七家騒動 その1 治憲23歳 ~
相変わらず、参勤交代の国入りとは思えない粗末な衣服の集団が、江戸から米沢を目指して進んでいた。
『藩主となって3度目の国入りか…。しかし、この参勤交代制度って本当に無駄だよな~』と考える。『改革を進めようにも、1年置きに現場を離れることになるし、なによりも経費がかかるからな~』と前世の感覚では思う。そして、『出来れば早めに家督を譲って、改革に集中したい』と考えていた。
いつもの通り、国入りした行列が福田橋に差し掛かる。ふと前を見ると、福田橋で何やら作業をする人足がいるが、そこに混ざり作業をおこなう藩士たちが目に入った。
話を聞くと、雪解けの増水で橋が壊れたため修理しているとのこと。しかも人手が足りず、藩主の私が帰るまでに修理するため藩士たちが手伝っている•••との事だった。
それを聞いた私はその場で馬を降り、雪解けでぬかるんでいる道を歩き橋に差し掛かった。
それを見た藩士たちが工事の手を止めて「お屋形様、足元が悪うございますから馬にお乗りください」と叫ぶ。
私は「藩士の皆が心を込めて修繕してくれている橋を、何で馬に乗って渡れようか。皆、御苦労である」と声をかけて歩く。
その後ろから、家老の須田満主が「何を馬鹿げたことを。藩士が人足の手伝いなど、本来であればお屋形様が叱責すべきところであろうに」と乗馬したまま忌々しげに藩士を睨みつける。
倹約令が出ているため、治憲は木綿の袴姿だったが、満主は上杉家の体面があると言って、絹縮緬の羽織を着ていた。
安永2年6月27日未明、ついに事は起こる。
治憲のやり方に納得のいかない須田満主と千坂高敦を筆頭に、老臣、家臣ら七名が、まだ夜も明けきらぬうちから治憲の元を訪れ、書状を突き付けて回答を求めたのだ。
書状の内容は、『倹約令の撤廃』『米沢藩の重臣を重んじて、江戸の家臣を排除すること』『竹俣当綱の罷免』など45カ条にも及んでいた。
須田満主は訴状を手渡し「今すぐにこの訴状への回答を」と迫り、「回答なき場合は幕府に申し出る覚悟」と迫ってきた。
「まずは訴状を読んで検討する故、回答は後日する」と答えると、「今すぐに御回答くだされ。回答をいただくまでは一歩も動きませんぞ」と譲らない。完全に軟禁状態となってしまった。
仕方なく訴状を読み進めると、私の行う倹約令や改革案に対して、『全藩士や全領民が納得していないので改めよ』と書いてある。また『事を決める時は米沢藩の重臣である自分たちに相談して決めろ』とも書いてある。
チート能力はないが、これでも前世では定年まで会社勤めをしてきた。それもブラックな環境でだ。ある程度のマネジメント知識はある。
前世でも、『皆がそう言っている』と自分を全体の代弁者かの様に振る舞う者はいた。そして、大抵の場合その意見は『個人の思い込み』か、『少数の偏った思い込み』がほとんどだった。
今の米沢藩の現状は、いわば瀕死の状況であり、意志決定は何よりもスピード重視を第一に考え、上意下達を重んじた。
今の米沢藩に、ハンコを押すだけの重役の意向を聞く余裕などない。そもそも、そのやり方で20万両の借財ができたのに、元に戻せとは何を考えているのか?
と、内心で呆れながらも、この状況を打開する方法が思いつかない。実質軟禁状態であり、下手なことを言えば刀を抜くことも厭わない気配が漂っている。7名が皆興奮状態のため、集団心理で歯止めが効かなくなっている感じだ。これは困った・・・
そのまま昼過ぎまで押し問答が続いていたが、そこに救いの手が差し伸べられた。
部屋の様子がおかしいことに気づいた佐藤文四郎が、大殿重定公を連れてきてくれたのだ。
「お主ら、何をしておるか~!!」と重定が私を軟禁していた7名を怒鳴りつける。
「今すぐに、治憲殿を開放し、そなたらは自宅で待機せよ!」と重定がきつく告げた。
こうして半日以上にわたる軟禁状態から解放された。
すぐに厠に飛び込んだのは内緒にしておく。
やっと、七家騒動まで辿り着きました。
上杉鷹山氏の藩政初期の最大の出来事になります。
これからも応援よろしくお願いします。




