治憲の隠居 治憲35歳~
『そもそも重定公に世継がいなかったから、私が上杉家の後継ぎとなっただけのこと』と、自分が上杉家の婿養子となった経緯を思い返す。
『しかし、私の婿入りが決まった後 勝煕殿、治広などの男子が産まれている。
にも拘わらず私が跡目を継いだ。ここは、重定公がお元気な内に実子治広が上杉家の跡目を継ぐ姿を見せてあげたい』と考えた。
それに・・・と付け加え、『隠居すれば参勤交代で江戸に行く必要がなくなる。そもそも隔年で米沢を離れるような体制で、改革などすすめられる訳がない』と予てから考えていた参勤交代の問題点もある。
『治広に家督を相続し、私は米沢に在駐して裏方に徹する』・・・これが天明の大飢饉を乗り切った治憲が出した答えである。
家督を譲るに辺り、治広に藩主としての心構えを説いた『伝国の辞』を説く。
※国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
※人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
※国家人民の為に立たる君にして君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
注)意訳です
※国家(藩)は先祖代々引き継がれたものであり、決して私物化してはいけない
※領民は国家(藩)に属しているのであり、藩主に属しているのではない
※藩主は人民のためにあり、人民が藩主のためにあるのではない
そして筆を取り
『為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり』
と記し、藩主としての自覚を促した。
前世の政治家や社長などを反面教師として、藩主となる治広に為政者としての心構えを説くと、治広が感激し「ありがたきお言葉を賜りました。この伝国の辞を心に刻み、米沢の地を統治して参る所存にございます」と頭を下げた。
因みに、治広の養子に治憲の嫡男 顕孝がなっている。
これは、治広が治憲の子を自分の後継ぎとするためであったが、治憲から見れば実子顕孝が養子治広の養子となる形であり、この時代の習わしとはいえ、ややこしいことこの上ない。
こうして、藩主治広として藩が動き出す。
治広の補佐には、志賀祐親が当たることとなった。
治広が祐親に藩の政策を相談していた。
「のう祐親よ、何とか中殿(治憲)の采配により飢饉から脱却ができつつあるが、今後はどのように進めればよいと思うか?」と問いかける。
「されば、以前にも中殿様には進言いたしましたが、これまで以上に支出を抑えることが肝要と存じます」と答える。
注)重定が大殿と呼ばれていたことから、隠居後の治憲は中殿と呼ばれていた。
「私は凡庸な藩主故、中殿のような差配は困難である。祐親が頼りとなる故よろしく頼むぞ」と志賀祐親に信頼を寄せる。
祐親は感激し「勿体ないお言葉、この祐親全身全霊でお屋形様をお支え致します」と治広に忠誠を誓った。
しかし、残念ながら祐親の能力は凡庸なものであり、新たな政策などを立案し実行する能力に欠けていた。このため、米沢藩はいわゆる『茹でガエル』の状態に陥る。
急激な衰退は見えず、一見すると安定しているように見えるが、その先に未来はなくこのままでは破滅することに治広も祐親も気がついていなかった。
「倹約倹約と祐親殿は言われるが、最早限界にござる」
「この先、どこまでこの倹約令を続けるおつもりか」
「このまま倹約を続けても、先は見通せぬ」
領民や藩士たちから、治広と祐親の政策に不満が噴出するのは当然であった。
治広や祐親が無能であったとは言えないであろうが、人には適材適所というものがある。
仮に藩政が安定した状況であったなら、治広や祐親の統治がここまで非難されることはなかったかもしれない。
しかし、緊急時の藩を立て直すには劇的な変化が求められていた。
残念ながら、治広や祐親が最も不得意とする分野であり、先代の治憲や竹俣当綱の功績の偉大さに委縮してしまい、余計に動きが取れなかったことも否めない。
治憲としては、家督相続をしたばかりでの口出しは治広に申し訳ないと考え、事態を静観していた。
しかし、そのような治憲に藩士たちからの陳情が数多く届くようになる。
「中殿様、このままでは米沢に未来はございません」
「やはり中殿さまに出張っていただかねば、この米沢は貧困のままにございます」
「何卒、中殿様には陣頭指揮をお願いいたします」
私は澄みわたった空を見上げ、藩士たちからの陳情を考えていた。
『幸姫、私は再び表舞台に立つべきであろうか?』と今は亡き幸姫に語りかける。
その時、蔵王の山から一羽の鷹が天高く舞い上がり悠然と大空を舞う姿が見えた。
『為せば成る 為さねば成らぬ成る業を 成らぬと捨つる人のはかなき』
これは武田信玄公の言葉で、『やればできる。やらなければできないが、どうせ無理だと諦めてしまうのが人間というものである』注)意訳 です。
どちらかと言えば、こちらの言葉の方が人間の本質をついている?人間味がある?と感じます。




