弐 肝試し
中学一年の晦日の夜。珍しく私は家にいた。
正確にいえば、私達家族は家にいた。小学校の時分から、年末年始はスキー旅行に行っていたのだ。その年は宿が取れなかったのか分からないが、家での正月を迎える事になっていた。
私はその頃から文字書きを趣味としていた。全く小説とは呼べない稚拙な文体で、ほぼ会話文で占めるようなモノをノートに書き綴っていた。
「アマネ、電話!」
階段下から母親の声がし、私はシャープペンシルを置き、階段を駆け降りる。
「誰から?」
「フジノさんからよ」
私は黒電話の側に置いてある受話器を耳に当てる。
「もしもし?」
『あっ、ミナヅキさん、明日の夜ヒマ?』
「明日? 大晦日って事?」
『そう。除夜の鐘撞き行かない?』
「除夜の鐘?」
私は聞き返しながら、台所に立っている母親の顔を見た。
母は私を一瞥し、何か考えているようだった。今思えば、どこまで手綱を緩めていいのか思案していたのだろう。
「ちょっと待って」
私は受話器を押さえ、母親に首を傾げる。
「フジノさんがね、みんなで除夜の鐘撞きに行かないかって誘ってくれたんだけど、行っていい?」
母は私の顔をジッと見詰め、息を吐いた。
「特別だよ」
私はその特別に嬉しくなった。大晦日は夜中まで起きていても怒られない日。夜十時に寝なくてもいい日。さらに今年は、特別に夜中に外出してもいい日になった。
「やった! あ、フジノさん? お母さんがいいって」
私はクラスメイトのフジノに了承を伝えた。それから、いろいろと話をしているうちに、自分は出汁に使われているのが分かった。
フジノは付き合っている同級の男の子がいた。
彼と付き合い出して、親はかなり厳しい事をいうようになったとか。ようは除夜の鐘撞きデートに行くために、私や他の子を誘ったのだ。向こうもグループで来るそうだ。
除夜の鐘がある寺院まではかなりの距離があった。だが、初の除夜の鐘撞きと深夜の外出とあって、徒歩四十分の道程はさほど遠く感じなかった。
私達、五人は参道の階段を上がり、寺院にお参りをし、除夜の鐘を突く。上手く鳴るかドキドキしたが、私の突いた鐘の音は、大晦日の夜空に鳴り響いた。
いち早く鐘を突き終えたフジノは、彼氏のグループを見つけ、近寄っていく。煩悩を払う為の除夜の鐘なのだが、思春期は煩悩真っ盛りだろう。誰も除夜の鐘撞きの意味など考えもしない。
フジノの彼氏グループは四人。四人のメンバーの顔を見て、私の心臓が少しおかしくなった。私も煩悩まっしぐらだ。
「よう」
その原因マサキが私に軽く手を上げる。
「こんばんは」
私はマサキに素っ気無い返事を返していた。我ながらもう少し笑顔で返事が出来ないモノかと、思った。
「ミナヅキはお参りしたの?」
「もう、お参りも鐘撞きも終わってる」
どうも自分の中で言葉がギクシャクしているのが、気に入らない。いつもマサキと話すとつっけんどんになる。
「それより、彼女のサイトウさんはどうしたの?」
マサキが口を軽くヘの字にした。
「あいつの家、かなり厳しくてさ。誘ったんだけど断られた」
私は手に持っていた甘酒の湯飲みを見詰めた。
「そう」
「あ、それ、甘酒?」
「あ、うん。この甘酒、ちょっと苦手」
「じゃあもらう」
彼は私の手から湯飲みを取り、湯飲みに口付けた。
私の頬が熱くなった。暖を取るために焚かれた焚き火の所為だけじゃない。
「ミナヅキさん、マサキ」
フジノが私達を呼びながら近寄ってくる。それと同時にマサキは、同じ部活仲間の女の子に手を上げ、話出した。
私は軽く溜め息を吐き、フジノを見た。
「フジノさん、これからどうするの?」
「肝試ししない?」
「肝試し?」
自然と眉間に物凄く皺が刻まれる。
フジキは不思議そうに私を見詰めている。
「ダメかな?」
「ダメってわけじゃないけど……」
フジノの彼氏は苦笑いを浮かべた。
「何も起きないって。裏手の墓地に行くだけだから。怖くないって」
確かに怖い。何が怖いかといえば、上手く言葉に言い表せない。強いていうなら、大袈裟かもしれないが、命の保証が全くない怖さかもしれない。
「いいよね、ミナヅキさん」
私は頷くしかなかった。ここで嫌だと言えるほど、私は強くない。
どうやら私の同意が最後だったらしい。みんな、集まって話出した。
「どうやって行く?」
「ごちゃっと集団で行こうよ」
「ええ。面白くねえよ」
「でも、ペアだと女の子が一人余っちゃうよ」
フジノ以外の女の子達の顔が瞬時に青くなった。
「いやあ! 一人は絶対にイヤ! マサキ、一緒に行って!」
部活仲間のスミダさんがマサキの腕を取った。なぜかマサキは私をチラ見してくる。
私はマサキの視線を無視し、フジノ以外の女の子に微笑んだ。
「みんなで一緒に行くなら、私一人でいいよ」
その発言で全員の視線を集めてしまった。
フジノが私に笑い掛ける。
「度胸あるう」
「別に度胸なんてないよ。ただし、一番後ろがいい」
「そう言って逃げる気だろ?」
マサキが口の端を上げた。
「逃げないよ。後ろに人がいるのが苦手なの」
「ゴルゴ13か、お前は」
マサキの言葉で笑いが起きた。
結局、マサキ・スミダ組が先頭、私は最後一人で歩く事になった。
墓地は寺院の裏山の斜面にあり、やっと二人擦れ違える坂道を登って行かなければならない。外灯はあるが舗装はされていない。鬱蒼とした雑木林を登って行かなければならない。
風で雑木林が揺れる度に女の子の悲鳴が聞こえる。
マサキは時折私を振り返り、私の確認をする。
「逃げないわよ」
「逃げたら承知しなねえからな」
「逃げないから、前向いた、向いた」
私は苦笑いを浮かべながら、手で払う。
それでもマサキは振り返る。私も苦笑いを返し、手で払う。
分かってる。マサキは私が一人だから心配してくれているのだ。他の男の子達も気にしてくれている。
私は冷えきった手を擦り合わせる。
深夜になって急に冷えてきた。吐く息がかすかに白い。
私の背中がいきなり悪寒を覚えた。まさにゾッという擬音が似合う寒気。
マサキが振り返る。私は苦笑いを返し、手で払う。
ふと、頭数が気になり、数え出した。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9…… うん。ちゃんと九人いる」
私は安心したように頷いたが、慌てて頭数を数え直した。
「1、2、3、4、5、6、7、8…… 9……」
私はもう一度ゆっくりと数え直した。
「1。2。3。4。5。6。7。8……」
私は唾を飲み込む。
有り得ない。でも、確かにある。
「――9」
そう。私はみんなの後頭部を数えているのだ。
私を入れたら…… 十人……
私の吐く息が雪のように真っ白になった。
マサキの前にいるのは、だれ?
マサキの前に黒い髪の後頭部が見える。
まるで私達を誘導するかのように、マサキの前をユラユラ動いている。
私の毛穴という毛穴が粟立った。私の足が自然と止まる。
マサキがまた振り返った。立ち止まる私を不思議そうに見詰めていた。
「――ミナヅキ、どうした?」
私は何も言えずに首を横に振る。だから、嫌だったのだ、肝試しなんて。しかも深夜の墓地なんて。
「大丈夫か?」
みんなもその声で私を振り返る。
私は道が続いているはずのマサキの前方を見詰めていた。
外灯は確かに点いている。それなのに、道が見えない。漆黒の闇がそこに存在している。
「――み、道が」
私はそれしか言葉に出来なかった。
マサキ達が前を見て、再び私を見た。
「道がどうした?」
マサキの前にいた頭がピタリと止まる。その頭、身体がない。頭しかない。
私は逃げ出したかった。でも、身体がピクリとも動かない。頭の中で警鐘が鳴り響いている。
頭が、ゆっくりと振り返り始めた。
動かせない瞳は、それをただ見詰める事しか出来なかった。
真っ白い面長の顔に二つの空洞、毒々しいほどの真っ赤な口。私は女だと思った。
空洞と目が合う。ゆっくりニンマリと真っ赤な口が裂ける。
「お前、見えるのか」
悲鳴すら上げられなかった。
「ミナヅキ、顔真っ青だぞ!」
漆黒の闇からポと白いモノが複数浮いて出た。
警鐘は最大に鳴り響いている。
声さえ出れば。
私はなぜかそう思っていた。声さえ出れば助かる。
クイっとロングスカートの裾が引っ張られた。その途端堰を切ったように、私は有りっ丈の悲鳴を上げていた。
それに連動し女の子達の悲鳴が上がる。前にいた仲間が私の横を擦り抜け、一斉に下り出した。
でも、私は動けない。
頭が物凄い形相をし、私を睨み付け、獣のような雄叫びを上げる。
グイッと腕を掴まれた。
「なにしてんだ!」
私はマサキに腕を引かれ、動く事が出来た。でも、後ろから迫ってくる気配は消えない。漆黒の闇が迫ってくる気配。振り返らずにいられない。
私は何度も振り返る。それに釣られてマサキも振り返る。
「なんだよ、なんなんだよ!」
「マサキの前にね、女の人の頭だけが浮いてた」
マサキは表情を強張らせ、引く手が強くなった。
闇の迫るスピードが私達より早い。周りが段々黒くなっていく。このままだと、私もマサキも漆黒の闇に飲み込まれてしまう。
また、スカートの裾が引かれた。
私の口から悲鳴が上がる。
もう一回スカートの裾が引かれる。
「イヤあっ!」
はっきりと拒絶の叫びが出た途端、一瞬にして辺りが明るくなった。パッと灯が点いたようにだ。
私は仲間の所まで降りて来て、改めて振り返った。
漆黒の闇の中で頭達が咆哮を上げていた。だが、一定のところから降りて来れないようだった。
フジノが溜め息を吐いた。
「怖かったあ」
「マジ、ビビったよ」
みんなの視線が自然と私に集まった。
「ミナヅキさん、もしかして見える人?」
男子の一人が口を開いた。
私は首を振った。
「分からない。でも、スカートの裾を引っ張られた」
マサキは私を見詰めている。マサキには分からないだろう。なぜ見えた事を口にしないのか。
ここでは口にしたくない。してはいけない気がしたのだ。
数年後、マサキに聞かれた。
「――なんであの時、見えた事口にしなかったんだ?」
大人になった私達が偶然街中で再会し、思い出話に花を咲かせていた時だ。
「あの時、見えたって口にしたら、せっかく張ってもらった結界が破れちゃうからよ」
マサキは不思議そうに私を見詰めていた。
「結界…… やっぱりそういう力があるのか?」
私はマサキに微笑んだ。
「見えない人、感じない人よりはね。――ただそれだけよ」