雨、袖振らむ
その日の帰り道。午後から降った滝のような大雨は通り過ぎたが、ポツポツとした滴たちが引き継いで町を濡らしていた。
凸凹続く道のあちこちでは、大小様々な水溜りが広がっている。
家路を辿っていた綾斗は、ため息ばかり。彼は雨が苦手だ。傘を差す手間やじめじめとした空気、気分を下げるような灰色空が主な理由だ。
オマケに少し前に、通り過ぎた車が水溜りを轢いたことで跳ね、制服のズボンの半分を濡らす不運にも見舞われていた。
「雨の日なんていやだ。間違いない」
そんな気持ちを綾斗は、さらに深い溜め息に込めた。そして水気を含んだ冷たい裾と共に、再び家路へと前進した。
翌日も雨が降った。昨日は午後から降り出したが、今日は朝から降っているため、綾斗は憂鬱で仕方なかった。
「雨の日の登校は嫌なんだよなぁ」
「へぇ、私みたいじゃん」
玄関前の姿鏡の前で髪をとかしながら姉の絢佳が言った。櫛で丁寧にとかしつつ、器用にツインテールを作っている。
「雨は濡れるし冷たいし、何よりじめっけた空気が好きになれないや」
うねる前髪を整えながら綾斗は吐きこぼす。
「濡れるのも冷たいのも雨だからしょうがなくない?じめじめはまぁ、嫌だけど」
「あぁ。せめて雨降っても面白いことがあればなぁ」
「あるといいね。んじゃ、行ってきます。鍵閉めてってね」
そう言い残して絢佳も学校へと向かった。傘を広げるバサっという音が、しばらく耳に残った。
「俺も行かなきゃ」
身なりを整え、綾斗は渋々歩き出した。
授業を終え放課になった。雨はいまだに降り続けていた。雨特有の甘い匂いが、いつもの景色を漂っている。水溜りには滴が降り落ちて放射状の波紋を描く。
校門の前や周りでは色とりどりの傘を広げた生徒たちが群れていた。中には傘を忘れたのか、鞄で頭を守って走る生徒もいる。
そんな群れを眺めながら、綾斗は傘を広げる。紫色の青い傘。シンプルな色合いが気に入って買ったお気に入り。
お気に入りの傘はあるものの、やっぱり雨は好きになれない。そんな矛盾に対しても、溜め息をついてしまう。
「はぁ…、早く帰ろう」
踏み出した足取りは、鞄と共に重かった。
歩いているうちに、傘を打つ音は大きくなった。ボトトト…、と音が鳴り、柄に振動が伝わっていく。
雨が勢いを増す前に帰ろうと、綾斗は小走りで駆け出した。濡れた道を踏みつける度に、ピチャピチャと奏でて傘が揺れる。パラパラと滴を辺りに撒いていく。その滴は時折、綾斗の手や足元に不時着していく。
しばらく走っていたが、結局家に着く前に雨は土砂降りに化けてしまった。打ち付ける雨粒はまるで弾丸のようで、傘を上から押しつぶす。
水溜まりたちはひとつに連結し、ひとつの大きな川のようになった。
綾斗は先程と逆にゆっくりと歩いていた。もう走っても意味は無いと、戦意喪失していたのだ。水量と勢いは綾斗の靴を飲み込み、彼の靴下を湿らせた。
「うっわ…、最悪」
綾斗は足元に浸食してきた寒気により渋い顔を作った。吐き捨てた溜め息は、大雨の轟音の中でもよく聞こえた。
綾斗は濡れた道を進んでいた。歩けば歩くほど果てしなく感じ、手足は冷えて感覚を鈍らせていく。ここまで歩く間に何度持つ手を替えたのか忘れてしまっていた。
そこからまた少し歩いた時、草葉が刈られてさっぱりとした空き地が見えてきた。そこは元々小さな公園だったが、綾斗が高校に入学してから程なくして遊具が撤去され、今の空き地になってしまった。
そんな空き地に近づいた時、綾斗は不思議な光景を見た。
「なんだ?あれ?」
向ける視線の先にあったのは、空き地に立つ一人の女の子の姿だった。
綾斗とそこまで背は変わらず、花の模様で飾られた水色の着物を着込み、足には草履を。黒くて長い髪。素顔は後ろ姿で分からない。
空き地の真ん中に立ち、右腕を大きく上に伸ばしている。その腕を右左と往復させ、繰り返している。振られた袖はゆらりと軽く靡き、まるで何かを誘っているように見える。
「何やってるんだろう…?」
異様だった。この大雨の中で、雨具を持っていないことが、帰ろうとしていないことが、綾斗は一番異様だと思った。
しかし、気が付けば見入っていた。見つめているうちに、どこか美しさに似たものを感じていた。濡れて重たい靴のことも、今だけ忘れていた。
しばらく眺めていると、女の子は動きを止めた。そしてその場に立ち尽くし、遠くを見つめながら雨を浴びていた。
(本当に何なんだろう…?)
いい加減に帰ろうと思い向きを変えた瞬間、傘を打つ雨の音に混ざって、それでいてはっきりとした声が綾斗の鼓膜に触れた。
「気付いていたのでしょう?」
綾斗はハッとし、後ろを振り返った。
すると女の子は初めて、綾斗の方に身体を向け、その素顔を見せた。光を宿した藤色の瞳に黒く濃い麻呂眉、艶やかな肌が綺麗。
その隠形こそ人間だが、なぜか人とは違うような空気も混ぜ込んでいる。
「まさか見られていたとは。びっくり」
そう言って女の子は微笑んだ。
「えっと、何かごめん」
「いいわ。悪意はないでしょ。分かるわ」
女の子が纏う空気は、綾斗のいる空気とはまるで違った。現実にあるような、それでも非現実的な、とにかく言葉に上手く表せない儚さに近いものがあった。
「君、名前は?」
「俺?俺は成田綾斗。君は?」
綾斗が聞くと、女の子は綾斗の前にゆっくりと近づき、その身分を明かした。
「私の名前は、慈雨」
慈雨は、軽く会釈した。綾斗も釣られて会釈を返す。
「君は何をしていたの?こんな雨降りの中で」
「ちょっとした仕事だよ」
「仕事?」
「うん。まぁイマドキ表に出ない仕事かもしれないけどね」
慈雨は綾斗の前で、ゆっくりあの袖を振る仕草をした。それを見ている綾斗は、いまだ変わらず困惑顔。
そんな顔を見て、慈雨は歯を見せてくすくすと小笑いして答えた。
「占い師、だよ」
答えを聞いても、綾斗の頭から「?」は消えなかった。むしろ新たに生まれた謎に、またひとつ首を傾げることになった。
難しい表情をする綾斗の顔を見て、慈雨はまたくすくすと小笑いした。
「な、何が可笑しいのさ?」
「いや。やっぱり困惑してるなーってね」
「そりゃあまぁ…、占い師だなんて言われても、すぐに受け入れられることないし…」
「まぁそりゃそうだよねー」
「それに、占いなんて胡散臭いよ…。そんな百パーセントがない仕事なんて」
「ほほぉ…」
綾斗の言葉に、慈雨は怪しげに微笑んだ。まだ見せていない底があるような笑み。
「胡散臭い、と言ったかな?」
「え…、まぁ」
「それなら見せてあげようかな?私の占い師としてのチカラ?的なやつ」
慈雨は自信満々にそう言うと、目を閉じて、例の袖を振る仕草をし始めた。右に、左に、右に、左にと、ゆっくりと撫でるように往復させている。
綾斗はそれを半信半疑で見ていた。何をしようとしているのかという疑問と、これから何が始まるのだろうという興味があった。
数分振り続け、綾斗の顔が冷め始めた頃。慈雨が閉じていた目をパッと見開いた。そして振っていた右腕を、勢いよくバッと振り上げて動きを止めた。
綾斗も追うように腕の先を見たが、特に何か起きた様子は無い。自分の周りかとぐるっと見回してみても、やはり何も無い。
「やっぱり何も無いじゃないか」
「言い切らないで。ほら、来るよ!」
慈雨が虚空を指差した。綾斗もその方向を傘越しに見上げた。
すると、それまでパツパツと大人しく降っていた雨は、綾斗たち諸共押し潰すような重たい雨へと勢いへと変えた。
「うわぁっ!?何!?」
降り注ぐ土砂降りに耐えながら周りを見るに、綾斗だけに降り注いでいるわけではなさそうだ。屋根は打ち付ける滴により飛沫が舞い上がり、草木や電線はゆわゆわと不安定に押され揺れている。
「雨を呼んだんだよっ」
「え!?何?」
「だから!雨を呼んだのっ!」
「雨を呼んだ!?」
慈雨がもう一振りすると、今度は静かに土砂降りが失速し、次第に元の雨へと戻った。
綾斗は驚きが隠せず、握った傘の柄を離せずにいた。冷や汗の代わりに雨水たちが、傘の骨先から滴る。
「どう?凄い?」
「す、凄いなんてものじゃ…」
綾斗はまだ上手く言葉を編めなかった。その様子を見て慈雨は「上手くいった!」とガッツポーズをした。
「で、でもさ、たまたまじゃないの?たまたま強くなった通り雨、みたいな?」
「そう?じゃあここに雷落としてみる?今なら出来る気がする!」
慈雨はどこか脅し気味に言った。
ゾッとした綾斗は思わず首を小刻みに横に震わした。
「ふふ。信じてくれる?」
まだ僅かに疑っていたが、綾斗はコクリと頷いた。
「それで…、慈雨はここで何をしていたの?」
「こうやって袖を振って、晴れの魂を引き寄せてたんだ」
そう説明すると、再び慈雨は特徴的な袖を振る仕草をした。ふわ、ふわ、ふわっと長い袖が雨を弾いて揺れ、穏やかな波を描いている。何度見ても不思議な動きだが自然と目で追うのを止められなかった。
「袖を振るのって、何か意味があるの?」
「あるよ。それはもう深い意味がね」
袖を振りながら、慈雨は説明してくれた。
実はこの袖を振るという仕草の起源は、なんと平安時代にまで遡るという。
「袖を振る」とは、当時は「袖振る」と表現されていて、相手の魂を呼びつける求愛の意味があったとされている。慈雨の仕草はこれが由来で、この力を利用して、晴れの魂を呼びつけることが、慈雨の仕事らしい。
「本当にそんな仕事があるの?」
「とは言っても、最近はやらないんだ。私たちを頼ってくれる人も、今じゃほとんどいなくなっちゃったし」
「言われてみれば確かにそうだよね。実際俺も占い信じてないし…」
「だから少し、寂しくてさ。私のお母さんとかの頃はもう少し依頼してくれたらしいんだけど、今はね…」
慈雨は悲しげに空を見上げた。
確かに現代は、天気予報や雨雲レーダーなどと画期的で便利な技術がありふれている。そんな現代で占いや呪術で天候を心配する人など、もういないと言ってもいい。便利になっていく社会の中で、かつてあったものが忘れられてしまうことを、慈雨は憂いていた。
綾斗はそんな慈雨を見ていた。見上げる横顔を滑る数滴が、雨かそれ以外かは分からなかった。
綾斗は自分にできることはあるのかと考えていた。しかし、何も思いつかない。考えを巡らせながら、草葉から滴が垂れていくのを眺めるばかりだった。
「あ、そうだ!」
突然慈雨が言った。そして目を見開いて綾斗に近寄り、どういうわけか彼の制服の袖を掴んだ。
「え?どうしたの?」
「あなたも一緒にやろうよ、これ!」
なんと慈雨は、綾斗にも袖を振る仕草をすることを提案してきたのだ。
「…え?」
綾斗は困惑していた。まさか自分も袖を振ることになるなど、微塵も思っていなかったのだから。
綾斗は恥ずかしさに首を横に振った。しかし慈雨はすっかりその気になっている。
「は、恥ずかしいよ…」
「えぇ〜、そんなぁ…」
「それに俺じゃ無理だよ…。君みたいに特別な力がある訳じゃないし」
「大丈夫!出来るって!」
綾斗は断り続けたが、慈雨の光を宿した瞳で断りずらくなり、段々無理だと言えなくなっていた。
「力がなくてもいいよ。て言うかある方がヤバいんだし!」
「そりゃまぁ、そうなんだけどさ」
「私が欲しいのは力じゃなくて、綾斗の晴れを望む魂なんだよ」
慈雨は綾斗の胸に手を触れて言った。制服越しでも分かる鼓動が、慈雨の手の平に伝わっていく。
「魂?」
「そう。私はそれを引き寄せる占い師、だからね」
慈雨は空を見上げ、また右腕を上げて左右に袖を振り始めた。綾斗は自分にも出来るのだろうかと、ただ眺めていた。
「ほら、こう!」
慈雨が手を伸ばし誘う。綾斗は少しづつ慈雨の方に近付いた。
「ストップ!ちょっと待ってて」
慈雨の静止で綾斗はその場に止まった。慈雨は懐から数珠を取り出すと、それを綾斗の前で三回じゃらじゃらと振った。
「こんどは何をしたの?」
「まぁま、傘閉じてみ」
促されるままに傘を閉じると、綾斗は思わず自分の目を疑った。
なんと傘を差している時と同じように、頭上で雨が遮られていたのだ。まるで透明な屋根が出来たように、綾斗の周りは雨粒を綺麗に弾いていたのだ。
「これって?」
「綾斗の周りに雨を遮る結界を被せたよ。これで濡れないね!」
綾斗は傘を閉じ、雨の群れに手を伸ばした。はっきりと空間が分かれていることに、綾斗は少し面白くなった。
「ねぇ、これって何を着ててもいいの?」
綾斗は慈雨に尋ねた。
「うん。大丈夫だよ!」
慈雨は袖を振りながら答えた。
「えっと、どうやってやるの?」
「んーっと…、手で無限のマークを描くようなイメージね。こんな感じ」
慈雨は袖を翻しながらお手本を見せた。旗が揺れるように、袖がゆらゆらと漂う。
「こうかな?」
綾斗も見よう見まねで右腕を振った。
「そうそう!いい感じ!」
慈雨が振るのと同じテンポで、綾斗も振っていく。右に、左に、右に、左に。
次第にテンポが合い始めてきた。その頃には、綾斗の心には楽しさが現れてきた。それはただテンポが合ってきたからではない。慈雨との間に芽生えた、言葉では表せない一体感を掴んだからだ。
綾斗は隣の慈雨を見た。その横顔は、自分と同じ表情をしていた。
「綾斗!見て!」
綾斗の腕にも疲れが現れてきたとき、慈雨は空を指さしてはしゃいだ。
指差す方へ目線を送ると、灰色の重たい雲の隙間から、鮮やかな白い光線が差し込んで来ていた。
そして気がつけば、雨粒たちの姿は静かに消えていた。
「晴れた…」
綾斗は差し込んだ光を見ていた。その隣で慈雨が飛び跳ねながら「大成功だ」と喜んでいる。
「ね!出来るって言ったでしょ?」
綾斗はキラキラとした目で頷いた。
差し込んでいく光は曇天を退けて燦然と広がっている。濡れた草葉は光を受けて輝き、電線の水滴はキラキラと乱反射している。
「ありがと、綾斗。あなたのおかげで、こんなに素敵な晴れがやってきたよ」
慈雨は照れくさそうにお礼を言った。
「いや、こっちこそありがとう。晴れにしてくれて」
綾斗も同じように言った。
「凄い綺麗だね。この晴れ空」
「ね。風も心地いい!やり甲斐ある〜」
二人は晴れ渡っていく空を見上げていた。上空で吹き上がる風が、重黒い曇天を奥へ奥へと押し流していく。ほうきで埃を払うように、青くて広い天井が顔を出していく。
その光景が、綾斗と慈雨にはとても清々しく映った。どこまでも澄んでいて、風は濡れた足元を優しく乾かしていく。肌を撫でていく日差しが、冷えた芯を温めていく。
「これからどうするの?」
綾斗は慈雨に尋ねた。
「とりあえず仕事は終わったから、報告して次の場所に行くかな」
「次の場所って?」
「そりゃあ次の場所だよ。次の晴れを望んでいる場所にね」
慈雨が語るに、彼女は次の依頼を控えているらしく、近いうちにそこに向かうことになっているという。そのため、しばらくはこの町を離れるのだと言った。
「そっか。少し寂しくなるね」
「おっと?そう思ってくれるの?優しいねぇ〜」
慈雨はくすくすと笑って肩をポンポンと叩いた。この数時間で、いつの間にか二人は距離がかなり縮まっていた。
「でもそうだね。私も少し寂しいな。せっかく出会えたのに…、って感じ」
慈雨は寂しそうにしゅんと俯いた。
そんな慈雨に、綾斗はひとつ言葉を贈った。
「俺は信じるよ。慈雨が本物の、凄い占い師だってこと」
綾斗ははっきりとそう言った。それを聞いた慈雨は、照れながらも嬉しそうに頷いた。
「もしこの町にさ、今日みたいな雨が降ったら、またここに来ようと思う。その時は二人で一緒に、袖を振ろうよ」
その言葉を聞いた綾斗は、慈雨と同じような笑顔で答えた。
慈雨の表情は、快晴の晴れ空よりもパッと晴れた。
「うげ!姉さんの連絡気づかなかった…!」
スマホの振動に気付いた綾斗が確認すると、帰りが遅いことを心配する絢佳からのメッセージ通知が何件もたまっていた。
「あははっ。つい付き合わせちゃった。ごめんね」
「いや、大丈夫。楽しかったし」
綾斗の笑顔に、慈雨も釣られて頬が緩んだ。
「私もそろそろ戻るね。次の依頼への準備もしなきゃ」
「うん。じゃあ、またね!慈雨」
綾斗は慈雨に手を振った。慈雨も手を振りながら、袖も一緒に揺らしていた。
お互い帰ろうと思ったが、惜しくていつまでも、手を振り続けていた。
「綾斗!どこで道草食ってたのよ!?」
帰ってきた綾斗に、絢佳は慌てて駆け寄った。
「ごめん姉さん。寄り道が長引いた!」
「ならせめて連絡しなさいよ〜!」
安堵しながらもムッとする絢佳に謝りながら、綾斗は靴を脱いで手を洗いに行った。
「あれ?綾斗、傘開きっぱだよ?」
バンドが留められていない綾斗の傘を見て絢佳が言った。
「あぁそれ?そのまんまにしといて」
「え?なんで?」
「いやぁなんというか、閉じたくないというか、ね」
「ふぅん。ま、いいけど」
それから数日、晴れの日が続いた。天気予報では連日、とても良い天気となるでしょうと報道されていた。
絢佳や母はそんな連日を喜んでいた。綾斗も数日は同じだった。苦手な雨の降っていない登下校は、面倒もなく気持ちも軽い。
しかしそれは、あくまでも数日だけだった。次第に綾斗は、自分の心に何かぽっかりとしたものがあることに気付いた。
すっかり乾いた傘を見て、綾斗は寂しさが込み上げてきた。
慈雨との出会いから数ヶ月経った朝。綾斗は天井をパツパツと叩く音で目を醒ました。
寝ぼけ眼でカーテンを開けると、窓にはたくさんの雨粒が滑り、ひとつひとつがてらてらときらめいていた。
「雨だ…!!」
綾斗は嬉しくてたまらなかった。そしていつものように晴れを望んだ。
「ひっさびさの雨だね〜。髪うねるなぁ…」
絢佳が溜め息をこぼしながら髪をとかしている。しかし綾斗は、様子が違う。
「そうだね〜!久々の雨だね!」
「ん?なんかあんた嬉しそうね」
「まぁね!じゃあ行ってくる!」
「行ってら〜。って早っ!」
ハツラツと登校して行った綾斗の背中を、絢佳は見送った。
「あれ…?綾斗傘忘れて行ってる…」
放課後。綾斗は誰よりも早く校門を通り過ぎていた。雨粒を受け、ぴしゃぴしゃと水溜まりを弾かせながら駆けていた。
綾斗が足を止めた先は、草葉が刈られた空き地。そこはかつて、慈雨と短い不思議を過ごした思い出の場所。
しかしそこに慈雨の姿はなかった。雨に濡れた土地が広がり、慈雨の立ち姿の幻が揺らめいているだけだった。
綾斗は慈雨が立っていた空き地の真ん中に立った。冷たい雨が髪をすり抜けて頭皮に触れ、頭から順に冷えていく。吐いた息は一瞬漂うと、すぐに儚く消えた。
綾斗は自分の袖を見ていた。すっかり雨に濡れた袖は、紺色の生地の上にさらに濃い紺の丸を描いていた。
綾斗は何気なくその袖をゆっくりと振った。慈雨に教えてもらった動きで、教えてもらったテンポで、ただ晴れを待ちながら。
もう雨の冷たさやかじかんだ手など気にならなかった。それくらいに綾斗は、それまで知らなかったおまじないに夢中になっていた。
「風邪ひくよっ」
何度か振った時だった。後ろを振り返ると、あの人同じ姿の慈雨がいた。変わらない姿に、綾斗はほっとした。
「君もね」
「私は結界があるもん」
久々の対面に、二人は思わず吹き出した。そして雨の音に混じえて、挨拶を交わした。
「やっぱり来たんだね。綾斗」
「忘れられなくて。それにほら、約束したからね」
綾斗が交わした約束を憶えていてくれたことが、慈雨はとても嬉しかった。
「そうだ、綾斗」
「ん?どうしたの?」
慈雨はそっと懐に手を入れてまさぐった。そして四角い一枚の紫色の布を取り出して、綾斗に差し出した。
「これは何?」
「羽織だよ。綾斗に着て欲しくて自分で一から縫ったんだよ」
慈雨は羽織を綾斗の前で広げた。淡い紫の生地に、黄色い糸で咲いた紫陽花があでやかに広がっている。
「凄い…!これ、本当に一から?」
「まぁね。裁縫とか得意だからねっ」
慈雨は誇らしげに腕を組んだ。
「そういえば、慈雨にも花の模様あったね」
「おっ気が付いた?私のにもあるんだよ」
綾斗は鞄を下ろして羽織の袖を通した。サイズはぴったりだ。
「うん。よく似合ってる!」
「そうかな?それならいいんだけど」
綾斗は羽織の袖を軽く揺らした。なんだか自分も、慈雨と同じ力を得たような、繋がりあえたような気持ちになった。
二人は羽織姿を眺めながら雨を浴びていた。髪の先から雨粒が、光沢をもって落ちていく。そんなことも、今はとても眩しい。
「さ、やろ!」
そして綾斗と慈雨は袖を振り始めた。二人で同じテンポで、右に、左に。右に、左に。
燦燦と降り注ぐ雨を弾いて、紫陽花の袖は翻る。晴れを願う綾斗たちの魂が今、静かに引き寄せられていく。
綾斗は心の底から袖を振ることを楽しんでいた。慈雨と息を合わせることで、目には見えない何かが束ねられるような気がする。友情よりも固い何かが、重なるような気分になる。
やがて、また空に青い晴れが広がった。太陽は冷えきった町に温度を与え、露が反射する光は四方八方に届く。
すっかり雨が去ってもなお、二人は袖を振っていた。もうとっくに腕が疲れていたが、止めることはしなかった。
なぜならお互いこの時間が、何より再びこうして再開出来たことが、晴れ空よりも素晴らしい時間だと、思っていたから。