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札束の棚

作者: スズキ



 大きな欠伸をしてふと壁にかけられたアナログ時計に目をやると、時計の針は午後十二時を通り過ぎて既に日付が変わっていることを示していた。


 カチ、カチ、と時計の秒針の鳴る音が部屋に響く。目の前の机の上には、問題を途中まで解いたまま広げてあるテキストや参考書が無造作に広がっている。


 窓の外からどこかの家の番犬が吠える声が聞こえた。数分もすれば飼い主が眠気で目を擦りながら外に出て、ぐっすり布団のなかで眠っていたところを叩き起こした飼い犬を寒さに震えながら叱りつけるのだろう。


 その飼い主と対照的に、おれはオイルヒーターから発せられる熱が充満する室内で、乾燥で肌がかさつくのを感じながら眠れない夜を過ごしていた。


 十二月に入り、大学入試の共通テストまでもう一ヶ月半を切っていた。学校の教室では休み時間であろうと常に異様な空気感が場を支配していて、この後の人生の全てを決めてしまうたった二日間は確実に迫っていた。


 だがおれはそれに対して一種の焦りを感じはすれども、どうにもやる気を引き出すことができなかった。こんな時間まで起きて机に向かっているのも、受験勉強のためというよりただ単に眠気が訪れる前の空虚な時間を潰すためのように思えた。


 何となくラジオを流しても、中途半端にぼんやりした頭にパーソナリティの声は片方の耳に入ってもう片方の耳からそのまま出ていくだけだった。


 そのことに気がついてなんだか虚しくなったおれはラジオの音声を消した。すると家の外から車のエンジン音が近づき、車がバックして庭の駐車スペースに停まる音が聞こえた。


 少し経って車のドアの閉じる音がすると、家の下の階から玄関が開いて「ただいま」とか細い声が聞こえた。


 部屋の外から階段を登る音が聞こえてきたので、おれは座っている椅子の向きをくるりと回して身体に机に向けると、それとほぼ同じタイミングで帰ってきたばかりの父親が部屋のドアを開けた。


「ただいま」


 父親が勉強している様子の息子に声をかけた。おれは背を向けたまま「おかえり」と返した。


「勉強か」


「うん」


 みれば判るだろと言いたくなったが、実際のところはまったく真面目に取り組んでいないのでそれ以上は何も言い返さなかった。


「もうすぐ試験だな」


「そうだけど」


「調子はどうだ」


「まあまあってとこ」


「そうか」


 がんばれよ、とだけいうと父親は部屋の前から去って自分の書斎へと向かった。書斎の扉が開いて閉じる音が聞こえると、おれは持っていたシャーペンを机の上に放り出した。


 ばかなんじゃないか。一体何のためにおれはこんなことをしているんだろう? そうやっていらついて自己嫌悪に陥っていると、眠気とやる気がさらに遠のいた気がした。


 おれは部屋を出て階段を降りると、台所に行ってポットでお湯を沸かした。そしてココアの粉末の入ったカップに熱湯を注いで、出来上がった甘い液体に口をつけた。


 心の中の棘々したものをココアで溶かしながら、おれはリビングにある棚の上に置かれた写真をみた。小さな額縁の中には旅行でどこかの神社に行ったときに撮った家族写真が納められていて、両親とふたりの姉、そして小学生の頃のおれの姿があった。


 母さんは父が帰るより先にもう眠ってしまっている。大学生の姉貴ふたりのうちひとりは上京してひとり暮らしをしていて、もうひとりはこの家で実家暮らしをしているが今夜は友達とどこかに遊びに出かけている。


 そして父親のことを思い出すとおれはため息を吐いて、持っていたカップを空にして台所の食器洗い機に入れた。


 階段を登るとおれは自分の部屋ではなく、父親の書斎に足を向けた。部屋の扉を叩くと、なかから「どうぞ」と声が聞こえたのでおれはそのまま扉を開けた。部屋の中ではネクタイを解いてボタンをいくつか外したワイシャツを着た父親が、だらしない格好でデスクに座りながらウイスキーを口にしていた。


「まだ起きてたのか」


 父親はおれのほうをみると、手に持つグラスのなかの大きな氷をからんと鳴らした。


「いや、今日も帰りが遅いと思っただけ。また愛人と会ってたのかよ」


 おれの問いに目の前の男は何も言わずに気まずそうな顔をして、琥珀色の酒を口に含んだ。


 数ヶ月前のことだった。今夜と同じように勉強が手につかないまま時間を持て余していたおれは夜食を取りに行こうと自分の部屋を出たとき、書斎からぼそぼそと話し声がするのが聞こえた。


 仕事の電話か。夜遅くまで熱心なことだなと思ってそのまま聞き流そうとしたが、父親の声に続いて若い女の声がしたのが耳に入り、おれはふと階段に向けていた足を止めた。


 気になって書斎の扉に耳を当てると、何やら困った様子で話す父親に対して電話の向こうの女は強い口調で問い詰めているようだった。扉越しにいつになったら奥さんに話してくれるんですか、妻には機会を見つけて説明するから、というやりとりが聞こる。


 ああ、そういうことかとその会話を聞いたおれは自分でも意外に思うほどすんなり納得した。このところ帰りが遅くなったのも、これが理由だったのかと。その次に自分の父親がサスペンスドラマとかによくいるタイプの、若い愛人を持つ油ぎった中年男の仲間入りをしたことにひどい吐き気がした。


 さっさとこの場から立ち去ろうとした時、扉の向こうに気配を感じたのか部屋の中にいた父親がドアを開けた。やつの顔は青ざめているようにも、興奮で顔を赤くしているようにもみえた。その顔色におれは今まで一度も感じたことのない醜さを覚えた。


 あとでかけ直す、と父親は手に持っていた携帯を切ると、少しのあいだ自分の息子にどう釈明するか考えを巡らせているようだった。


「どこから聞いてた」


 父親は睨みつけながらも怯えるような目をこちらに向けた。


「……どんな話をしているかは」


 へたに誤魔化したところで通用しないと察したおれは正直にいった。というより、おれ自身嘘を考えてそれを口に出せるほどの心の余裕がなかった。


「わかった」


 父親は扉を開けたまま部屋の中に引っ込むと自分のデスクの上にある財布を手に取り、カードや紙幣を収めている面を開いた。


「お前くらいの歳なら何かと入り用だろう。このことを黙っている代わりに好きに使いなさい」


 そういって親父は財布の中から取り出した一万円札を一枚おれに渡した。ほんの数グラムしかないはずの紙切れが、なぜかずっしりと重く感じた。


「また必要になったのか」


 深夜に金の無心をしに訪れたおれに、親父は困った顔をしていた。


「最近もやっただろう。もう使い果たしたのか」


「何かと入り用だからね」


 悪びれもせずにおれがそういうと、わかったよと親父は呆れながらしぶしぶポケットのなかの財布を出して、そこから五千円札をおれに差し出した。


「悪いが今月はこれで勘弁してくれ。だけどそんなに何に使うんだ?」


「知らなくていいだろ、そんなこと」


 親父の手にある金を取ると、おれはさっさと部屋から出て行った。おやすみという小さな声が後ろから聞こえた気がしたが、無視して聞こえないふりをした。


 親父の不貞を母さんたちに話すつもりなんて最初からなかった。熱苦しい正義感から告発したところで、家庭内の面倒臭いゴタゴタを起こすだけだ。そんなことはおれたち姉弟が社会人になって家を出てからやってくれればいい。


 もっと言えば、もし父親が自責の念に駆られて全てを告白しようとしたのなら、ここだけの秘密にすると説得して思いとどまらせるつもりだった。そして、脅迫して金を取るなんてこともしなかったはずだ。


 自分の部屋に戻ったおれは勉強机の鍵付きの棚を開けた。そこには何枚もの手づかずの一万円札や五千円札やらが無造作に入っていた。


 そこに手に入れたばかりの金を放り込むとおれは棚の鍵を閉めて、椅子に腰を下ろし背もたれにもたれかかった。


 遠くからまた番犬の吠える声が聞こえた。



この物語はフィクションです。

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