なんでもない日に
「…―ちゃんっ、ゆーちゃんっ」
ゆっさゆっさと揺すられる。少し空いた布団と私との間にしんみりした空気が流れ込んで、一気に寒さが増して来る。
「んっ…さぶっ。」
「ゆーちゃんっ、起きてっ。」
枕元のスマホを引きずり込んで画面をつける。午後十一時。…消灯が九時半だからまだ少しも寝に入れていない。大きなあくびが喉から出てくる。
「どーしたー?」
「えとね、今からねっ。」
「んー。」
「…忘れちった。」
んー…、なんて頬杖をつきながら少し考え込む。俯いた彼女のピーナツ色の長髪から、ついさっきのお風呂のいい匂いがほあんと香る。起き上がった寒さに少し耐えきれなくなって、みーこに肩を寄せると、当の本人はんふふ、なんて気味の悪い笑い方をするものだから、私は照れ隠しに頭を小突いた。
「…あっ、肝試しだよっ!き、も、だ、め、しっ!
ゆーちゃんと、あたしと、るなと、ゆののみんなでっ。」
「えー。」窓の方を見ると月明かりが青白く射し込んでいる。「今からぁ?」
「今しかないんだよう?中学二年のふゆなんだよう?」
ねっ、と言いながらみーこは私の袖を引っ張って立つ。「いこっ?」
知らずに出たため息もこの暗い部屋に青白く映える。布団横に無造作に置かれたジャンパーを羽織い、軋む引き戸を無理矢理に開けると、廊下はより一層寒かった。凍えそうな手を吐息でいくら温めても、すぐに刺すような寒さが身を震わせる。木造りのこの校舎ではヒーターなどの設備はあるはずもなく、二人抱き合ったまま歩き始める。
「ふふっ。」
「…何かおかしい?」
「楽しみだなぁー…って。ゆーちゃん、おばけ苦手でしょ。」
「(うっ。)」
「ふふー♪」
「…」
玄関につくと既にるなとゆのが靴箱の前ですねこすりみたいに身を寄せ合っていた。るなに至っては目が虚ろで生気が口から出てきている。一体誰がこんな提案をしたのか。
「おーそーいー。」
「いやー。ゆーちゃんがねぼすけでさー。」
「…みーこは肝試しすら忘れてたでしょ。」
「あーんそれは言わない約束だよおー」
「うっし、…ということで!」勢いをつけて立ち上がるゆの。「行きますかあ!」
.
外は完全に澄み切っていた。
――学校を出ると直ぐに長い屋根付きのコンクリート道がある。それは駐車場に続いていて、私たちの乗ってきたバスもそこに留まっている。駐車場につながる一般道を信号のある方へ進むと左手に神社があるから
「そこに行けと?」
「そーゆうこと。ねっ?るな。」
「…うん」
るなはあいも変わらず元気がない。いつものお転婆っぷりが見る影もなく、そんな彼女の顔は暗さでよく見えない。彼女自身も俯いているらしい。
たしかに屋根付きのせいで月明かりが遮られ、直ぐそこのグラウンドが別世界のように明るく思える。
「あーっ。ゆーちゃん泣いてるー。」みーこに言われ目尻を拭う。知らぬ間に涙が出ていた。「ちっ…違うよっ…!寒いとこうなるの!」
「んもー。もうおつや状態なのー?」
「微妙に使い方違うよ。」
駐車場に出ると影が隠れるほど一気に明るくなった。街灯がなくとも月明かりだけで十分に視界が効いた。
初冬、満天の星だ。黒いキャンバスにいくら金箔を振りまいたってこうはいかない。絵がへたっぴな私には、この夜空を表現することがどれくらい長い道のりなのかを想像することは容易にできた。そのど真ん中に淡黄の月一つ。親指にだって隠れることのない、立派な月だった。
「…冬の林間学校も、乙ですなぁ」誰かが言った。
「…うん」
「きれいだねえー」
「…」
「ちょっと、るな?」
声の方を向くとゆのにもたれかかる様にるなが立っていた。月明かりのせいか、その顔は青白く、本当に生気を失っていた。
「…やだ、すごい熱。」ゆのがるなのおでこを手のひらで優しく包む。「よくこれで肝試しなんて…」
「だって…」るなが掠れた声で言葉を紡ぐ。「だって、最後なんだもん…。」
ほおを膨らませ、涙を浮かべる。凍ってしまいそうな涙だった。
「そんなこと言ったって…とにかく、部屋に戻ろ?」
ゆのが言葉を発するたびにふるふる首を振る彼女の頰からぼろぼろと涙が落ちていく。足元の枯葉に当たるたびにピチッ、ピチッ、と痛そうな音を立てる。嫌なほど良く聞こえるものだから、音に耳を澄ましているだけで胸のあたりがとても寒くなった、るながどれだけ楽しんでいるかが、不思議なほどによく分かって、すこし羨ましくも思った。
「ゆーちゃん…?」
「んー?」
「寒いの?」
みーこが私の頬に手をやる。私は泣いていた。
。
道路に出ると、森のざわめきが少しずつうねり出した。右に沿って道路を下れば町に出る。しかし目一杯に暗い道路をこんな真夜中に下って行こうとは誰も思わない。
わぁーっ、と声を上げてみーこが道路を横切る。私も後を追って反対側の歩道に出てみる。ガードレールぎりぎりに身を乗り出し、森を見ると微かに見える点の光は、その町の光なのだろう。暗闇に光る点たちはそれだけで宇宙の様だった。
「きれーだねえー…」
車の音も聞こえてこない。ましてや冬だと虫の音すらもないので、風と揺れる木のかさめきあいだけが耳をくすぐる。そんな中でふと、私たちのふるさとを思い出す。
いつまでも変わらない車窓の風景。高く積み上げられたビル達の群れ、その合間から鬱陶しいほどに差し込む陽の光、あたたかなバスの中、隣でまどろむみーこ、騒々しさとはかけ離れた図書室、落として何処かに消えたミートボール、放課後のチャイム、るなとゆのを見送るバス停前、やがて私たちも別れて、また暗いビル達に溶けていく。
ああ、あの輝かしい日々と、暗闇に包まれた町の情景。
「ねっ、ゆーちゃん。いこっ?」
頷いて、手を取り合い、寒さと暗さに負けないように力強く一歩を踏みだす。こうして二人で繋がっていればどこまでも飛べそうなくらい、心が温もりで満ちていく。
果てしなく続くこの宇宙は、私たちのあの日々に似ていた。
△
「いーち、にー…」
「やっぱ暗いねー…」
入り口で立ち往生していると、みーこはすたすたと先に行ってしまう。白いパーカが暗闇に消えて行ってしまうのを見て、背筋に寒気が這い寄ってくる。
「ちょっ、ちょっと待ってよー。」
ざわざわと森が揺れて、足元の枯葉が踏みしめるたびに音を立てる。肌が粟だって、とても一人では歩けない。るなもよくこんな場所を見つけたものだ。
「ひっ…!」得体の知れない鳴き声。遠吠えのように鳴り響いて、思わずみーこに飛びつく。
「んー。フクロウだねえー♫」
「えっ?」「ほら、よく聞いてみて?」
ホーン ホーン ホーン ホーン…
「…」赤面する。恥ずかしい。
「んもー。ホントに怖がりさんだなあー。よしよし。」
頭を撫でられて、一気に体温が上昇する。恥ずかしさを消すように立とうとしたけれど、
「あっ、んっ…力入んない…」膝が震えて下半身が踊ってしまっている。「どうしよう…」
「仕方ないなあー。ほら。」みーこが屈んで私に背中を見せる。「乗れる?」
「ゆーちゃん、いい匂いだねー♫」
抱きかかえられて何段目かにそう言われて、私は今何段目を登っていたのかをすっかり忘れてしまった。「しかもあったかいー…」
「またそんなこと…」
「んーん?ほんとだよー?」また、みーこはこういうことを平気で言ってのけるものだから、いつものみーこのペースに乗せられてしまう。「ずっとこのままがいいなあー♫」
「…ずっとは大変でしょ」
「そだねー。ちょっと重くなったかもー」鉄拳制裁。こういうところもいつものみーこだ。殴ったこっちが心配してしまう、ちょっとやり過ぎたんじゃないかと思っても、彼女は変わらず笑い続ける。
「みーこはさ、」
「んんー?」
「高校…どこにいくか決めた?」
「ゆーちゃんは?」
「えっ…わ、わたしは、」
そういってみーこの顔を少しのぞいてみる。でも髪に隠れて見えない。
「わたしは…キタ行こーかなって、近いし。」
「そか。」みーこの返事はこれ以上ないほどあっさりしていた。「わたしはね、ゆーちゃん。
引っ越すんだ。キタのもっと北に。ずっと遠くに。」
階段は一段一段がとても長くて、私はあの電車を思い出していた。鳥居をくぐって境内に入ると寂れた本堂が一つ。私達はその隣の椅子に腰掛ける。みーことの隙間ができるととてつもなく寒くなって、私は必至にくっついた。
「寒いねえー」みーこも笑って私にくっつく。「そーいえばさ。ゆーちゃん。」
「ん…?」
「今年の夏は海行けなかったねー。」
「うん…まあ、台風もあったし、
だからこんな冬に林間学校が延期になったのもあるし…」
「そだねー。でもまあ夏だったらこんなにくっつけなかったもんねー♡」
みーこが私に這わせた腕に力を入れて、ぎゅーっとしてくる。痛くない、優しい暴力だ。
「そんな…」「ん?」声がかすれる。胸のあたりが妙にくすぐったい。
「そんなこと…ないよ。夏でもぎゅっと…したいよ。」
…言ってからわかるこの気恥ずかしさ。私は今もしかしたら、途轍もなく気持ち悪いことを言ってしまったかも知れない。ああ、駄目だ。きっとみーこは笑っている…
「んふふ…」でも、みーこの顔は見えない。私のジャンパーに顔をうずめて、抱きついたまま動かない。「ねぇ、ゆーちゃんはさ。
ゆーちゃんは、好きな子いるのー?」
「なっ…!なっ、な、な、何をっ!」
そういってみーこを引っぺがそうとしたけれど、彼女は頑なに離れない。私は諦めて
「い、いるわよっ。」と一言。そうすると彼女はするりと私から離れ、にこりと笑ってこう言った。「ふふっ、私もっ♫」
そう言って抱きついてくるみーこを誰が防げただろう。私の体温は依然として上昇を続け、中のシャツは汗でびっしょり濡れている。これじゃあ夏みたいだな、そう思った。
「寒いねえ…」みーこはそう言う。「…寒いよお」
ふるふると震える彼女の頭を撫でる。みーこの頬から伝ってくる雫が、私の汗を吸い取って地面を濡らす。きっと彼女も汗をかいているんだ。汗が乾けば今以上に寒くなって、もしかしたら二人ここで死んでしまうかも知れない。それでも、ずっとここにいたかった。
空の月は私たちの上を通り過ぎて、暗くなった空には星と、私の吐息とがより美しく映えて光っている。
閑散とした虚空に、二人だけが消えずに残った。
@
「…―ちゃんっ、ゆーちゃんっ」
ゆっさゆっさと揺すられる。少し空いた布団と私との間にしんみりした空気が流れ込んで、一気に寒さが増して来る。
「んっ…さぶっ。」
「ゆーちゃんっ、起きてっ。」
枕元のスマホを引きずり込んで画面をつける。午前五時。起床まではまだ二時間以上あるはずだ。大きなあくびが喉から出てくる。
「どーしたー?」
「えとね、今からねっ。」
「んー。」
「…忘れちった。」
んー…、なんて頬杖をつきながら少し考え込む。俯いた彼女のピーナツ色の長髪から、どこかで嗅いだ土のいい匂いがした。起き上がった寒さに少し耐えきれなくなったものだからみーこに肩を寄せる。当の本人はんふふ、なんて気味の悪い笑い方をするものだから、私は照れ隠しに頭を小突いた。
「…あっ、お散歩っ!
ゆーちゃんと、あたしと、るなと、ゆののみんなでっ。」
「えー。」窓の方を見ると朝の日がやわらかく射し込んでいる。「今からぁ?」
「今しかないんだよう?今日でかえっちゃうんだよう?」
ねっ、と言いながらみーこは私の袖を引っ張って立つ。「いこっ?」
知らずに出たため息もこの暗い部屋に無機質に映える。布団横に無造作に置かれたジャンパーを羽織い、軋む引き戸を無理矢理に開けると、廊下はより一層寒かった。凍えそうな手を吐息でいくら温めても、すぐに刺すような寒さが身を震わせる。木造りのこの校舎ではヒーターなどの設備はあるはずもなく、二人抱き合ったまま歩き始める。
「ふふっ。」
「…何かおかしい?」
「かわいいよっ!ゆーちゃん。」
「なっ、な、な、何をっ!」
ふふっ、と笑いながら彼女は廊下を駆けていく。私もそのあとを追う。玄関ではもう二人が待っているだろう。
様々な思いが私の胸をぐらぐらゆする。それでも私はその中のちっぽけな温かさにまどろんでいた。