ひと休み
やさしい雰囲気に満ちた白寿堂だったので、いまなら頼みごとも切り出しやすい、とよつはは話題を変えることにした。
「あの、来週から試験期間なので、ちょっとまとめておやすみをいただきたいのですが」
全員に向けて言ったことばに、露骨な反応を示したのはふたり。
ひとりは店主で、血色の良かった顔を一気に青ざめさせた彼は、その瞳を曇天のステンドグラスのように沈ませてよつはを見つめていた。
もうひとり、悲しい顔をして見せたのは花緑青で、ひしっとよつはの腰に抱きついた彼女だったが、すぐに顔をあげると笑ってみせた。
「さみしいけど我慢するわ。だって、よつはにとって必要なことなのでしょう」
さみしさの残る笑顔を向けられて、よつはは申し訳ない気持ちになる。けれど、笑ってくれた花緑青に応えるために謝罪のことばは飲み込んだ。
「ありがとう、花緑青」
よつはも花緑青を抱きとめて、やさしく抱きしめ返す。ほほえんで見つめ合うふたりに、珠串がにこにこと笑う。
「試験が終われば夏休みですね。試験休みと言わず、夏休みをお取りになって、ご実家でゆっくりなさってきてはいかがですか?」
「でも、お客さんが……」
うれしい申し出だが、このところ毎日のように来てくれるご近所のご老人がたを思い浮かべて、よつははためらう。けれど珠串は、にっこりと笑ってそのためらいを吹き飛ばす。
「正直に申しますと、よつはさんの夏休みの前半にはあまりお客さまもいらっしゃらないのですよ。八月はみなさま、ご家族をお迎えなさったりとお忙しいとのことで。お孫さまが来るからしばらく来られない、とおっしゃるかたもおられまして」
くすくすと笑う珠串を見てよつはも、そういえば相好を崩して何事か話していた客がいたな、と思い出した。あれは孫の話で盛り上がっていたのだろう。
「そういうわけでして。八月いっぱいはお休みいただいて、九月はよつはさんさえよろしければ、数日でも構いませんので来ていただければ、喜ぶものもいると思いますよ」
そう言う珠串の視線が、ちらりとどこかへむけられる。不思議に思いながらその視線を追えば、どんよりとした目でよつはを見つめる店主を発見した。
色とりどりにきらめくはずの瞳を曇らせ、どしゃ降りの雨の日のステンドグラスのように輝きをなくした店主は、心なしか肩を落として見える。
さっきまでの頬を染めていた彼とは大違いだ。
「ええと、必ずまた来る。約束する。それじゃあだめ?」
店主の落胆の大きさに戸惑いながらもそう言えば、店主はしぶしぶうなずいた。
「ありがとう、彩」
名前を呼べば店主はもう一度うなずいた。うなだれていた顔もすこしだけ、上向いたように見える。そんな店主に花緑青が声をかけて、ふたりでじゃれ合うように言い合っている姿を見て、よつははほっとした。
「大学にご入学されてから、はじめての長期休暇でしょう? 五月の連休にはこちらで働いていただきましたし、きっとご家族もお待ちしていらっしゃることと思います。勉学に励まれましたのちは、ぜひ、久方ぶりの故郷を楽しんできてくださいませ」
やさしくほほえむ珠串のことばと笑顔の花緑青、そしてまだすこしだけ寂しそうな店主に見送られて、庭を出る前になかばさんにもあいさつをして、よつはは白寿堂を後にした。
それから二週間が過ぎた。つい最近まで白寿堂で予習復習をする時間をたっぷり持てていたおかげか、試験勉強はそこまで苦戦しなかった。白寿堂に行けない退屈さもまた、勉強に励む動機となって、試験の出来は悪くないと思う。結果が出るのはまだ先だけれど、すこしだけ楽しみなよつはだった。
最後の試験を終えたよつはは、大学の食堂で礼華とテーブルを囲っていた。
「んんん、試験のあとの甘味はしみるわあぁ!」
礼華はそう言って、デザートフェアのパフェをまたひとくちほおばる。同じくパフェを口に入れたよつはは、返事の代わりにうんうんと大きくうなずく。
「もっといっしょに遊びたいけど、よつはちゃん、明後日には実家に帰るのよね」
「ごめん。九月には戻ってくるから」
「ううん、いいのよ。どうせ、わたしは夏休み中にサークルの発表会があるから、今日からまた練習練習で忙しいし」
ぱくん、とパフェのフルーツを食べた礼華は、ことばの通りそれほど気にしていないようだった。
そのままぱくぱくとパフェの中ごろまで食べ進めた礼華が、ふとスプーンを止めてくすりと笑う。なんだかちょっと意地の悪い笑顔だ。
どうしたのか、とよつはが問う前に礼華は話しはじめる。
「ねえ、よつはちゃん。福永って覚えてる?」
「覚えてる。六月ごろに声をかけてきた、ちょっと変わったひと」
よつはは、割れてしまった茶碗を思い出しながらうなずいた。無意識にすり合わせた指先には、もう漆にかぶれた痕はもう残っていない。
あれ以来、姿を見た記憶はないが、彼がどうかしたのだろうか。
「あいつ、必修の講義のレポート提出で悪さしたのがバレたらしくてね。教授にすっごく怒られたみたいよ」
「悪さ?」
よつはもレポート提出はあったが、あれは出された課題に対して資料を集め、資料の情報を引用しながら自分の考えを述べるものだった。悪さの仕様など無いと思ったが、なにをしたのだろう。
よつはが首をかしげていると礼華はテーブルに身を乗り出して、よつはにだけ聞こえるように小声で教えてくれる。
「先輩が去年提出したレポート、丸ごと写して出したんだって。でも去年と今年は課題が違ったらしくて、すぐにバレて呼び出されたらしいわ」
「それは……」
あまりの残念さによつははことばが出なかった。たしかにレポートの書き方の参考に、と先輩から過去の提出物を借りてくる者もいたが、丸写しするなどとんでもない。
「それであの男、教授陣に悪名が知れ渡ったみたいでね。ほかの試験のときも要注意人物だってことで、教授の目の前の席を指定されたらしくって。当てにしてたカンニングがまったくできなくて、ほぼ全講義の単位を落とすの確実なんだって」
そう言って礼華はくすくすと笑っているが、よつはは笑えなかった。大学一年の前半の講義はどれも必修で取得しなければ卒業できないと、入学式のときに聞かされている。どの学年でも履修できるとはいえ、学年が上がればまた違う講義を受ける必要があるわけで。
「……単位、足りなくなるのかな」
せっかく入学した大学なのに、一年生にして留年が決まってしまったのだろうか。
心配になってつぶやくよつはだが、礼華は辛辣だ。
「あの男のは自業自得よ。講義もサボりまくってたし、よつはちゃんにもとんでもない迷惑をかけてたのだし。すこし反省して、遊んでたぶん留年して頑張るくらいでちょうどいいのよ」
ふんと鼻息を荒くして言い放った礼華は、にっこりと表情をやわらげた。
「つまらない話しちゃったわね。それより、よつはちゃんは九月にはこっちに戻ってくるのよね?」
「その予定」
こっくりとうなずけば、礼華は花が咲いたようにぱっと明るい笑顔を見せた。さっきまでの意地悪な笑いとは大違いのすてきな笑顔。よつはの好きな礼華の笑顔が見られて、よつはもほっと気持ちがやわらぐ。
「わたしは実家暮らしだから、ずっとこっちにいるから。戻ってきたらいっしょに遊びに行きましょうね」
「うん」
「連絡待ってるからね。用がなくても、連絡していいんだからね」
「うん」
戻ってきたらなにをして遊ぼうか。そんな他愛ない会話を楽しみながら、長い休みに思いを馳せるよつはだった。