最悪の始まり 治憲33歳~
竹俣当綱に続き莅戸善政までが隠居となるため、私は側近として志賀祐親を登用することにした。
「祐親よ、且方は今後の藩財政をどのように立て直せば良いと思う?」と問いかける。
「しからばお屋形様。当綱様の推し進めた投資計画が頓挫した以上、これからは緊縮財政として倹約の徹底をすべきと考えます」と答える。
「倹約だけでは借財は増えぬかも知れんが、減らすことも叶わぬのではないか?」と問うが、「今は当綱様の失策を重ねぬことが重要と存じます」と譲らない。
信頼していた2名の脱落に悲観していた私は、仕方なく「ではそのように手配せよ」と指示をするしかなかった。
祐親の政策は良く言えば安定路線と言えるが、竹俣当綱の失脚を見たため、極度の安全策しか取れなくなっていた。
緊縮財政の手始めとして、祐親は江戸の商人たちを訊ね借財の金利を下げる交渉と返済の繰り延べを依頼することにした。
これは、竹俣当綱もおこなった手法であり、成果を上げたことから祐親も真似をしたが、結果は惨憺たるものとなる。
そもそも当綱は、藩の産業を拡大させその恩恵を商人に与えることを条件として交渉をおこなったが、祐親の交渉は金が無いから払えないといったもので、商人たちにとっては何のメリットもない。
加えて、当綱はその人柄に他人を引き付けるものがあり、商人たちとも懇意に付き合いをしていたが、祐親は商人たちとの交渉は不慣れであった。
この為、祐親の訪問は単なるお願いにしかならず、交渉とは言い難いものとなる。
だが、そうはいっても無い袖は振れないことから、商人たちは渋々と繰り延べ返済に応じることになるが「祐親様、当家では米沢藩とのお取引は金輪際お断りさせていただきます」と帰り際に塩を撒かれる厳しい訪問となってしまった。
次いで行なったのが、あらゆる支出の削減であった。
これにより興譲館の学生も半分となり、神保綱忠もこの煽りを受けて休職となる。
加えて、竹俣当綱が推し進めていた事業のほとんどを閉鎖又は縮小し、藩の支出を限界まで引き下げた。
この政策は、忽ちの支出を抑えることが出来るが、将来収穫できる実が成るはずであった苗木を引き抜くに均しい行為であり、先細りにしかならない。
又、常々『使うべきところには金を惜しむな』と言っていた治憲の思いから遠く離れた政策であった。
しかし、当綱、善政の2名の離反が治憲の精神面に与えた衝撃は大きく、落胆し切った治憲には祐親の方針に異を唱える気力も無かった。
加えて、そのような事を言っておられぬ事態が米沢を、いや東北を中心に日本全土に襲いかかる。
天明2年の春、その知らせは江戸屋敷に届いた。
「お屋形様、弘前藩の岩木山が噴火したそうでございます」
それを聞いた治憲は『火山灰が降り積もると作物に影響が出るかも?』と漠然と考えていたが、ふと前世の記憶で火山の噴火による冷夏の被害を思い出す。
『そう言えば、たしかあの時の冷夏の被害も火山の噴火が引き金だったはず・・・』と前世の記憶を手繰る。
『あの年は米の収穫が落ち込んでタイから米を輸入したけど、日本の米と品種が違うから大不評で問題になったな〜』と平成の米騒動を思い出していた。
『いくら米が無いからとは言え、インディカ米を輸入するとは、当時のタイ米の輸入を決めた役人は日本の米がジャポニカ種なのすら知らないのか…と見当違いな対策に腹を立てたな〜』と当時を懐かしむ。
しかし…今の時代であれば品種などと言っている場合ではない。いや、米にこだわることすら難しく、口に入るならどんな穀物でも手に入れたい。
「祐親、聞いての通り岩木山の噴火でこの夏は冷夏になる危惧がある。今から備えておかねば、大変な事になるやもしれん。他藩から米を買い付けるにも、今から渡りを付けておかねば穀留で手に入らんようになかもしれん」と告げる。
注)穀留・・・飢饉などの時に他藩に対し米の出荷を止める措置
「備えはどのようになされますか?」と問う祐親に「とりあえず越後などの米所で米の買い付けができるように手配しておけ」と指示する。
「加えて、酒と菓子に米を使わぬようにして、米以外の穀物も確保しておくよう触を出せ」と穀物の備えを増やすように伝える。
とりあえず冷夏への備えは行なったが、何とか例年通りの収穫が出来れば良いのだが…と祈るように曇った空を見上げた。
しかし、治憲の願いを嘲笑うかのように最悪の報告が届く。
「浅間山が噴火しました•••」
日本の近世において最大の被害をもたらす≪天明の大飢饉≫が始まろうとしていた。




