参 Black Mask
この話の真相は、まだ誰にも話した事がない。
物心付いた頃から見てきている、今現在も時折現れるモノがある。
はっきり言って、ソレは二度と見たくない。ソレを見ると暗澹な気分と謂れのない罪悪感に苛まれる。
もし、この先、現れても誰にも真相は話さないだろう。
どうにか出来るのなら、話すのだろうが、抜き差しならない際のモノだから、どう足掻こうと変える事が出来ない。
幼い頃はソレが何であるか全く理解出来ずに、ただ、恐怖心と言い表す事の出来ない漠然とした不安感に苛まされていた。
ソレの意味に初めて気がついたのは、今も尚、人気のあるF1レーサーの死だった。
『音速の貴公子』と呼ばれた彼は、再三、彼が危ないと言っていたレース場のカーブで事故を起こし、帰らぬ人となった。
その頃、モータースポーツがそこそこ好きで、各モータースポーツにお気に入りが一人必ずいた。
彼はF1の中でお気に入りだった。
いつものように、昼過ぎまで寝ていた私は、遅い昼食を食べながら、事故のニュースを見た。
「セナが……」
私は呆然とテレビの画面を見つめていた。
私の中には、薄気味悪い感触のある感想と、信じたくない気持ちが渦巻いていた。
彼の走りを生で見てみたくて、その年の日本GPのチケットを取ろうと、お金を貯め始めた矢先だった。
画面はクラッシュ直後の映像が流れている。
原形を止どめていない車体から、彼が引き摺り出され、ヘリで搬送されて行く。
彼の体から生気が感じられない。私の目には、もう物体としてしか映っていなかった。
「あーあ。神様が連れていっちゃった」
私の口からそう言葉が零れ落ちた。
私は思春期の頃から、異才を放ち、若くして亡くなる人間は、皆、神に招集されたんだと思っている。
それがヤハウェイなのかアッラーなのか、ブラフマンなのか八百万の神々なのかは、考えた事もないが、『神に招集』だと感じてやまないのだ。だから、彼もそうだと、未だに思っている。
すでに魂が、霊体、識体が、招集されてしまった体は、物体でしかない。私の経験上、再び物体が人間の体に戻り、意識を取り戻すという事はない。
彼もそうだった。二度とハンドルを自らの意思で握る事はなかった。
彼の死後、その当時、私の家に居候をしていた親友のマリが、タブロイド誌を持ってきた。
彼女のバイト先で、私のバイト先のキャバクラの更衣室があるカラオケボックスの裏で、仕事前の一服をしていたところだった。
「マリ、マッチャンでもフォーカスされてたの?」
私は煙草を燻ゆらせながら、彼女に笑い掛けた。
マッチャンとは、彼女の大好きなミュージシャンのニックネームだ。
「違うって。セナの事故直前の写真が載ってたから、買ったんだよ」
彼女はそう言って、そのページを開いて見せてくれた。
「あ─―」
ソレが写っていた。
「どうしたの?」
私は彼女の問い掛けに少し頷いた。
「うん…… この写真、顔が真っ黒なの」
彼女は首を傾げて、シートに座るヘルメット姿の彼の顔写真を見た。
「真っ黒? 良く撮れてるじゃない。臨場感が伝わってくるいい写真だけど」
彼女はそう言って、再び私を見た。私を見た瞬間、少しだけ顔が強張った。
「それって、私には見えないモノなんだね」
「うん。小さい頃からたまに見ていたんだけど……」
私は再び彼の顔写真を見た。
ヘルメットやヘルメットの下に被るサポーターははっきりと模様やロゴまで見えるのに、彼の顔だけが真っ黒くなっている。まるで、そこだけが暗転しているかのように、黒塗りの彼の顔がある。
彼はこの直後、帰らぬ人となった。
「私が分かったってどうしようもないのに。いまさら、分かったってどうしようもないのに」
「なにが?」
「彼の死…… 私には彼が見えない。真っ黒で彼が見えない。小さい頃から、たまに見てたの。首から上が見えない人を…… でも、それがなんだか分からなかった…… きっと、死影なんだよ」
彼女はセナの写真にもう一度視線を落とした。
「決まってたって事?」
「分からない。その写真で初めて意味が分かったから。あっ、もうそろそろ、着替えないとヤバい」
「アマネからユウカに早変わり? 笑顔を貼り付けて降りてくるのだけはやめてね、怖いから」
彼女はそう軽口を言って口の端を上げた。
「そんなのわかんないよ。嫌な客が付かない事、祈っててよ」
私はそう笑顔で返し、更衣室に入った。
それから有名人の死を知る度に、私は直前の写真や映像を探して見るようになった。あの黒い顔、死影を確認するためだ。でも、直前と言っても、日数的にバラバラで、写っている方が圧倒的に少なかった。
数年後、また、私の好きな人が急死した。
彼は急性前骨髄性白血病と闘い、勝つ事が出来なかったK1ファイター。
彼の死が私にある種の諦めを突き付けた。
アイルトン・セナのように、死を先に知ったわけじゃなく、アンディ・フグの場合は、死影が先だった。
彼の結果的に最後となったテレビ出演を見ていて、ある瞬間から彼の凛々しい顔、優しげな笑顔が見えなくなった。
彼の顔が一瞬にして、真っ黒になったのだ。
言い知れぬ不安に駆られるが、誰にも言えなかった。
「フグが死んじゃうかもしれない」
そんな事を口に出したら、大笑いされるか、物凄く眉間に皺を寄せられるかのどちらかなのは、明白だからだ。
でも、私を理解してくれているマリともう一人の親友のリカには、言ってみた。やはり、案の定、大笑いをされた。
だが、しばらくして、フグ緊急入院のニュースが世間を騒がせた。
大笑いをしていた二人から、相次いで携帯電話にメールが届いた。
二人とも言葉少なく『フグ、入院しちゃったね……』みたいなニュアンスのメールだった。『……』に含まれている言い現せない不安感は、私も同じだった。
私は彼から死影が消え、再びK1のリングで彼の華麗な決め技を見れる日が来るのを、祈り続けた。
そんな中、病床のフグからのメッセージが印象的だった。彼は病魔になんか負けるものか、勝って再びK1のリングに立つと、言ってくれた。
本当に彼は最後までファイターだった。病魔に何度も踵落としを仕掛けただろう。だが、病魔は彼の体を急速に蝕み、彼を神の膝元に導いて行った。
彼の死を聞いた時、私は悟った。
あれは忍び寄る死影ではなく、死の黒い仮面だと。被ってしまった黒い仮面から逃れる事は出来ないと。
悲しかった。悔しかった。
こんな力が有ったって、あんな黒い仮面が見れたって、私には何も出来ない。
不甲斐なくて、いたたまれなくて、でも、何も出来ない自分。だだ、黒い仮面を見て、罪悪感に苛まれるだけ。
あれから、何度も黒い仮面を見てきた。
私の生活空間が変わろうと、年を重ねても、黒い仮面が現れる。
その度に人の死を考えてしまう。
私の、このいらない能力の意味を考えてしまう。意味なんてあるのだろうか。
最近も黒い仮面に遭った。
2006年の初め、リカの伯母で同じ屋根の下で暮らしていた老女が亡くなった。
少し健忘症気味で足腰は弱っていたが、毎日化粧をし、いつも身綺麗にし、自分の事は自分でしていた彼女。
私は年末の買い物をしにいくついでに、彼女のご用伺いもしようと思い、彼女の部屋を訪れた。
「小母さん。買い物行くけど……」
ベッドメイクがキチンとされたベッドに、彼女の首から下が座っていた。
「買い物?」
「うっ、うん」
黒い仮面の向こうから、彼女の声がする。
「そうねえ…… 特にないかしらねえ」
「お正月はスーパー休みだけど、大丈夫?」
「大丈夫よ。アマネちゃん、お金が足らなかったら、言ってね」
多分、彼女はそう言って私に微笑み掛けたと思う。
見えてない私は、彼女の瞳があると思しき箇所に視線を合わせ、笑い返した。
「ありがとうございます。じゃあ、買い物行ってきます」
「行ってらっしゃい」
私は静かにドアを閉めた。
私と彼女の会話はそれが最後だった。
初めて、黒い仮面の人間と会話を交わした。初めて、身近な人間が黒い仮面になった。
不謹慎だが、この時、少しだけ、黒い仮面を見れる事にプラスの思考が働いた。
受け入れる心の準備が出来ると、その場面が来ても取り乱すことはないなと。
だが、リカには言えなかった。リカは私のいらないこの能力を、理解してくれる数少ない人間の一人だ。だが、理解と感情とは、全く別物だ。特に身内の外れることのない死の予告など、誰が耳を貸すだろう。耳を塞ぎたくなるような雑言でしかない。喩えそれが真実だとしてもだ。だから、黙っていた。後から言っても、今度は詰られるだろう。
私は弱い人間だと思う。バカにされても、リカを傷付けても言うべき事だったのかもしれない。
その年最後の仕事から帰ってきて笑顔で話をするリカに、普通を装い、一年間の仕事の労を労うしか出来なかった。
五日後――
リカの伯母は、天寿を全うした─―