†家出†瑞智 桜Ⅰ
姉の微笑みに、由貴は身を硬くした。
背中に悪寒が走る。まさに、蛇に睨まれた蛙の心境だ。
「……今日ね、内田先生に会ったの……」
出て来た名前に、由貴は次に出て来る言葉を悟り……
「俺は旅に出るからっ!」
一目散に、その場から逃げ出した。
「あっ!こら待ちなさい!」
背後から静止の声が聞こえる。外履きがその場になかった紗貴は、追いたくとも手段がない。
「待てよ!俺も行く!何か楽しそうだからな」
言いながら、敦が由貴の後を追う。
由貴にしてみれば、楽しいだなんて冗談じゃないっ!
だが、一人旅程味気ないものもないかと思い直す事にした。
「あら、ゆんちゃんお出かけ?」
慌てる息子の足を止めたのは、玄関先を掃いていた母の暢気な声だった。和装の似合う女性である。
「どこ行くん?」
「それは聞かないでくれっ……俺は男の旅に出る………家出するんだ!」
そんな息子の爆弾発言も何のその……
「はい」と財布を手渡した。
「………え?」
呆ける息子に朗らかな笑みを浮かべたまま言う。
「おつかい、よろしゅうな?」
京都に長いこと住んでいた名残は、いつもは心が和むのだが……今はとてもじゃないがそんな気分ではない。既に姉の足音がそこまで迫って来ている。
「だからね母さん!俺は家出するんだって!」
そう強固な決意を宣言する。
親に“家出宣言”もどうかと思うのだが……しかし、強固な決意は次の一言で瓦解してしまった。
「今日は、ゆんちゃんの好きなハンバーグにしよか思うんよ」
「5時には帰るからっ!」
“家出宣言”して30秒も経たないうちに、“帰宅宣言”をしてから慌てて駆け出したのだった。
「牛豚の合挽肉と、玉葱買って来るんよぉ~」
石段を猛スピードで駆け降りて行く息子の背中にやんわりと投げかけた。
「お母さんバカ由貴は!?」
娘の凄まじい剣幕も何のその……
「何や、家出して来るんやって……」
世間話でもするように朗らかに応える。
「家出!?」
思わず目を見開く。
「5時には帰る言いよったわぁ~」
続く母の言葉に、紗貴は肩を落とした。
「お母さん……それ、家出じゃないじゃん……」
そんな言葉と「桜さんや……ちょっと良いかの?」そんな祖父のしゃがれ声が重なった。
“桜さん”と名を呼ばれて声の方を振り返る。
「……あ、さっちゃん何や言わはった?」
娘の言葉が聞き取れなかったのか……申し訳なさそうに言う。
「何でもないよ。ほら、お母さん……おじいちゃんが呼んでるよ?」
娘の言葉に促される様に、屋敷の中に戻っていった。それを見送ってから、由貴の駆けて行った軌跡を睨む。
「私から逃げようなんざ、百億年早いわ……」
―― あんたの行動パターンは、全てまるっとお見通しよっ!
フフフッ……そんな限りなくどす黒い笑みを浮かべたまま、緩慢な動作で携帯を取り出した。アドレス帳からとある番号を選択して呼び出す。
コール2回。
相手が出た。
「もしもし緋岐くん?」
由貴が、地獄行きの片道切符を手に入れた瞬間だった。
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