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家督相続前 治憲14歳~

タイトル変更しました。

成せば→為せば 本文ばかりチェックして、肝心のタイトルのミスに気が付きませんでした(汗

米沢藩の危機的な状況を知ってから、4年が経ち私は14歳となった。

毎年借金が3億円ずつ増えているなら、あれから12億円借金が増えたのかな~とぼんやり考える。


やはりこのままでは駄目だ。しかし手を打つにも義父重定は政治に興味がない。

それどころか、家臣におだてられて贅沢三昧。『よし、義父よ!あなたも反面教師の仲間入りだ・・・』とつぶやく。


何とかしたい思いはあるが、高鍋藩から来た私には、腹心と言える家臣がいない。

「ともかく、一人では何もできない。早急に、何人かの腹心を探さないと・・・」と現在の状況を考えながらつぶやく。


しかし、江戸屋敷にいる者たちは、江戸家老の須田満主(すだみつたけ)や、家老の千坂高敦(ちさかたかあつ)、更には国元の重臣を恐れてか、一部の者を除きまったくと言っていいほど気概も見えない。

前世でも、上役の顔色ばかり見てまったく仕事ができない者はいた。そしてそんな者たちほど出世していく現実を見てきた。


しかし、米沢藩の家臣たちの状況は更に酷く見えた。全てを諦めた、やる気のない言動。

それでも、上杉家のプライドだけは高く、「そのようなことは由緒正しき上杉家の者がすることではありません」と、薄ら笑いで反発する。

そしていつもの決め台詞「所詮3万石の小藩の入り婿では、恐れ多くも謙信公の・・」までがワンセットとなる。もういいから、その無駄なプライド。生産性がゼロどころかマイナスになっているから。



部屋でふさぎ込む私を見て、小姓の佐藤文四郎が声をかけてきた。

「治憲様、御気分がすぐれぬようでしたら藩医の藁科松伯(わらしなしょうはく)を呼びましょうか」

『医者に診てもらってもな~』とは思ったが、儒学にも明るいとのことで、少しでも多くの家臣の声を聞きたいとの思いもあり、文四郎に手配を頼む。


一通りの診察を終え、「治憲様は身体は健康ですが、心が疲れておりますな」と松伯が告げる。

「藩の現状と責任が重すぎる故・・・」と返すと、「儒学者である細井平洲殿を師事されては如何でしょうか」と勧められた。





八月の晴れた日、細井平洲は友である藁科松伯の紹介により、米沢藩江戸上屋敷の桜田邸にいた。


「さて、本日は重定公と入り婿である治憲様への講義か。しかし、いくら聡明と評判の治憲様とはいえ、14歳の若さでどこまで理解できるものか」とつぶやきながら奥の座敷に入った。

そこには、藩主重定と治憲に加え、友である藁科松伯、江戸家老の竹俣当綱(たけまたまさつな)や御小姓頭の莅戸善政のぞきよしまさ、木村高広、佐藤文四郎の顔もある。彼らは藁科松伯の私塾≪菁莪社中(せいがしゃちゅう)≫のメンバーであり、今後の治憲の改革の中心となる者たちだった。


講義を続けながらも平洲は、あどけなさの残る治憲の聡明さに驚いていた。

『未だ、藩政をおこなっておらぬ身でここまで理解できるものか。しかも農民や町民が知識を持つことを忌避する藩主も多い中で、その大切さに気がつくとは・・・』と、その聡明さに舌を巻いていた。

『しかも、農民から学者となった私に対しても、謙虚さも持ち合わせておられるか・・・』


そして、『もしかしたら、彼が藩主となった暁には、今の潰れかけた米沢藩を何とかできるかも』と期待を寄せ、自分の持つ知識を若き治憲に注ぎ込もうと決意した。


平洲の教えは『親が手本を見せよ』『譲り合いの精神』『実践主義』といったもので、実際の生活や経験に基づき、農民や町民にも理解できるよう分かりやすく具体的なものであり、昭和、平成の記憶を持つ治憲は強く感銘を受けることになる。


治憲が何よりも感銘を受けたのが平洲の出自だった。

「平洲先生は農家の次男から学者になられたのですね」と講義を終えた後、目を輝かせながら語りかける。「だから先生の私塾『嚶鳴館(おうめいかん)』には町民や農民が多く師事しているのですね」と続け、「先生の教えが具体的で実践的な理由がわかりました」と平洲の教えに共感した治憲は、正式に平洲に師事することを決めた。




「今日の平洲先生の講義は学びがあったな~」と共に講義を受けた善政に声をかける。

「そうですね。治憲様は平洲殿の講義のどの部分が心に残りましか?」と善政が興味津々で問いかけてきた。

「そうだな。正直全てで選べないと言いたいが、それでは先生の唱える折衷学せっちゅうがくに反するな」

「折衷学と言えば、あらゆる学問の良いところとそうでないところを取捨選択しゅしゃせんたくする教えですね」と善政がうなずく。

「人は生まれや立ち位置、年代や思想によって良いところは変わるからな。あの柔軟な考え方は実に参考になる」と答えた。


「敢えてその中で一つ選ぶなら、『率先垂範(そっせんすいはん)』の教えであろうか」と平洲先生の言葉を思い出して答える。

「人を動かそうと思うなら、先ず自分が動きなさい、人に尊敬されたいなら、先ず相手を尊敬しなさい・・・あの言葉は特に今後藩主となる私への戒めと言えよう」と指示だけ出して自分たちは何もしなかった前世の偉い人たちを思い出し自らを律した。



その後も講義は続き、月に二度ではあるが、平洲の学びは治憲にとって得難いものとなる。

そして、平州に師事してから3年ほどが経ち、治憲は正式に上杉家の家督を継ぐことが決まった。




1767年4月、治憲はわずか17歳にして米沢藩15万石の9代目藩主となった。


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