葛の葉
約束をした。
…遠い遠い昔に。
長い年月が経った今もなお、あの時に抱いたこの想いだけは色褪せない。
ああ、なんてものをお前は私に残していったのだ。
おかげで私はこんなにも変わってしまった。
満点の星空の下、横たわる1つの影。
仄かな燐光に包まれた女の頬を、つぅと涙が一筋伝って落ちる。
1つの命が今、旅立とうとしていた。
あの出逢いは、星々に定められた宿命だったのかもしれない。
私はヒトではなかった。
何百年と生きた狐の妖。不思議な力を持ち、白い雪のような毛並みをした狐である。
毛並みの色が違う。異端な奴だ、と。
幼い私は親に見捨てられた。
見捨てられた子狐は、死に逝くが自然界の定め。
それでもどうしてなのか、死にたくなくて。なんとかして生きたくて、私はがむしゃらに日々をただ生きてきた。
いつしか、自分の存在がわからなくなってしまう程の長い長い年月が流れて。
気づけば、私は生きながらにして妖異となっていた。
不思議な力を使えるようになって、ヒトの姿をとることが出来るようになった。そして以前よりも、生きることは難しくなくなっていた。
でも、それがいけなかったのかもしれない。
ある時、動けなくなる程の大怪我を負った。
今となっては理由など覚えていないが、私は全身血まみれで、どうしてかヒトの姿だった。
…ああ、死ぬのか。
ぼんやりとそう思った時。
「おい、大丈夫か!?」
掛けられた声。ほんの一刹那、自分を見つめる目と目が合ったのを憶えている。
それが、その男との出逢いだった。
彼に対して最初に思ったことは“変な人間”だということ。
「ヒトじゃない?ああ、それで納得したよ。そんな綺麗な瞳をした人は見たことがない」
いやぁ…最初は天女かと本気で思ったからね、と。
意識が戻った直後に、私はヒトではないのだと告げると男は楽しそうに笑った。
思わず呆気にとられている時に名を尋ねられ、無いと答えれば。
「では、葛の葉と呼ぶことにするよ。初めて会った時、君は葛の葉に埋もれていたから」
そう男が言ったその日から、私は“異端の白狐”から“葛の葉”になった。
男の名は安倍保名といった。
私が今までに会った人間の誰よりも不思議な人間だった。
彼は重傷を負った私を治療し、自らの邸に住まわせた。
ひとりきりは寂しいから。
そう言って、どこか切ない顔をして笑うものだから、邸を出て行く気がどこかへ隠れてしまったのだ。
そして、男との奇妙な共同生活が始まる。
曰く、貴族の端っこになんとかぶら下がっているだけらしいその家には私と彼の2人だけしかいないようで。
最初は命を救ってくれた事に対する恩義から、ヒトの姿をとってささやかな夕食を作ってみた。
こっそりと隣の邸のヒトを垣間見て、見よう見真似で行動したその結果は、なんとも言えず酷いものだったと記憶している。
それでも彼はとても嬉しそうに笑って、
「美味い!ありがとう、葛の葉。…とても嬉しい」
何度も何度もそう言って、用意した全てを平らげた。
その事が不思議と嬉しくて、次の日も次の日も同じように食事を作った。
いつしか私は常にヒトの姿でいるようになり、男を保名と呼ぶようになっていた。
共にいる、その時間が好きだった。
葛の葉、と。
保名が名を呼ぶ声が好きだった。
保名と共にいたい、と願うようになった。
それはどれも、私が生まれて初めて抱く気持ちだった。
「それは愛というのだよ、葛の葉」
「愛とは何だ?」
「そうだなぁ…ずっと、共に生きたいと。相手が大切だと。そう思う事と同じようなものだ」
「…ならば、これは愛なのか?」
「おそらくは。…私の抱く気持ちも、愛なのだろうなぁ」
「…そうか」
私は、愛を知った。
それは本来ならば不可能とされる事だった。
私は妖の身でありながらヒトである保名を愛し、
保名もまた妖である私を愛した。
そうして保名との間に生まれた、1人の愛し子。
まだ歩く事すら出来ぬ脆弱な赤子を、私は保名と等しく愛しいと思った。
今度は2人で名を付けた。
私の中に流れる妖の血を、ヒトであるその身に宿すその子が、未来に苦しむ事が無いように。
何者にも負けぬようにと、強い言霊を持つ名を選びつけた。
そうして漸く私は気付く。
近い将来に、別れが来ると。この子の為に私は離れてやらねばならない、と。決断は早かった。
ただ、この愛しい我が子を守るために。
保名は言った。
約束をしよう、と。
この先どれほど多くの年月が流れようとも変わらずおまえを愛そう、と。
たとえ、何度生まれ変わろうとも愛し続けると。
「そうして再び出逢えたら、今度こそ永遠に共にいよう」
2人で、泣いた。
生まれて初めて、私は涙というものを流した。
そして幾年かの後に、私は1人邸から去った。…保名と子をそこに残して。
さらに年月は流れて、保名が死んだ事を知る。
ヒトの命は短い。
妖である我が身を呪いながらも、私は生きていた。
保名との約束が私を支えていた。
いつの事だったか、信太の森と呼ばれる地に身を置いていた時にどこか懐かしい面影を持つ青年が尋ね訪れた。
母上、と。
呼ぶ青年にあの赤子の面影を見付けて、心の中で名を呼んだ。
晴明。
それが私達が子に付けた名前。
その名を口に出して呼ぶ事は私には出来ない。強い言霊を持つこの名前を私が声に出して呼べば、あの子は私に気付いてしまう。
それだけの力を、あの子は身の内に宿していた。
母として何もしてあげる事も出来ず、名すら呼ぶ事も出来ない私を、狐の妖異である私、それでも母と呼んで訪ねてきてくれた我が子は。
不思議な力を持ち、陰陽師と呼ばれながらも最期までヒトとして生き、天命を全うして死んだ。
ただ1人、残された私はそれでもまだ生きていた。
愛した者達がいなくなった世界を、それでも葛の葉と呼ばれた白狐は生きていた。
そして今、ようやく全てに終わりを告げようとしている。
動くことの出来なくなった体を、いつかのように木の葉に沈めて、ずっとずっと彼女は待っていた。
約束をした。
…遠い遠い昔に。
保名、保名…きっともうじき逢える。
再び出逢えたら、その時は。
「ずっと、共に…」
涙がまた一筋、頬を流れて落ちる。
これもおまえが私にくれた感情。愛も悲しみも何もかも、保名が私に教えてくれた。
ああ、懐かしい声が聞こえる。
ずっとずっと探していた、あの声が聞こえる。
「やすな…」
閉じた瞳の向こうで、その男は優しく笑っていた。手を伸ばして、懐かしいあの声で、ただ1つの私の名を呼ぶ。
葛の葉、
……やっと逢えたな。
淡い光が1つ、空へと昇っていく。
さわり、と風が誰もいない森を通り抜けていった。
了。