私を小麦畑でつかまえて。
クラリスについて語る。
彼女はアメリカ南部に生まれた。父の名はジョゼフ。軍人である。
クラリスは父が好きだった。小さい頃、かわいいお洋服を着て、大きな父の肩にまたがり、近くを散歩するのがお気に入りだった。この日は家の近くの小麦畑に出向いた。
パパ、あれはなに。
クラリス、あれは小麦畑だよ。
パパ、今日の夕飯はなに。
クラリス、今日はママの特製チキンホットパイだよ。
パパ、またお仕事に行くの。
クラリス、ごめんよ、パパはすぐに帰ってくるから。
パパ、すぐ帰ってきてね、クラリス、お利口さんにして待ってるから。
父は一年後、派遣された戦場から帰ってきた。
両足と両目の視力を失っていた。優しかった父の性格は変わり、母に暴力を奮うようになった。お前は国のために戦場で戦ってきた夫に対して、なんだ、その口のきき方は。ジョゼフはチキンホットパイが盛られた皿を投げる。あなた、クラリスがいる前でやめて。母はクラリスを抱えておびえる。床に飛び散ったチキンホットパイと割れた皿のように、クラリスの家族は崩壊してしまった。
パパが変わっちゃった、怖い人に変わっちゃった。
クラリスは抱きかかえる母の腕の中で涙した。
両親の離婚が成立した。クラリスは自らの意思で父のもとに残った。パパは変わっちゃったけど、本当のパパは優しい人なんだ、私がいないとダメなんだ。幼いクラリスは自分に言い聞かせた。。
ジョゼフは軍人時代の業績により上積みされた傷痍退役者年金をもらい細々と生活をしていた。そして、酒に溺れた。退役軍人会が主催するPTSD(心的外傷後ストレス障害)のセミナーにも参加しなかった。ジョゼフはクラリス以外の者との接触を避けるようになった。
クラリスは学業を頑張った。父に認めてもらいたかった。
学業は優秀。スポーツ万能。そして、正義感に溢れていた。
クラリスは自然と軍人を志すようになった。憧れていたころの父のようになりたかった。クラリスは大学の卒業前に、その思いを父に伝えた。
出ていけ。
ジョゼフはウイスキーのビンを投げた。床に琥珀色の液体が広がる。
お前は歩けない、眼が見えない、そんな父への当てつけで軍人になるのだろう、顔も見たくない。ジョゼフの頭はアルコールに侵されていた。もう正常な判断ができなかった。
クラリスは家を出た。
アメリカ軍に入隊したクラリスはめきめきと力をつけ、アメリカ陸軍グリンベレーに配属された。異例の抜擢だった。他を寄せ付けない圧倒的な実績によるものである。しかし、嫉妬心にかられた同僚たちは、ジョゼフの没落に心を痛めた上官たちの配慮だろう、と噂した。
クラリスは父に手紙を書いた。
パパ、私、すごく努力したの。そして、グリンベレーに配属されたの、私、頑張るわ。
父からの手紙の返答はなかった。
クラリスがグリンベレーに配属されて間もなく。
中東の小国、ペレーシアで内乱が勃発した。極東の大国が独裁国家の国軍側を支援し、アメリカが反政府勢力を支援した。戦闘は熾烈を極め、多くの市民が命を落とした。そんな戦況の中、ペレーシアにある小さな地域が独立を宣言する。
ハンニバル国。
現地に派遣されていたアメリカ陸軍グリンベレーを指揮していたハンニバル大佐は戦闘中、顔に火傷を負い、表情を完全に無くした。そして、彼は治療中に軍を脱走し、その地域を暴力により征服。支配を開始した。
グリンベレーは汚名を返上しようと、秘密裏に精鋭部隊を派遣した。その中にクラリスがいた。
砂漠を大きな軍用車が走る。一路、ハンニバル国を目指す。
途中、ある村によった。
村はほぼ壊滅状態だった。そんな中、一人の少年が軍用車に近づいてくる。
撃て。隊長がクラリスに命じた。クラリスは少年を撃った。少年は軍用車に追い付くことなく倒れた。そして、爆発した。
市民を使った人間爆弾。多くの市民は誘拐され、家族の命と引き換えに、体に爆弾を括り付け、敵なのか味方なのかわからない相手に向かっていく。ハンニバル国の人権を無視した戦法だった。
クラリスの心は疲弊していた。いくら過酷な訓練とメンタルトレーニングをしても、市民がチェスの駒のように死んでいくのは耐えられなかった。クラリスの心は自衛した。考えない。命令に従うだけ。そうすれば楽。私もチェスの駒になるのだ。軍用車は市民を殺して、ハンニバル国の首都に向かう。
首都は名ばかりで、いたって普通の村だった。そして、戦闘が開始された。ハンニバル軍の兵士は市民だった。射撃の命中率は低く当たらない。市民はクラリスたちに次々と撃ち殺されていった。私は駒。クラリスはただ引き金を引き続けた。
クラリスたちは村の家々を見て回る。反抗する市民を撃ち殺された。
そして、ある家にクラリスが入った。
異様だった。血と肉が腐った匂い。飛び交う蠅。天井につるされた人の皮膚。クラリスは吐き気がした。
俺の新しい顔たちだ。焼け爛れた顔のハンニバル大佐が陽気に言った。
もう何も見たくない。パパ、助けて。クラリスは小銃の引き金を引いた。小銃の銃口が光る。飛び交う弾丸。ハンニバル大佐は倒れた。クラリスはその場で嘔吐した。
その後のクラリスの記憶は曖昧だった。彼女は気を失っていたのだ。彼女はジョゼフと同じようにPTSDを発症し、軍を退役した。
クラリスは故郷に帰った。しかし、我が家にジョゼフはいなかった。
近所の住人に聞くと、ジョゼフは重度のアルコール依存症により肝硬変を発症し、近くの病院に入院しているとのことだった。
クラリスはジョゼフに会いに行った。
ジョゼフに意識はなかった。医師はジョゼフの命はもって一か月とクラリスに伝えた。クラリスはなにも感じなかった。クラリスの心に悲しむ余裕は微塵もなかった。
ジョゼフは一か月もかからずに亡くなった。葬儀にクラリスの母も元同僚も来なかった。
クラリスはジョゼフの死後、一人、自宅で本を読んだ。この世界に自分の意識があるだけでも嫌だった。現実逃避。その時のクラリスには必要なことだったのだ。
数か月が過ぎ、クラリスのもとに黒澤というセラピストが現れた。君には才能がある、我々とこの世界を変えよう、と老人は熱く語った。アメリカには馴染みの薄い謎の宗教団体の代表とのことだった。
クラリスは興味がわかなかった。世界を変える。バカな人。そんなことできるわけないでしょう。この世は戦争に満ちて、死で溢れているの。あっちも、こっちも、戦争だらけよ。平和な世界にできるなら、とうの昔になっていないとおかしいわよ。早く帰ってほしいわ。
クラリスの死んだ表情を見て、黒澤は帰っていった。
パパ、私はどうすればいいのかしら。クラリスは無意識のうちにジョゼフの部屋に入った。部屋はジョゼフの死後、そのままだった。気持ちの整理がついていないクラリスはこの部屋を片付ける気持ちになれなかった。クラリスは机の引き出しを引く。そこにはクラリスがジョゼフに送った手紙が保管されていた。小さい頃、父が負傷して帰ってきたばかりの頃、父のもとを離れた頃、グリンベレーに入った頃。十数枚の手紙は綺麗だった。
パパ。クラリスは呟いた。
そして、父の手紙を見つけた。
クラリス。どこにいったんだい。また小麦畑で遊んでいるんだろう。男まさりに育ってしまって、まったく困ったものだ。早く帰ってきなさい。お家でママがチキンホットパイを作って待っているよ。
アルコールに頭が侵され、錯乱したジョゼフの殴り書きだった。読み終えたクラリスは泣いた。だいぶ前から泣いていない。私が泣いている。嗚咽。涙が止まらなかった。手紙を抱きしめて、地面に突っ伏した。
パパ。優しいパパ。
クラリスは誓った。
小麦畑で遊ぶ少女が、優しい父親に捕まえてもらえるような世界を作る。必ず作るんだと。
(昔、私の力不足で未完のまま終わってしまったSF小説のキャラクターの自伝です。また、いつか書けるときがくることを願って、投稿します)