幸のしあわせと当綱 の活躍 治憲22歳〜
~幸姫の幸せ~
 
米沢藩江戸屋敷にて•••
「お屋形様、お疲れにございますか?」と莅戸善政が問いかける。
「そうじゃな。本日はこれまでにしよう」と開いた帳簿をしまい込んだ。
 
まだ日は高いので、幸姫の様子を見に行こうと奥の院を訊ねることにした。
「幸よ。変わらず元気か?」と尋ねる。言葉は届いているのかわからないが、私の顔をみた幸姫はうれしそうに笑う。その笑顔は何の邪心もない、まさに『天女』の笑顔だ。
 
「今日は、人形で遊ぼうか」と持ち込んだ人形を出す。贅沢な人形など買えないため、端切れで作った素朴な人形に「にんぎょ~ かわい~」と嬉しそうに手を出す。
「私が国元に帰っている間は、この人形を私と思っておくれ」と人形を手渡すと、「にんぎょ~ はるさま~」と粗末な人形を抱きしめる。
 
その笑顔に、前世での娘がまだ幼かったころの姿が重なる。そう言えば、娘も人形が好きだった。桃の節句には、欠かさず雛人形を出して祝ったな~、と前世を懐かしむ。
 
豪華な雛人形など、今の上杉家に準備ができるはずもなく、準備ができたとしても幸にはわからないだろう。それよりも、この粗末な人形の方が幸には大切なものとなるだろう、と人形に夢中となっている幸を見つめる。
次に訪れる時には、女性の人形を持ってこよう。そして、赤子の人形も。どんな風に喜ぶかな~、と次の来訪に心を寄せる。
 
傍らで見ていた侍女が「あれ、幸姫さまが嬉しそうに~」と涙ぐみ、「お屋形様が訪れた時は、幸姫様はいつもご機嫌になられるのですよ」とほほ笑む。
私が訪れたくらいで笑顔になるのであれば毎日でも顔を出したいが、今の藩財政がそれを許さない。
 
しかし、幸の笑顔は私に元気を与えてくれる。まもなく国元に入るので、しばらくはこの笑顔もお預けになる。
「では幸よ、元気でな」と幸姫に声をかけ、部屋を後にする。
その時・・・、部屋を出る直前にかすかに声が聞こえた気がした。
 
「幸せだよ~・・・」それは、幸姫の声なのか、天国にいるはずの娘の声だったのか?
いずれにしても、天女の囁きであったのは間違いなかった。
 
~竹俣当綱の活躍 ~
 
ある日の朝、「お屋形様にご相談がございます」と竹俣当綱が訪ねてきた。その顔は、何かの決意が伺われる。
 
「当綱、そのような怖い顔をしてどうした?」と尋ねる。
「恐れながら、藩の借財につき商人と交渉を行おうと考えております。そこで、この件につきまして、私めに一任していただきたく、またその旨を書した書付をいただきとうございます」と切り出してきた。
 
「一任するのは良いが、具体的にはどのように交渉するつもりじゃ?脅しつけたり、上杉家の威光を盾に搾取はならんぞ」と釘を刺しておく。
「先ずは三谷三九郎家との関係を改善します」と述べ、「次いで、本間、渡辺家等の借財につき利子の免除か減額を頼んでみます」と告げた。
 
「三谷家と言えば、江戸の豪商なれど且方が粛清した森平右衛門の不義理が原因で、一切の取引を断られておろう」と問うと、「はい、ただ私めが森を粛清したことに好印象を持っていただいており、今回交渉に応じていただけると聞いております」と力強く答える。
 
「この度、古い借財につきましては出来れば債権放棄を依頼し、無理であれば金利の免除か減額と、返済期間の延期を依頼します」と述べ、「その交渉の為に、お屋形様の書付をいただきとうございます」と言う。
「ほう、それが叶うなら書付くらい出すが、どのように使うつもりじゃ?」と尋ねる。
「されば、減額の見返りとして藩の特産品を優先的に降ろすか、場合によっては専売を条件と考えております。ご了承いただけますでしょうか?」と頭を下げた。
 
私は少し考えて「祖方の思うようにやってみよ」と許可をした。
 
 
この交渉は成功し、三谷家では過去の債権を放棄しただけでなく、新たに低金利で貸付が叶う。この当綱の苦心により借金返済に若干の目途が立った・・・かのように思ったが、残念ながらそう簡単に借金返済はならないのであった。
 
しかし、この交渉で得た資金により100万本の苗木植樹計画は大きく前進することになる。
 
 
当綱は届いた漆の苗木を前にし、『この苗木が4年後には成木となり、藩財政を豊にしてくれるであろう』と感慨深げにつぶやいた。
桑の木と楮の手配もおこなっているが、漆の木は今現在も年貢として活用されており、謂わば即戦力の樹木である。このため、最優先での手配をおこなっていた。
 
注)漆は雄木と雌木があり、雌木になる漆の実から蠟が取れる。この蠟から蠟燭が作られるため、蝋を年貢として徴収していた。また、樹液は漆器にも使われる。
 
結果的には、この漆を最優先にしたことが植樹計画の躓きに結び付き、竹俣当綱が錯綜する引き金となる。
それは、西からの新しい波であったが、当綱を含め歴史に詳しくない治憲にも予見できるものではなかった。
 
 
 




