呼んでほしい
ミツの友人たちであり白寿堂のかつての常連であった老婦人、老紳士たちが日にひとり、ふたりと来店するようになってから、はや数週間が経った。
花緑青は「よつは以外に座られたくないわ」と言って、本性である椅子の置き場所を台所に定めたらしい。ただ、来客があればいそいそと湯を沸かし茶菓子の用意をするあたり、それは手伝いをするための彼女なりの建前なのかもしれない、とよつはは思っている。
はじめは来客のたびに姿を消していた店主もにぎやかなひとの気配に慣れてきたのか、隠れてしまうことは少なくなってきた。
客の前に出ることこそないが、台所に居てよつはが下げた食器を受け取って洗ってくれるときもある。
今日もよつはが出勤してしばらくすると、いつの間にやら流しの前に立っていた。たすき掛けした着流しに珠串とおそろいの前掛けをした店主の格好は、まだ見慣れなくて新鮮な気持ちになる。
「今日は健太郎さんからのお仕事、もういいんですか?」
本日の客が帰り、食器を台所に運んできたよつははまだそこにいた店主に声をかける。
店主はよつはの手から食器を受け取ると、やさしい手つきで洗いものをはじめる。
「依頼された分は片付いた。明日にはふたたび連絡を入れると知らせがあったが」
「道具の鑑定ですね」
「ああ。どこぞの古い屋敷の蔵を解体するとかで、蔵ひとつぶんの目利きを頼まれた」
健太郎からメールで仕事を依頼される、という店主に仕事の内容をたずねたのは数日前のこと。
古道具屋として修行中の健太郎は、価値がありそうだけど判断しかねるものの画像を送ってきては、店主の評価を仰いでいるらしい。その代価として白寿堂の維持管理費、消耗品の購入費を健太郎が負担する。よつはの給料も、その維持管理費として計上しているそうだ。
ここのところ、健太郎は積極的に買い取りの仕事を探してきているようだった。店主が別室にこもって出てこないこともしばしばだと花緑青に聞いていたが、ちょうど手が空いたらしい。
「店主さんはどこで鑑定の勉強をしたんです?」
さきほど客が帰ったので格別することもないよつはは、店主が洗い終えた食器を受け取って布巾で水気を拭き取っていく。
そのうしろでは花緑青が茶菓子の数を数えて、補充の必要な茶葉を調べている。
「慎太郎が無闇と古い道具を買い集めていた折に学んだ。放っておけば、腐りかけた板切れであろうと大事に抱え込んでいたからな」
口調こそ淡々としているが、相変わらず慎太郎の話をするときの店主はやさしい目をしている。よつはがその横顔を見つめていると、ちらり、こちらに流された店主の視線とぶつかった。
「……おれにかしこまった口を聞くことはない」
「というと?」
店主の言いたいところがわからなかったよつはは、首をかしげる。
視線を一度はずした店主は、流れていた水に向き直り蛇口を閉める。ぽつり。蛇口の先から水がひと粒、落ちるのを見つめた店主は手ぬぐいで濡れた手を拭うと、くるりとよつはに向き直る。
ただし、よつはを向いたのは体だけ。すこしうつむいた顔のなか、伏せられたひとみのきらめきは、よつはから見ることができない。
「客と話す口調ではなく、もうすこし砕けた話し方で構わない。それと……それと、店主ではなく。その、名を呼んでほしい」
「では、彩さん」
請われるままに自分でつけた名を呼べば、店主がぱっと顔をあげる。
きらきらだ。快晴の日差しを透かしたステンドグラスよりもきらめく色とりどりの瞳がよつはを向いた。
それがうれしくて、よつははもういちど呼んでみる。
「彩さん」
きらきらきら。きらめく虹色のなかによつはが映っている。なんてきれいなのだろう。日差しのなかにはしゃいでじょうろを傾ける幼児のように、思わずよつはの口がふたたび動く。
「彩さん」
再三の呼びかけに店主の顔がほころび、いままさに笑みを咲かせようとした、そのとき。
店主がはっとしたように表情を硬くした。その瞳は、よつはの肩ごしにどこか違うところを映している。
なにごとかと振り向けば、そこに居たの花緑青だ。よつはの後ろで作業をしていた花緑青は、いつの間に作業を終えていたのか。にまにまにま、とそれは楽しそうに笑って店主を見ている。
「んふふふふふふ。ようやく言えて良かったわねえ、さ・い・さん?」
多分にからかいを含んだ花緑青に名を呼ばれて、店主は硬い表情のままふい、とそっぽを向く。けれどその耳が赤くなっているのは隠せていない。
それを見た花緑青がにんまりと笑ってふたたび口を開こうとしたとき。
「そのようにからかうものではありませんよ」
ほほえみを浮かべた珠串が台所へと入ってきた。こちらも笑顔ではあるが、花緑青とは違って微笑ましいと言わんばかりのあたたかい笑顔だ。
「なによう、ずーっとうじうじしてたひとがとうとうお願い事を口にできたんだから、これはお祝いのことばよ。からかいなんて、ほーんのちょっとしか入ってないわよ」
親指と人差し指のあいだにわずかな隙間をつくってみせる花緑青に、珠串が「まったく」と息をつく。けれど、その顔は笑っている。花緑青も楽しげに笑っていて、そっぽを向いている店主でさえまとう雰囲気はやわらかい。
夏を迎えた白寿堂は、建物全体がやさしい空気に満ちていた。




