むくどりのゆめ
*浜田広助「ひろすけ童話」収録の作品「むくどりのゆめ」から作中の「暗唱・朗読部分」の文節を一部引用しています。
ああ。さっきからけものみたいなさけび声が聞こえていたのはこれか。
ぼくは高いビルの手すりから下を見ながらそう思った。
なみきみちの緑をすかして、大通りの十字路のまんなかに大きなトラックがななめに止まっているのが見える。その正面にひしゃげた子ども用の自転車がたおれていて、そのそばに青いTシャツに白い短パンの男の子が、赤い水たまりに首をつっこむみたいにしてうつぶせている。
運転席からおりてきた運転手らしい男のひとは、けものみたいな声でさけび続けている。地面にひざをついて、手もついて、四つんばいになったまま。
よごれたさぎょう服の背中が、そのたびになみうっている。
もっとよく見ようと手すりからのりだした次のしゅんかん、目の前がくるりとまわって、ぼくは空中にいた。目のまえが緑のはっぱでいっぱいになる。太陽のひかりがななめにきらめく。車の列やあつまったひとたちやサイレンの音がみるみる近くなり、アッと思う間に、ぼくの目の前にはその男の子の顔があった。
顔……。すごい顔だ。
おでこのまんなかがわれて顔中血だらけだ。ぽかんと開けた口からもだらだらと血が流れている。地面に投げ出された手も足も、こわれた人形みたいにてんでにあっちこっちを向いている。
ぼくはこの顔を知っている。知っている。これは……
これは、ぼくじゃないか?
ごめんよ、ごめんよあああごめんよごめんよおおおおお……
ぼくの目の前でおじさんはさけび続けてる。
おとながあんなふうに大声で泣いてるのを、はじめて聞いた。
ぼくの体はピクリとも動かない。ピーポーピーポーという音が近づいてきたと思うと、すぐ横に白い車がとまって、どかどかと白い服を着た大人の人たちがおりてきた。ぼくはそのうちの一人に、しっしと足の先でけるような足つきで追いはらわれた。
ぼくはあわてて後ずさった。ぴょん、ぴょん、ぴょん。あれ、ずいぶん身が軽い。それにしてもなぜだれもぼくのことを気にとめないんだろう。だって、目の前にいるのはぼくなのに、ここにいるのもぼくなんだよ。二人も同じ子どもがいるのに、へんだと思わないの?
これ以上けられるのはいやなので、ぼくは近くのガードレールの上に飛び乗った。そのとき、広げた羽がちらりと見えた。はね。鳥みたいな羽。ぼくには羽がある?
ぼくはぐるりと首をまわして自分の体を見た。くらいくもり空みたいな色だ。目の先のくちばしは、ミカンみたいな色だ。くちばし?
鳥みたい、じゃなくて、これは、この体は、鳥?
ぼくは鳥なの?
じゃあ、目の前でたんかに乗せられてはこばれていくあの体は?
おじさんはもうさけんでいない。口をあけてすわりこんだまま、おまわりさんに何か話しかけられているけど、なにも答えないので怒られているみたいだ。ああ、うでをつかまれて、パトカーに引っぱり込まれていく。
ぼくはとにかくそこにいるのがいやになったので、さっと羽を広げて木の上に飛んだ。ああ、行く先を思うだけでちゃんと飛べる。ぼくは鳥なんだ。でも、じゃあ、ぼくだと思ったあれは、だれなんだろう?
近くの小さな児童公園に、ゆっくりおりてみた。
羽ばたきの回数、おりるときの角度。ぼくは飛ぶための何もかもを知っているみたいだ。
公園にいた人たちはみな道路のほうに行ったらしく、人けがなくてしんとしていた。そう、ぼくはこの公園をしってる。よくこのオレンジのブランコに乗ったし、あのすべり台で友だちのたくやくんとさっちゃんとあそんだ。はっきり覚えてる。
木のベンチに一人だけ男の人がすわっていた。黒いつばのあるぼうしをかぶって、肩まで髪をのばしている。黒い、すその長いふくを着て、うつむいてひざの上の本を読んでる。ここはよくおかあさんが、あそんでいるぼくを見ていたベンチだ。
ぼくはベンチの背もたれにとまった。男の人は気にしないようで、片手にペンを持ったままぱらりと本をめくった。
あれ?
この本はまっ白じゃないか。なにもかいてないぞ。じゃあ、ノートなのかな?
それにしてはじいっと読んでるようにも見える。この人にだけ見えるなにかでも、書いてあるのかな?
のぞいてみようとちょんちょんとそばによると、男の人は本をとじて、ぽつりといった。
「うまくいったようだね。じょうずに飛べてる」
え?
「むくどりのゆめ。古い本だったね、寝る前にお母さんがいつも読んでくれたのは」
そう、そのとおりだ。どうしてそんなことをこのひとが知っているんだろう?
男のひとはこちらをふり向いた。
「となりにおいで」
ぼくはちょんとベンチのざせきにおりた。男の人は、緑色の目をしていて、お人形みたいにきれいな顔だった。
「さて。すどう・わたるくん。残念ながら、きみの人生は六年でおしまいだ」
とてもしずかな口調で、その男のひとはいった。
すどうわたる。わたるくん。そうだ、それがぼくの名前だ。家を出るまえ、おかあさんにどなられたのを覚えてる。わたる! おかあさん、もうしらないからね!
「ぼく、死んだの?」おそるおそる聞いてみた。
「いまはどっちとも言えないけれど、じきにね」
「あのからだが、ぼくだよね?」
「そうだよ。自転車に乗って信号を見ないで飛び出して、トラックにひかれたんだ」
「……おにいちゃん、だれ? どこからきたの?」
「神様を信じるかい?」
「さあ、ええと、よくわからないや。お寺とか神社とかは行ったことあるけど、あそこに住んでるのが神様なの?」
「あれは人間の都合で作ったものだよ。ぼくはその大元の、この世界をいろいろ調節しているところから来た。その調節をしてるのが、たぶんこの世で言われている神様だ。
ぼくはそのあたりからの指令で、こちらからあちらへ渡る前に、死んだ人がいろいろ残念な思いを残さないように、少しだけこの世に魂を残してあげる仕事をしてる。ここには、死んだ人とこれから死ぬ人の名前と、日付と、死んだ後のこととかいろいろ書いてあるんだ」そういって、何も書いてないノートを広げてみせた。
「死んだあと?」
「つまり、きみの今だね。まだ中間だけれど」調節するところ、から来た男のひとは、風にそよぐ公園の木みたいな笑みを浮かべた。
「きみはお母さんとけんかして、おうちを飛び出した。どうしてけんかしたか、覚えてる?」
「うん、大きな声で怒られたのは覚えてる」
「なんで怒られたのかな?」
「ああ。ぼくね、ピアノをひかなかったんだ」ぼくはだんだん思い出してきた。
「おかあさんがかってに音楽教室にぼくをいれて、ぼくいやだっていったのに、さっちゃんもゆうすけくんもみんなはいってるのよって。小学校のじゅぎょうできっと役に立つし、おかあさんむかしピアニストだったのよって。ぼく、ピアニストなんてならなくていいっていったんだけど」
「聞いてくれなかったんだね」
「先生はいすにすわってじっとするのもくんれんだとかいうし、おけいこでがくふを読めるようになりましょうねっていうし、ぼく、ひくのも読むのもだいきらいだった。歌を歌うのは好きだったけど、ピアノはちがうんだ。あんなことしたくない。なのに、お教室の前の日はおかあさん、いいっていうまでいすからおろしてくれなくて」
「それで、けんかしたんだ」
「けんばんを目の前にすると、おかあさん、めちゃくちゃこわくなるんだ。大声で、なんでいったとおりにおさえるだけのことができないのって、どなるんだ。ぜんぜん笑ってくれなくなるんだ。それでぼく頭にきて、ピアノの上のがくふをとって、ほうり投げたんだ。そしてどなっだんだ。
おこるのやめて、ぼくのこと抱っこしろ! って」
「お母さんはどうした?」
「だまって、がくふを拾いにいった。何もいわなかった。抱っこしてくれるのかなって思って手を広げたら、がくふをくるくる丸めて、ぱーんって、ぼくのあたまをたたいたんだ。思いきり。
だーって涙が出た。泣くより前に、だーって」
だんだん思い出すといっしょに、胸がどきどきしてきた。
「ぼくね、泣きながらもう一度がくふを投げたんだ。こんどはかべにあたった。それで、おかあさんなんてだいっきらいだ、このうちにはもう帰らないからねっていって、げんかんから飛び出した。
おかあさんもさけんでた。後ろで、わたる、おかあさんだってあなたのことなんかもうしらないからね。もう帰ってこないでいいわよ、帰ってきても家に入れないからねって、大きな声で」いいながら、ぼくの目からはまた同じものがぼろぼろ出てきた。
「もう泣かなくていいよ」おにいちゃんはやさしくいって、指でぼくの涙をふいてくれた。
「あのまんま会えなくなるなんて、思ってなかった」のどが勝手にひくひくふるえた。
「ぼくより三つ上の、おねえちゃんの自転車が庭にあって、それにのって、教えてもらったばかりの三角乗りで、ぐんぐんこいでみちを渡って……」
「そこまで思い出せば十分だ。もういいよ。さて」おにいちゃんは立ちあがった。
「お母さんに、会いたいだろう? これきりお別れじゃ、あんまり急だからね」
なんていっていいかわからなくて、ぼくはしばらく黙っていた。
「……でも、まだ怒ってるかもしれない。さいごに見たときおかあさん、すごい顔だったし……帰ってきても、家にいれないって……」
「もし会えたら、もう怒ってなかったら、なんていいたい?」
ぼくはしばらく、空を見上げて考えた。夏の空には雲が一つもなくて、うそみたいに明るくて青かった。
「……やっぱり、抱っこしてほしい。いちばんやさしいときのおかあさんにもどってほしい。
でも、ぼくは小さな鳥になっちゃったから、抱っこなんてできないね。おかあさん、鳥なんてそんなに好きじゃないし。うちでかってるのは猫だし」
「でも、見に行くことはできるよ。なにしろいまのきみには、羽がある。どこへでも行ける」
「うん、そうだね」
ぼくはそろりと羽を広げてみた。くらい灰色の、きれいな羽だった。
「少しのあいだ、その体はきみのものだ。悔いのないように、行きたいところへ行って、見えるものを見られるだけ見ておいで。そして、もういいと思ったら戻っておいで。ここで待っているから」
おにいちゃんはノートを閉じると、ぼくにかざして見せた。ふわっと風がふいて、あたまのまわりのさるすべりの木々がそよいだ。こいピンクの花びらがはらはらと散ってゆく。空を見上げて目を前に戻したら、もう目のまえの公園におにいちゃんはいなかった。
ぼくは空を見上げた。ぴかぴかの、底のない空。あつくてひろい海が頭の上にあるみたいだ。
いくぞっ、と思ったとたん、羽が勝手に動いて、ぼくはもう宙に浮いていた。
風がぼくの背中を押してくれる。ぼくの横を、すずめたちが飛んでゆく。
『あっちの公園にはたくさん実が落ちてるみたいよ』
『たまに餌をくれるおばさんが今ベンチにすわっているよ』
歌みたいに、すずめ通信がぼくの胸にとどく。ああ、ことばはなくても、思いはあるんだね。ぼく今まで、ことばを持たない生きものには、考えるあたまも、こころも、ないような気がしてた。
『あなた、ひとりなの? いっしょにくる?』
すずめのうちの一羽が羽ばたきながら話しかけてきた。
『ぼく、いくところがあるんだ。いそがなきゃ』ぼくはそう答えた。
『そう、見たところまだちいさいのね。羽の色から見て、わたしたちのなかまじゃないわね。夕方になると群れをなして騒いでいる、はいいろどりの仲間ね。お母さんはいないの?』
おかあさんは…… おかあさんは……
『ああ風が来るよ、木が鳴ってる』そう、先頭の大きなすずめがいった。とたんにごおおっと大きな風が吹いて、ぼくはくるくるとまわりながら流されてしまった。
ああ、けしきがぐるぐるまわってる。あんまり回るとぼく、自分のばしょが分からなくなってしまう。ぐるぐるぐるぐる、あいたっ!
何かかたいものに頭をぶつけたと思った次のしゅんかん、なにもかもわからなくなってしまった。
ふと目をあけると、あたりはうすぐらかった。
ぼくはけっこうたかいところにいる。町中が、海のそこにしずんだみたいにぼんやりあおい。もう夕方だ。ぼくは頭をあげて、きょときょととあたりを見まわした。
どうやら、背の高いたてものの窓の下の、つきだした部分に、ぼくはいる。
まわりをみてみる。となりの背の高い木のてっぺんと同じぐらいの高さだ。少しはなれた出口から、赤いぐるぐるを回してサイレンをならしながらきゅうきゅう車が出ていった。
たぶんここは、病院だ。
それにしてもあたりのけしきがもうさっぱりわからない。困ったぞ、まいごになっちゃった。あのときのしんせつなすずめさんも、もういないし……
窓の中は明るいけれど、どこもカーテンがしまってる。なんだかさびしくて、あかりからあかりをつたってちょんちょんと飛びうつってみた。すると、ある窓のカーテンが少し開いていて、中が見えた。
ベッドがひとつ。せまいへやだ。その中央に、ほうたいでぐるぐるまきになって顔の半分見えない子どもが、横になっている。
うでとか足にたくさんつながっていたくだを、かんごしさんがひとつひとつはずしてゆく。まわりには何人かおとなが立っている。みんなこちらに背中を向けているので、顔が見えない。でも、もしかしてこれは……
さいごのくだがはずれると、子どもを見おろしていた女の人が、とつぜん子どもの上に突っ伏した。
わたる! わたるー!というさけび声が聞こえる。
ああ、やはり。
……おかあさんだ。
おかあさんは十回ぐらいぼくの名をさけんだあと、ごうごうと声を上げて泣きはじめた。ぼくが今まで聞いたことがないような声だ。あのとき、ぼくが、けもののほえ声と思ったあの男のひとの声と同じぐらい、いやもっとすごい、もっとかなしい、痛いようなこわいような声だ。
……ああ。今、ぼくのいのちは終わったんだな。なんだかしんとしたきもちで、ぼくはただ、そう思った。
もうぼくに、ことばはない。おかあさんともおとうさんとも、もう、話はできないんだ。
おかあさんを背中から抱くようにしているのは、おとうさんだ。おとうさんはいつもやさしかった。ピアノなんてもういいじゃないか、わたるがこんなにいやがってるんだから、とかばってくれた。よくサッカーボールをもって公園でいっしょにあそんだ。
もう、何もできないんだ。もうぼくとあそべないんだ。かわいそうなおとうさん。
おとうさんの背中もふるえてる。泣いてるんだな。ごめんなさい、ごめんなさい、おとうさん。おねえちゃんの自転車なんかで出かけなければよかった。
おいしゃさんがうでどけいをみて、なにかいってる。それから、でていってしまった。
あ、おばあちゃんがはいってきた。真っ赤な、くしゃくしゃの顔をしてる。おねえちゃんの手を引いてる。おねえちゃんはへやのようすにおどろいて、入口のところで固まってる。おねえちゃん、だいじな自転車をぺしゃんこにしてごめんね。
みんなすごく悲しそうだ。みんなとても苦しそうだ。みんながぺしゃんこになってる。
ぼくがぺしゃんこにしたんだ。おかあさんおとうさん、おねえちゃんおばあちゃん、それからうんてんしゅさん、みんなのこころを。
ねえ、もう、そんなに泣かないで。ぼくもうくるしくもなんともないんだよ。そんなに呼ばないで、さけばないで。ぼく、どうすればいいの?
なんだかもう見ていたくなかったので、ぼくは窓をはなれた。
屋上まで飛びあがって、高いさくの上にとまって、ぼくはしばらくぼんやりしていた。空にはまんまるな月がだまって光っている。ひゅうひゅうと風の音だけがする。
だいぶたって、やがて下のでいりぐちからみんながでてきた。あれ、三人だ、おばあちゃんがいない。よろよろと、なんだかおたがいによりかかるようにしてる。その前に、タクシーがとまった。
みんなあれにのってうちに帰るんだ。じゃあ、あれについていけばうちにいくんだな。ぼくはタクシーのあかりについていくことにした。
羽を広げてさくをけると、かんたんに体がふわりと風にのった。
ゆうぐれの町は、通りにそってかざりみたいに灯りがならんで、なかなかきれいだ。上から見ると、世界には、光ってるものと光ってないものしか、ない。
あとは光の色がちがうだけ。
光がちらちらして、おたがいにおしゃべりしてるみたいだ。遠くのたかい鉄塔やたてものの赤いあかりも、赤いタクシーのおしりのランプも、みんな、しずかに青い海のそこにしずんでるみたいだ。
ああ見えてきた。小さなにわをかこむ、くの字型のぼくの家。赤いやねに緑のしばふ。その色は今はくらくてはっきりしないけれど、あたまに浮かぶんだ。にわのガレージにとめてある車の色は、青。海の色。空の色。ぼくの好きな色なんだ。
ぼくは車がつくより先に羽をすぼめてきゅうこうかした。そして、背の低いはなみずきの木の下の、青い車のやねにのった。
レースのカーテンごしに、まどの中をのぞく。
なつかしい家。
ぼんやりと、居間の小さいあかりがついている。おや、まどのむこうから、猫のミウミウがこちらをみてる。
ただいま、みけねこのミウミウ。ぼくが見える?
ぼくは車の屋根からミウミウの前にとびおりた。ミウミウの目がぽかっと大きくなった。そう、おまえ、おどろくと目の黒いところが大きくなるんだよね。
その黒いところが、がいとうの光をうけて、まん丸に光った。
夜の猫は、まものみたいだ。ちょっとおまえ、かっこいいぞ。
ミウミウは口をあけて、何かいってる。
カカカ。カカカカカ。
ああ、鳥をみるといつも出す、あの声だ。ぼくが見えてるんだな。そしてぼくはおまえの目にも、やっぱり鳥にしか見えないんだ。
それからミウミウはカカカをやめると、首をかしげてぼくを見た。そしてまえ足をおってすわりこんだ。箱すわりって、おかあさんがいつもいってる、あれだ。
うしろの道路に車がとまる音がした。タクシーだ。
ミウミウはぼくから目をはなさない。ぼくもミウミウから目がはなれなかった。ミウミウがなにかいってる気がする。ぼくにはわからないけれど、なにかを。
ミウミウ、おまえ、わからない? おなじどうぶつなんだから、ぼくの心を読んでよ。それじゃなければ、ぼくがわたるだって気づいてよ。ぼく、ひとりぼっちなんだ。
ミウミウのいるへやに、あかりがついた。みんながはいってくる。いや、おかあさんだけがいない。
ぼくはとびあがって、二階のかいだんしつの窓から中を見た。ああ、おかあさんがひとり、かいだんを上がってきた。そのまま、ぼくのへやに入った。ぼくもベランダ伝いに、自分のへやの窓辺にうつった。
おかあさん、へやのあかりをつけて、本だなをみてる。なにをさがしてるんだろう?
とりだしたのは、「ひろすけどうわ」だった。
ああ、ぼくがだいすきだった本だ。いつもぼくに読みきかせてくれた本だ。やさしいお話ばかりで、ぼく、どうぶつのさし絵が、好きだった。
おかあさん、「むくどりのゆめ」読んで。ぼくが大好きだった話。おかあさんが読む声は、いつもやさしかったよ。その声を、ぼくにきかせて。
おかあさんは、ぺたりとゆかにすわって、じっと本をみている。みているけれど、読まない。声を出さない。
ねえおかあさん、その本を読んでよ。いつもの、やさしい声を聞かせてよ。
ぼくね、きっとそれをきくために、ここにもどってきたんだ。
開いたページの、むくどりのさし絵が、みえる。くりっとした目の、かわいい鳥。ああ、そのページのことば、ぼくみんな覚えてる。こんなふうなんだ。
……ある日、また、むく鳥の子はたずねました。
「おとうさん、まだ おかあさんは かえって こないの」
「ああ、もうちょっと まって おいで」
「いまごろは、うみの 上を とんで いるの」
「ああ、そうだよ」と、とうさん鳥は、こたえました。
「もう、いまごろは、山を こえたの」
「ああ、そうだよ」
けれども、十日 はつかと たっても、かあさん鳥はかえってきません。
子どもの 鳥には、十日は ながくて、
ひと月よりも、いや もっと
一年よりも ながいように おもわれました。
◇
「お父さん。枕、どっちに置いたらいいの」
父親の顔を見上げて、スギナは言った。
「北だから、そっちの小さい窓のある方だ」
父親は沈んだ声で答えた。
スギナは新しいカバーをかけた枕を、白い敷き布団の上においた。父親が、牡丹の花の書いてあるお客用かけ布団をその足元に置き、三つに畳む。
「お母さん、……二階から降りて来ないね」そう言ってスギナは上を見上げた。
「わたるの部屋にいるんだろう。いまはそっとしておいてあげよう」布団の皺を伸ばしながら、父親は言った。
「うん、でも、もうじきおばあちゃんといっしょに、寝台車でわたる、この家に帰ってくるんでしょ」
父親はちょっと考えて、
「……そうだな。ちょっと様子を見て来るか」そう答えて静かに階段を上がっていった。
二階の廊下には灯りもともっておらず、一歩ごとに足元がきし、きしと鳴った。いつも幼い息子の声と足音がにぎやかに響いていた空間。今はただしんと淋しく静まり返っている。
足音を忍ばせて近づいた息子の部屋の中から、妻のささやき声が聞こえて、父親はぎくりと足を止めた。
ぼそぼそと低い声で、語り掛けるように何かを言っている。
そっとドアノブを回して部屋に入ると、デスクスタンドひとつがついた薄暗い部屋の中で、妻が一人机に向かっていた。
この春、小学校入学祝いに買ったばかりの息子の机の上には、寝る前にいつも読んでやっていた「ひろすけどうわ」が開かれている。
かわいい小鳥の描いてあるページに目を落としたまま、妻は一心に本を読んでいる。震えるような、細い声だ。
「さて、ある夜でありました。むくどりの子は、ふと ぽっかりと目がさめました。
かすかな音がしていました。
かさこそ、かさこそ……
耳をむけると、木のほらの口もとらしく、どうやら 羽のすれあうような ひくい音。むくどりの子は、とうさん鳥をゆすぶり起こして 言いました。
おとうさん、おとうさん、おかあさんがかえってきたよ」
「……洋子」
背後から父親がそっと声をかけても、まったく耳に入らない様子だ。こちらに背中を向けたまま、本を読み続ける。
「いやいや違う、風の音だよ」
「洋子、大丈夫か。下におりて、熱いお茶でも飲まないか」
妻は、こちらを向かない。抑揚のない声で、ただ読み続ける。
「夜が明けました。朝の光がほの白くさしてきました。でも木のほらには、ぼんやりと うすいやみがこもっていました」
「洋子!」父親はひときわ大きな声を出した。
「しっかりしろ。しっかりしよう。ぼくらにはスギナもいるんだ。それにあと小一時間でわたるの体が、病院からここに帰ってくる。準備してちゃんと迎えてやらないと」
「かさこそ、かさこそ……」
後ろから父親にぐいと両手で肩を掴まれて、母親は読むのをやめた。そして、窓の外の闇に目を凝らしてつぶやいた。
「……あの子、帰ってこないわ」
「帰ってくるんだよ。婆ちゃんが付き添ってくれているよ」
「帰ってこない。わたしが帰ってこなくていいって言ったから。……言ったから!」
途端に椅子を蹴飛ばして母親は立ち上がった。髪はざんばらに乱れ、宙に釘付けになったような目をしていた。
「あの子がいつ、どこに行くときでも、行ってらっしゃいとわたしは言ってあげていたの。気をつけてねって言っていたの。元気で帰ってきてほしかったから。でも言わなかった、最後に出ていったとき、もう知らないって、帰ってきても家にいれないって、入れないってわたしは言ったの!」
「洋子、もうやめなさい」父親は母親の震えるからだを抱きしめた。「もう思い出さないでいい。全部終わったんだ」
母親はもがくようにして叫んだ。
「怒るのやめてぼくを抱っこしろって、あの子は手を広げたの、わたしはその頭を叩いたの。わたるは入ってこられない、わたしのせいで帰ってこられない。わたしの、わたしのせいで!」
「おとうさん!」階下から娘の叫び声がした。
「なんだ!」ついつい大きな声で、父親は怒鳴り返していた。
「ミウミウが、ミウミウが鳥をくわえてきたよ!」
たかたかたかっと猫が階段を上がるかろやかな足音がして、開いたドアから三毛猫が部屋に飛び込んできた。
その口にはしっかりと、灰色の子鳥を咥えている。
「こらっ、まったくこんなときに」父親に怒鳴られて、ミウミウはウ~と喉の奥で唸り声を上げた。あとから駆け上がってきた娘は泣きそうな声で言った。
「お父さんごめん、ミウミウがあんまり外に出たがってカリカリするもんだから、庭でおしっこするだけならと思ってそれでわたし……」
「ウ~~~」
部屋の隅に追い詰められて、ミウミウは背中の毛を逆立てた。そのとき、目を吊り上げていた母親が、ふと膝を折り、両手をミウミウに差し出した。
ミウミウは唸るのをやめて、上目づかいにその顔を見た。
そしてゆっくり近づくと、顔を上げた。その頭を、母親の手が撫でる。と、ミウミウはぽとりと口から小鳥を落とした。
「あ、はなした」スギナが思わず叫んだ。「おかあさん、小鳥、つかまえて!」
母親は両手で小鳥をすくうようにすると、そっと両掌の中に小鳥を包み込み、愛しげに胸の前に持ってきた。 小鳥は目を閉じたまま、ぶるぶると震えている。
「生きてるのかな、大丈夫かな」スギナは母親の手の中を覗き込んで言った。「この子、すずめじゃないね。体が灰色で、くちばしがオレンジで、ほっぺが白くて…… あれ、この絵本と同じじゃない。同じ鳥だよ!」
父親は、むくどりのゆめ、とかかれた絵本の表紙を確かめて、中の挿絵を見た。確かに、その挿し絵と鳥は同じ姿かたちだった。
「椋鳥か。偶然だな。こんなことがあるんだな」呟くように言うと、小鳥を見つめる母親の姿に目を移した。
さっきまでの取り乱した様子とは打って変わって、母親は一心に手の中の鳥を見つめている。
と、くるりとむくどりの子が目を開けた。
黒い、小さな目で、目の前の人間を見つめる。乱れた髪の毛の中の、涙にぬれた瞳と、むくどりの子の目がかちりとあった。
母親の頬が、なにかがぽっとともったようにもも色に染まった。しばらくの間、人間の母親とむくどりの子はじっと見つめあった。小鳥は甘えるようにちちち、と小さな声を出した。母親は唇を近づけた。その唇を、オレンジ色の嘴がそっとつついた。
突然、猫のミウミウがじゃれようとするかのように飛びついた。むくどりの子はぱっと舞い上がり、壁に、そしてガラスにぶつかった。父親は慌てて窓に駆け寄り、さっとサッシを開けた。
「あ!」スギナが叫んだその瞬間、もう鳥の子は夜空に飛び出していた。
「見えなくなっちゃった。おとうさん、まるで空中で消えたみたいだよ」
「いやいや。大丈夫、お空に帰ったんだよ」そう答えて、父親は背後の母親を振り向くと、やさしく言った。
「無事空に帰せてよかったな。ね、お母さん」
母親はあいた窓から暗い空を見つめたまま、囁くように言った。
「……気をつけてね、わたる」
「ん?」
怪訝そうに父親が聞き返すと、ほろほろと涙をこぼして、もう一言、付け足した。
「……行っていらっしゃい」
そして何か安心したように、目を閉じると、ぱたりと、その場に倒れた。
空の高みで、ごうっと風が鳴った。
それと同時に、手元のコップ酒にぱらぱらぱらっと、濃いピンク色の花屑が散った。
男は充血した目を上げて、夜の空を見あげた。頭の真上には、さるすべりの木。ゆらゆらと頭を振るようにして、花を散らしている。いやいや、よく見れば揺らしているのは風ではない。小さな鳥が枝から枝へ飛び移っては、花をついばんでいるのだった。ついばんで、散らしているのだ。雨のように、男の頭上に、ピンク色の花びらを。
男は座っていたベンチにコップを置くとよろよろと立ち上がり、自分の傍らに置いていた花束を掴んだ。薔薇、カーネーション、百合、トルコキキョウ。財布の金で買えるだけ買って包んでもらったそれを、よろめきながら抱え、よろよろと交差点のガードレールのたもとに置く。黙って手を合わせ、長い長いこと俯いて祈ったのち、その場に座り込んだ。
何とはなしの気配にふと振り向くと、背後の公園の滑り台の上に、黒い人影があった。
黒い帽子、長い髪、マントのようなものをひらめかせて、滑り台のてっぺんにすっと立っている。頭上には、青白い満月が輝いている。細長いその姿はまるで月夜の死に神のように見えた。
これは夢か、夢ならいっそこのからだを連れて行ってもらえないものかと男がぼんやり眺めていると、その人影は帽子をとって頭上に高く掲げた。
その帽子に、頭上のさるすべりの葉陰から飛び出した鳥の影が、ひゅっと飛び込んだ。
少なくとも男には、そう見えた。
人影は何もなかったかのようにその帽子をかぶると、こちらに向かって軽やかに手を振った。
それから空を見上げ、脇に本を抱えて、見えない階段を上りはじめた。滑り台のてっぺんからなお空に向かう、見えない夜の階段を。
とん、とん、とん、とん、とん、とん、十を数えないうちに、その姿はすうっと垂直に真上に飛びあがり、月夜に溶け込んでいった。
男はわけがわからないまま、なんだか笑いたいような泣きたいような変な心持ちになって、くくくくっとのどの奥を鳴らした。
ざあっと風が吹いて、ぱらぱらぱらと空の高みから花屑が降ってくる。
くくくく、という声とともに、正体のわからない涙が頬を流れ続けた。
酔い心地のままいつまでも体を揺らしながら、男はおさない子どものように、ああ明日も生きようと、ただそう思った。