6、仕事求む
うららかな陽射しがガラスごしの室内をあたためている。
静かな部屋の空気を乱さないよう、そっと椅子に腰かけて取り出したのは、しおりを挟んだ一冊の本。
無理なくのばした背すじは、背もたれに触れるか触れないかの距離を保っている。顔にかかる髪を耳にかけてから読みかけの本を片手で支え、途切れていた物語の続きに意識を向ける。
整然と並んだ文字の列が心を沸き立たせてくれるけれど、それは表情やしぐさには現れない。胸のうちに静かな感動が広がるばかり。
おだやかな時間が流れるなか本のページをまたいち枚めくり……不意に文字を追っていた目を止めて、よつはは本を閉じた。
「仕事をください」
かっと目を開いて部屋のすみではたきを振る珠串に言った。いつもと変わらないように見えるその顔は、目だけが胸にくすぶる不満をたたえて強く輝いていた。
「仕事、とは?」
はて、と首をかしげる珠串に、よつはは立ちあがる。
「ゴールデンウィークのあいだじゅう、言われたとおりに店内で椅子に座っていました。珠串さんが掃除をしている姿をずっと見ていました。ほんとうにただ、椅子に座って見ているだけでした。それで仕事をしたと言われるのは、納得できません。仕事をください」
初めてこの店に来てからというもの、よつはがすることと言ったらその日の気分で椅子を選んで腰かけて、本を読んだり講義の予習復習をするばかり。朝でも昼でも夕方でも、いつでも珠串の淹れてくれた温かい飲み物付きだ。おかわりもすぐに出てくる。しかも食器は毎度、違うものが使われる。
それがはじめの日だけならば、店の雰囲気をつかむための試用期間だろうか、と思いもした。来客もなかったからだ。
が、さすがに一週間以上も続けばおかしいだろう。一週間ずっと客の来ない店にやとわれ、延々座り続けるアルバイトの存在がおかしくないわけがない。
礼華にさんざん気を付けるようにと言われたのもあって警戒する気持ちを忘れないようにしていたが、珠串に対しては薄れてきていた不信感が、この店自体に対しては再び増してきていた。
「よつはさんは頼まれた仕事を立派にこなしておられます。今日もこの白寿堂のためにお時間を割いて、その椅子に座ってくださっているではありませんか」
にこにこと告げる珠串だが、そんなことばで納得するよつはではない。
仕事について説明を求めたとき、店内に居れば良い、と言われはした。たしかにそう言われたが、本当にそれだけで良いはずがない。そんなことで成り立つ店など、あるはずがない。
「はたきを貸してください。割れものが心配ならば、雑巾がけでもいい。仕事をください」
静かながらも強い意志を込めて訴えたそのとき。
「仕事がほしいなら、この椅子を愛でなさい」
よつはの背後で小鳥のような愛らしい声がそう言った。
目の前の珠串は、おや、と軽く目を開いてよつはの肩越しに視線をどこかへ向けている。
それを追うように振り向いたよつはは、そこにちいさな子どもを見つけた。
やさしいグリーンのワンピースを身に着けた愛らしい少女。栗色の巻き髪を胸元で揺らした彼女は、細い指で椅子の背もたれをつかみ、もう一方の腕を腰にあてて、ふんっと薄い胸を張る。
「あなた。はじめの日に座って以来この椅子に座っていないのは、どういう了見なの?」
ぱっちりと大きな瞳でよつはをにらみつけた少女が示したのは、初日に腰かけた椅子だ。淡いグリーンの塗装がされた華奢な椅子。
たしかにあの日以来、その椅子に腰かけてはいなかったが。
「この子は……?」
よつはが気になったのは椅子よりも少女の存在。
この店で過ごすこと数日間。店のなかにひとがいるのを見たのは、珠串以外でははじめてだ。
扉の開く音には気がつかなかったが、どこから出てきたのか。もしや珠串の子だろうかと思いナイスミドルを振り仰ぎかけたよつはは、急に腕を引かれてたたらを踏む。
「ずっと居たわ。あなたが気づかなかっただけ。それより、質問に答えなさい。なぜこの椅子に座らないの」
よつはを引っ張ったのは少女だった。
人形のようにはかなく華奢な容姿のわりに力があるようだ。ぐいぐい引かれて件の椅子の前に立たされる。
「なぜ……」
強引な少女に問われるまま、目の前の椅子を見つめて考える。
はじめは、そのあまりの繊細な作りに壊れやしないかと思った。けれど勧められて恐る恐る座った椅子は、意外にしっかりと受け止めてくれたことを覚えている。
座り心地も、クッション付きの椅子に比べればすこし硬いが、そう悪いものでもなかった。グリーンの色も好みであるし、あえて座らない理由を挙げるとすれば。
「いろんな椅子に座ってほしいと言われた、から?」
いつの間にかここで働くことが確定していたよつはに、珠串がそう言ったのだ。
好きな時間に来て、好きな椅子に座って好きなことをしてほしい、という珍妙な業務内容を聞いたときに「できればいろんな椅子に座ってもらえると喜びます」と言われたことを思い出しながら答えると、少女はおおきなひとみをきっと吊り上げて珠串をにらむ。
「余計なことを。この店でなにを使うかは、この子に決めさせるべきだわ」
小鳥のように澄んだ声が珠串に投げつけられる。
「はい、わたくしもそのように考えております。ですから、椅子を選ぶのはよつはさんにお任せしております。座る椅子を指定したのははじめの日だけ。それもあまりにも熱心に訴えるかたがいたからです。それで再び座ってもらえないならば、椅子のほうに問題があったのでは?」
少女の怒りを意に介さない風に、珠串が返す。にこにこと笑っているが、そのことばにはなにやら黒いものが含まれている気がしてならない。
それを肯定するように、少女は毛を逆立てんばかりに怒りをあらわにした。
「新参者のくせにっ」
「若造のくせに、とでも返せばよろしいかな?」
澄ました顔で珠串が返せば、少女は地団駄を踏んで悔しがる。
「もういいっ。座ってもらえるまで、出てこないんだから!」
怒り心頭、といった様子でスカートをひるがえした少女が向かった先には、グリーンの椅子がある。ぶつかってしまう、と慌てて伸ばしたよつはの手は、少女の華奢な腕を捉えてつかんだところで、空を切った。
「えっ」
少女が、消えた。
目の前にいたはずの少女の姿は椅子にぶつかる寸前で忽然と消え、手のなかに確かにつかんだ細い腕の感触も消えた。
後に残ったのは、グリーンの華奢な椅子がひとつ。
「え……?」
よつはは椅子と自分の手に視線をやって、ぱちぱちとまばたきを繰り返すのだった。




