七家騒動 その2 治憲23歳~
須田満主らの軟禁から解放された私は、城内の藩士を大広間に呼び寄せた。公正を期すため、高敦ら七家にも出頭を命じたが、病気を理由に姿を見せなかった。
集まった藩士に対し高敦らが差し出した45カ条の訴状を読み聞かせ、先日の顛末を告げた。その上で、「さて、皆に問う」と呼び掛けた。
正直に言えば藩主に未練はない。いや、現状の米沢藩の藩主であれば尚更だ。しかし、責任も感じており、ここで投げ出すのは違うとの思いもある。
しかし、今回の騒動を受け自分の改革案は本当に藩士、領民に受け入れられているのか?•••との不安もあった。何よりも満主らを断罪するには、事実確認は必要であると考えていた。
「私が推し進める倹約令や開墾政策、植林事業であるが、藩士、農民のすべてが反対している、と訴状には書かれておる。皆に問うが、これに相違ないか?」と藩士全員の顔を見渡す。
「他にも書かれているが、この訴状の内容は正しい指摘であろうか?」と続け、「不敬は無い故、何でも申してみよ。皆がこの訴状に賛同するのであれば、私は家督を放棄し、高鍋に帰ろう」と告げる。
大広間は静まり返り、誰一人として声を上げようとしない。『これは・・・負けかな』と感じていた。『高鍋に帰るか。九州は気候も温暖で米沢よりは暮らし良いかな?だが幸姫のことだけが心残りだな』と考えていると、おずおずと下座から手が上った。
「恐れながら申し上げます。私ども足軽におきましては、お屋形様の倹約令に不満はございません。何よりもお屋形様自らが率先して倹約されておりますことを聞き及んでおります」との声があがった。それは、以前福田橋の修理を手伝っていた足軽の一人だった。
その声を皮切りに賛同の声が渦巻く。
「皆の者、本当に良いのだな。我が藩の現状は、まだまだ厳しい故、これからも倹約を続けることになるぞ」と問うと、「お屋形様は、いつでも自らが率先しておられます故、私どもは信頼しております」と皆が平服して答えた。
私は溢れそうになる涙を堪えながら、「米沢藩の立て直しを成し遂げるには、藩士、領民、皆の協力が不可欠故、これからもよろしく頼む」と頭を下げた。
その頃、須田満主邸には騒動を起こした七家と、その首謀者である儒学者の藁科立沢が集まっていた。
「これ立沢よ、倅の思惑のようにならんかったではないか」と満主が責める。
「恐れながら、大殿様がお屋形様を排除して、実子の治広様をお引き立てになるであろう、との読みは御家老様も賛同なされましたが・・・」と恐縮しながらも反論する。
「そもそもは、そなたが録を減らされた逆恨みと、細井平洲への嫉妬でお屋形様の糾弾をそそのかしたのであろう」と、もはや責任のなすりつけ合いとなり、修羅の場となっていた。
「須田満主、芋川延親、千坂高敦、色部照長、長尾影明、清野祐秀、平林正在の七家に加えて藁科立沢か」、とこの度の騒動を起こした者の名をあげた。
「さて、どのように裁いたものか」と頭を悩ませる。
この時代の常識で考えれば、今回の騒動に加わった七家は切腹の上お家断絶で、一族郎党まで責が及んでもおかしくない。何といっても、藩主を軟禁してクーデターを企てたのだから。
しかし、昭和、平成の記憶がある私には、死罪(切腹)と言い切る勇気もなかった。加えて、若干の負い目もある。『大殿様の裁量ではあるけど、竹俣当綱が森平右衛門を暗殺して無罪なんだよな~。死罪を申しつけると当綱との差がでてしまう』と思い悩む。
加えて≪連座制≫と言える一族への責の飛び火は、昭和の記憶がある私には納得ができない。
とは言え、これだけの事を起して甘い処分を出せば、幕府にも言い訳が立たないし、藩士にも舐められてしまう。
思い悩んでいる私に大殿重定公が声をかけてきた。「治憲殿、老臣などもおる故、この度の裁きはし難かろう。儂が沙汰をだそうか?」と聞いてくる。
正直に言えば『ありがたい』と思った。しかし、『お願いします』の言葉を飲み込み、「この業は私が背負わなければならないものです。人を裁く以上は自分も裁かれる覚悟を持って裁きます」と拳を握りしめた。
『この藩改革が頓挫した場合は、私は藩士、領民において裁かれよう』と決意し、今回の裁きを下した。
首謀者の藁科立沢は斬首。中心となった須田満主、芋川延親は切腹。他の者は隠居、閉門などとした。但し、処罰は本人のみとし、二年後には須田、芋川家は子孫が家を継ぎ、他の五家も閉門を許すことになる。
最大のピンチであった七家騒動ではあるが、結果的に反対勢力の粛清となった。このため、以降の政策はスムーズに進むことになる。
加えて、二名とはいえ重臣へ切腹を申しつけたことが一罰百戒となり、藩士たちの心構えを正すことに繋がったことは、今後の改革にとって有意義な結果となる。
こうして、いよいよ本格的に改革が進み出した。