様と中殿様を『信用』して今後のお付き合いをさせていただきとうございます」と今後の関係の約束が叶った。
 
他の商家においても同じであり、志賀祐親によって離れた商家との関係の改善を取り戻したがけでなく、より強固な関係を築くこととなる。
 
 
また、本間家には蓄財として毎年の積立をおこなうことも話し合われた。
 
 
これにより、米沢藩の資金繰りは一気に好転することとなる。
 
 
 
 
その日、治憲は治広と共に北条郷を訪れていた。
そこでは、松川(最上川)からの水路を掘る人足たちが、元気に汗を流していた。
 
現場を指揮する黒井忠寄を認め、治憲が「忠寄よ、普請は順調にすすんでおるようだの」と声をかける。
「これは、お屋形様、中殿様。北条郷は松川よりも高地故、川を堰き止めての嵩上げに苦労致しましたが、人足たちの頑張りと善政殿に十分な資金を調達していただきましたお陰で、思った以上に工事が捗っております」と明るく答えた。
 
それを聞いた治憲が隣にいた治広に「この新堰だが・・・『黒井堰』と名付けてはどうかな」と尋ねると「それは良き考えにございます」と治広も笑って答えた。
 
 
この黒井堰は北条郷の農村に多大な恩恵を与えることになる。
米沢平野はその地形が盆地のため、水の供給が課題であったが、完成した黒井堰により広大な農地に安定して水が流れ、開墾が進むことになる。
 
 
その後、黒井忠寄は飯豊山に穴堰を掘る工事を着工する。
残念ながら、黒井忠寄は工事着工の翌年に死去するが、工事は引き継がれ約20年の歳月をかけて飯豊山穴堰が完成する。
両側から掘り進められた穴堰は、わずか1メートルの誤差で合流するという、測量技術の正確さを見せた。
 
 
 
治憲はいつものように莅戸善政と会合をおこなっていた。
「善政よ、忠寄の功績により北条郷の整備が進みそうじゃのう」と明るく笑う。
「中殿様、されば兼ねてからの計画通り、藩士の次男や三男などを北条郷に送り、開墾を進めましょう」と答える。
 
「開墾した農地はそのまま与え、年貢を幾年か免除致せば希望者は多くなるであろう」と頷き、「離散した農家や他藩からの農民の受け入れもおこない、農民の数を増やすように致せ」と指示をする。
 
 
 
黒井堰に豊富な水が流れ、開墾された田畑に水が行き渡る。
田では金色の稲穂が頭を垂れ、畑には青々とした野菜が実を付けている。
 
 
 
 
 
刀を鍬に握り替えた男が隣で赤子をあやす女房とその光景を眺めながら、この年の豊作を喜んでいた。
 
 




