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第七章  真相

 その後、俺たちは杉山絵梨より伊原賢一の殺害状況の告白を受けた。

 それは思いのほかあっさりとしたものだった。遺体発見の前日夜九時頃に、伊原賢一を大学へ呼び出した。そして西館の一室で犯行に及んだが、その時は逃げられてしまった。その後伊原賢一を追いかけ、ついにあの庭園へと追い込み、殺害した。凶器は予め用意していた金属バットであった。杉山絵梨は、伊原賢一が完全に動かなくなるまで、延々と頭部を中心に殴り続けたのだと言っていた。

 その告白が終わった後、またあの蛇のような笑みで警察につきだすかどうか訊ねてきた。

「俺たちは警察じゃない。自分の身の振り方は自分で決めろ」

 俺はそう吐き捨て、杉山絵梨に背を向けた。

 その後俺は一度も振り返ることなく、大学を後にした。俺の後ろには、二人の足音が続いてきていた。

「……で、何で家までついて来るんだよ?」

 俺は大学近くのアパートで独り暮らしをしているのだが、何故か瑞希と広田は俺の部屋にいた。二人はちゃぶ台を囲んで座っている。しかもいつ用意したのか、お茶を淹れた湯飲みが三つ、湯気を上げていた。

 俺はベッドに腰をかけ、二人を見た。二人とも涙目だ。余程「杉山絵梨衝撃の告白」が堪えたのだろう。まあ、衝撃的であることは確かだな。

 半ベソ状態でも、勝手に人ん家のお茶を淹れるちゃっかりさは保っているのか……。

「ねえ壮介君、私もう訳判んないよ」

「そうだな、訳判んねえな」

 釈然としなかった。俺が掴んでいた事実はあくまで杉山絵梨が伊原薫になりすましていたことであり、杉山絵梨が伊原賢一を殺したという事実は全く掴んでいなかった。

 しかしあの時、杉山絵梨は俺に対しこう言った。

(ホント、よくここまで判ったわね)

 何かがおかしい。俺は伊原賢一の殺した犯人は杉山絵梨とは言っていない。なのに何故杉山絵梨は色々な段階を飛ばすかのように、あっさり罪を認めたのだろうか。

 そうだ、あっさりしすぎている。

 まるで自ら望んで今回の事件を幕引きさせたかのようではないか。

 それに杉山絵梨の告白には不自然な点がいくつもある。

「本物の伊原薫はどうなったんだろうな」

 俺はお茶を啜りながらそう呟いていた。杉山絵梨から伊原薫のその後について何も語られなかったのだ。

「もう、亡くなっているのかもしれないね」

 瑞希は隣りの広田に気を遣いながら、そう応えた。

「いやそれはないだろう」

 しかし俺は瑞希の応えに対し、殆んど間を作らずに返した。

 もし伊原薫が亡くなっていることを公式に認められているならば、杉山絵梨は大学には来ていない。死人が大学受験を出来るわけがない。また事件当時、伊原薫は高校生だ。何日も学校に来なければさすがに不審がられる。

 仮に伊原薫は亡くなっていて、杉山絵梨がその直後から入れ替わっていたとしたら、伊原薫の遺体はどうやって処理したのだろうか。少女一人で遺体の処理なんかそうそう出来ることではない。

 それに杉山は伊原薫とはとても仲の良い関係だった。そんな人間を、土の中に埋めたり、焼却したりといった想像は、俺にはとてもできなかった。

 そこで俺は一つの仮説を立てた。それは「ある前提」を元に、色々な推理を重ね合わせたものであった。そうするとその仮説は、一つの答えを導き出すことができる。しかし、それはあくまで仮説。これを証明するにはまだまだ情報が少なすぎる。

「もうちょっと、調べないといけないな」

 正直な所、俺たちが今回の事件に首を突っ込んでも、何のメリットもない。でもこのまま勝手に幕引きされては何だか胸クソが悪い。

「調べるって何をですか?」

 広田が不安気な表情で訊ねてきた。

「まだ何も決めてない。ただ今回の事件、俺の中で一つの前提がある。それに沿って色々考えていきたいと思う」

「前提?」

 瑞希と広田は同時に声を上げた。そして俺は冷めてしまったお茶を飲み干した。

「杉山絵梨は犯人じゃない。犯人は別にいる」

 

 翌日

 俺と瑞希は早朝の大学に来ていた。早朝といっても午前七時。社会人にとってみれば、とっくに起きて通勤ラッシュの中にいる時間であろう。しかし大学生の朝はまだまだユルユル。現に瑞希は半分寝た状態で立っていた。まあ瑞希の場合、もともと朝が弱いというのもあるのだが。

 そして俺たちは北館の前に立っていた。まだ早いため、扉は施錠されており館内には入ることはできない。

 俺たちが北館の前にいるのには理由があった。ある人物と会うためである。

「なあ瑞希、本当に北館で合っているんだよな?」

「……クー」

 瑞希は立ったまま寝ていた。器用な奴だ。

 ゴツン!

 そんな器用な奴に頭突きをかましてやった。

「いたい〜」

 瑞希は涙目でこちらを睨みつけてきた。

 しかし俺はそんな視線を無視し、ただ前方を眺めていた。大学は山の上なので、この季節の朝方はややモヤがかかっている。だから遠くの方まで人影を確認することはできない。

「この間北館からバケツ持って出てくるのを見たから、多分大丈夫だと思う」

 多分……つまり確証はないということである。まあ今日だけで掴まるとは思っていないから、何日か連続して来てみるつもりだ。しかしあまり時間をかけたくない。

 そして待つこと十五分。幸運にも俺たちの「待ち人」が姿を現した。

 その人は緑色の作業着に身を包んでいた。そして手には雑巾の入ったバケツ。作業着の胸には会社名が刺繍されていた。

 そう、その人とはは大学に出入りしている、清掃会社のおばちゃんであった。

「あの突然すみません。少しお伺いしたいことがあるんですけどよろしいですか?」

 瑞希がおばちゃんに対しそう切り出した。

 するとおばちゃんはバケツを地面に置き、最初は躊躇ってはいたが、五分だけという条件で応じてくれた。

「まず確認させてください。西館で起こった事件の第一発見者ですよね?」

 おばちゃんは少し間があってから静かに頷いた。

 このおばちゃん、通常は西館の清掃を任されているのだが、あの事件以来西館は立ち入り禁止の状態なので、北館に配置転換されていた。事件発覚後、警察から事情聴取を受けてからすぐ職場復帰したそうである。本当なら休んでいたかったそうだが、このおばちゃんも生活していかなければならなかった。

「あともう一つだけ、教えてほしいことがあるんです」

 俺の言葉におばちゃんは頷いた。

「伊原賢一の死体を発見した時、何か気になったことってありました? 周りの状況、伊原の様子で。どんな些細なことでもいいです。教えてください」

 そしておばちゃんは考え込んだ。しばらくしておばちゃんは顔を上げた。

「そういえば、ズボンが汚れていました。えっと……このあたり」

 おばちゃんは自分のズボンの膝裏を摘んでみせた。

「最初死体をみたのは足だけでした。庭園のゴミ箱を処理してて、最後に一番奥のゴミ箱へ向かった時、花壇の影から人の足が見えていたんです。白っぽいズボンだったから、汚れは割りと目立っていました。どっちの足かまでは、よく覚えてないです」

 そしておばちゃんは軽くお辞儀をした後、もう仕事に入らなければいけないということで、話を終了することになった。

「お忙しい中、ありがとうございました!」

 俺と瑞希はおばちゃんにそう声をかけ、おばちゃんは再び軽くお辞儀をした後、扉の鍵を開け、北館の中へと消えていった。


 結局、俺たちはおばちゃんから有力な情報を掴むことはできず、午前の講義へ向かうこととなった。真剣に当時の状況を思い出してくれたおばちゃんには申し訳ないが、今回の聞き取りで、俺の推理が前進することはなかった。

 その後お昼休みとなり、俺はパンと水を売店で購入し、写真サークルの活動室で食べることにした。いつもは瑞希と一緒に食べるのだが、瑞希の講義が長引いているため、先に来た次第であった。

 活動室に入ると、先輩が数人いてTVを観ながら昼食を楽しんでいた。

 俺は先輩たちに軽く挨拶して、その輪の中に入った。画面にはお昼の定番お笑い番組が流されていた。

 そして瑞希が合流して間もなく、先輩の一人がチャンネルを変えた。天気予報が観たいので少しの間変えさせてほしいとのことであった。時計を見ると、とあるワイドショー番組でお天気お姉さんが出てくるコーナーの時間であった。

 チャンネルが変わり、そのワイドショー番組が映し出された。まだお天気コーナーには早かったようで、番組ではニュースが読まれていた。

 

〈あ……今新しいニュースが入りました。三重県県議会の○○県議が収賄の容疑で先程逮捕されました。繰り返します……〉


 そのニュースが流れると、先輩の一人が「やっぱりか」という感じで腕組みをしていた。テーブルの上に置かれていたスポーツ新聞を広げると、この件に関する記事が載っていた。何でも数年前から疑惑のあった談合事件のようである。

 この時、俺はこの事件に関して全く気に留めていなかった。

 しかし、昼休み終了間近に俺のケータイが鳴った。ディスプレイをみてみると、それは原田幹郎からのものであった。

「よう、元気か?」

 原田からの電話。以前の伊原薫に関する電話がそうであったように、事件についてのことではと胸が高鳴った。

「TV観たか? 三重県議が捕まったってやつ」

 原田は挨拶もそこそこにそう訊ねてきた。よく判らなかったが、観たことを伝えた。

「向こうは捕まったし、それにもう時効だと思うから話すな。伊原も無関係な話じゃないぞ」

 原田は逮捕された三重県議について何か知っているようであった。そしてそれは伊原賢一も関係しているとのことであった。

 

 今から十年程前の話。

 当時小学生だった伊原と原田は、地元の少年サッカークラブに入っていた。お互いサッカーが大好きで、特に伊原は将来Jリーグに行くことを夢見ていた。

 そんなある日、悪夢が起きた。

 練習から帰る途中、原田と伊原が事故に遭ったのであった。場所は信号のない交差点。前方不注意の車との接触事故であった。

 原田は転倒したものの、幸いケガはなかった。しかし伊原の方は、足を押さえ道路に蹲ったままであった。

 しかし二人は救急車で運ばれなかった。その事故を起こした男の車に乗せられ、着いた先は伊原の自宅前であった。どうやら伊原の自転車に書かれていた住所を頼りにここまで来たようだった。

 そしてその車を運転していた男は家の中へ入っていき、しばらくして原田と伊原を車から降ろし、走り去っていった。

 その後伊原の母により救急車が呼ばれ、病院へと搬送された。原田は僅かな擦り傷に絆創膏を貼られただけで済んだ。しかし伊原はそれだけでは済まず、レントゲンを撮られていた。

 事故当時足を押さえて蹲っていた伊原だったが、検査で骨や筋に異常はみられなかった。

 原田と伊原は胸を撫で下ろした。よかった。またサッカーができると。

 しかし伊原の身体に異変が生じたのは、それから間もないサッカー練習の時であった。

 シュート練習の際、ボールを受け取りゴールポストにむけてシュートしようとした時、突然伊原の身体が崩れた。膝を押さえ地面でのた打ち回っていた。慌てて駆け寄ると、どうやら膝裏の筋が攣った状態になっているようであった。しばらくして痛みが治まった後、再び練習に参加しようとしたが、ボールを蹴ろうとすると筋が攣り、その度に伊原は足を押さえ地面に倒れこんだ。

 その後医者に行き検査を行った。事故の後遺症であるのは間違いないが、原因は不明であった。原因不明だから、治療の仕様がなかった。結局、伊原はサッカーができなくなり、クラブに来ることもなくなってしまった。


「その事故を起こした男ってのが、今回捕まった県議ってわけ。伊原の家族には口止めに多額の示談金を渡していたみたいだな。井原の奴、後でそれを知って、家族に対して随分根に持っていたな。金に目が眩んだって」

 原田は最後にそう付け加えた。

「……判った。わざわざありがとう」

 伊原の足……そうか!

「なあ、その件って、他に誰が知っているんだ?」

 俺は無意識に語調が強くなっていた。

「それは……限られていると思うぞ。当時は次期知事候補だなんて言われていたらしいから。この事故をもみ消すために随分金ばら撒いたみたいだぞ」

「ということは、当事者以外、誰も知らないんだな?」

 俺は原田に念を押して確認した。原田にしてみれば何をそんな興奮しているんだというカンジだったであろう。

「ああ、知らないよ」

 その言葉を聞いた後、俺は原田にあらためてお礼を言い、そして電話を切った。

 俺はケータイをズボンのポケットに入れ、活動室から出た。

「ねえ、誰からだったの?」

 瑞希が俺の顔を覗き込みながら訊ねてきた。電話の相手に興味津々という感じだ。

「見えたぞ……犯人の尻尾が!」

 俺はそう呟いていた。そして俺は瑞希の方へ向き直り、両肩を掴んだ。

「ちょっと、どうしたの?」

 唐突な行動に、瑞希は目を丸くしていた。

「瑞希! 悪いけど俺ちょっと出てくるから、午後の講義代返よろしく!」

 そして俺は戸惑う瑞希を背に走り出していた。



 その人は、真っ暗な部屋にいた

 昼間で空も快晴なのに、その部屋は真っ暗であった

 その人は、畳の上に正座していた

 何もしゃべることなく、ただ一点を見つめて、正座していた

 その人の視線の先にはベッドがあった

 そのベッドの上には人の気配があった

 誰かがベッドで横たわっている

 その人は、ベッドで眠る誰かを、正座して見つめていた

 その人は何を思っているのだろうか

 部屋が暗いので、その人の表情を窺い知ることはできない

 ただその場に流れている雰囲気は、決して良いものではなかった

 怒り、悲しみ、そして後悔……

 真っ暗でその人の姿は判らないが、その人からはそんな雰囲気が滲み出て、蛇が地面を這うようにこの部屋を満たしていた。


 ごめんなさい


 その人が、そう呟いた……ような気がした

 その人は立ち上がり、ベッドに背を向けた

 そしてその人は、真っ暗な部屋を後にした

 

 部屋を出て、その人は手に持っていた鍵で部屋を施錠した

 施錠を確認し、その人は扉に背を向けた

 

 しかしその人は扉の前に立ったままで、その場を離れようとしなかった

 否、できなかった

 その人の前に、一人の男が立ちはだかっていたからである


 そしてその男は言った


 伊原賢一を殺したのは、あなたですね  伊原紀子さん


 

「貴方は……新谷さん?」

 伊原紀子は俺の姿を見て、かなり驚いた様子であった。家族以外の誰かが、家人の知らない間に上がり込んでいるのだから、驚かないわけがない。

 しかし伊原紀子の表情はそれとはまた何か違っていた。単に俺がここにいることで驚いているというより、自分の行動を一部始終見られたことに動揺しているようであった。

「すみません。チャイムを鳴らしても応答がなくて、試しにドアノブ回したら開いていたので、中に入ってきちゃいました」

 伊原紀子は依然動揺した様子。取り繕うとして何かを言おうとしているが、言葉が出てこないというカンジであった。

「もう一度言います。伊原賢一を殺したのはあなたですね」

 伊原紀子は動揺しているものの、俺の言葉に特別な反応は見せなかった。

 もしかしたら、俺がこの場に来たことで、全てを悟ったのではないだろうか。

「……判りました」

 俺の言葉からしばらくの間があり、伊原紀子は口を開いた。そして俺の方へ向かって歩き出した。

「ここではなんですので、こちらへどうぞ」

 伊原紀子は俺の横を通り過ぎ、部屋へと案内された。

 その部屋は、以前訪問した際に通された、仏壇のある部屋であった。

 俺は伊原紀子の後ろに続いた。そして部屋に入る際、廊下の奥にある、伊原紀子が出てきた扉が視線に入った。

 

「さて、まず何からお聞きしたらよいでしょうか?」

 ちゃぶ台越しに対峙した伊原紀子は冷静な様子に戻っていた。覚悟を決めたのか、それとも……。

「まず最初に、杉山絵梨という女性はご存知……ですよね?」

 杉山絵梨の名前を聞いた伊原紀子、眉がピクと反応したのを、俺は見逃さなかった。

「そうですか……」

 そして伊原紀子は、観念したかのようなため息をついた。

「杉山絵梨は、入れ替わったことは母も気付いていないと言っていましたが、知っていたのでしょう?」

 これに関して、俺は明確な証拠、つまり伊原紀子が杉山絵梨の存在に気付いていたという証拠は得ることはできていない。しかし実の娘が他人と入れ替わっているという事実に、母親が気付かないということに、俺はどうしても納得できなかった。

「むしろ、入れ替わることに協力していた」

 杉山絵梨が伊原薫と入れ替わるにあたって、一番の壁は伊原薫の処遇であった。伊原薫の生死に関わらず、少女一人で処理することはかなり無理があった。

 そこで俺は考えた。杉山絵梨が伊原薫と入れ替わるにあたって、一番頼れる協力者は誰かということ。それは誰か?

 それは伊原薫の家族だ。

「昨晩、俺は杉山絵梨と会い、彼女から伊原賢一殺しの告白を受けました」

 俺の言葉を聞いた瞬間、伊原紀子の目がパッと見開かれた。「まさか」という様子であった。

「後輩に確認を取ったところ、今日杉山は大学に来ていません。もしかしたら、警察に出頭したのかもしれません」

「そんな……」

 それまで冷静を装っていた伊原紀子だが、ここで一気に眼が泳ぎはじめた。杉山絵梨の行動が信じられない様子であった。

「俺には判る。杉山絵梨は犯人じゃない。あなたを庇おうとして、自分が犯人だと言っているんです」

 すると伊原紀子の泳いでいた視線が、俺の顔に焦点を合わせた。

「何故、私が賢一を殺したと? 子殺しは冗談では済みませんよ」

 その言葉に、俺は立ち上がった。伊原紀子はこれから俺が何をするのか、見当がつかない様子であった。

「足ですよ。この辺」

 俺は足を上げ、膝裏あたりを指で摘まんでみせた。

 すると伊原紀子は手で顔を押さえ、大きなため息をついた。


「伊原賢一の足は、以前の事故により、強い衝撃を受けると足の筋が攣ってしまうという後遺症があった」

 伊原紀子は俺の言葉に反応しなかった。視線も合わさず、聞かないフリをしているような様子であった。

「事故の加害者はさっき捕まった三重県議。その県議は事故を表沙汰にしたくないため、口止め料を併せた多額の示談金を払っていますよね? つまりこの事故を知っているのは当事者だけなんです」

 伊原紀子は聞かないフリをしているようだったが、俺はかまわず続けた。

「そして今回の事件。伊原賢一は主に頭部を殴打され絶命しました。しかしそれとは別にもう一つ攻撃された箇所があるんですよ」

 俺は再び膝裏あたりを摘まんでみせた。

「不自然ですよね? 犯人は何故わざわざこんな所を攻撃したのか。……その理由は、そこが犯人の泣き所、つまり急所であったから。そしてそのことを知っているのは、本人以外では、あなたしかいない」

 そして俺がさらに言葉を続けようとした、その時。

 玄関の方でとても乱暴に扉を開閉する音が聞こえた。そしてこれまた乱暴な足取りで、誰かがこちらへ向かってきた。

「ちょっとアンタ何やってんのよ!」

 その主は杉山絵梨であった。急いでここまで来たのか、それとも異常に興奮しているのか、杉山は肩で息をしていた。

「訳判んねえんだよ! 何ここまで押しかけて来てんの。この人は何も関係ない! さっさと出てよ! 出てけ!」

 杉山は俺の腕を強引に引っ張り、俺を部屋から……いや、家から叩き出そうとした。しかし俺もここまで簡単に立ち去る気など毛頭なかった。俺は必死に抵抗した。杉山も見た目とは大いに反比例した力で俺の身体を引きずろうとしていた。

「出てけよ!」

 最早杉山絵梨に今までの面影などない。鬼のような形相で俺を引きずっていこうとした。

 その時、

 バン!

 伊原紀子が机を思い切り叩いた。

 杉山がその音に気を取られた隙に、俺は杉山の手を振り払った。

「絵梨さん、もういいです。こんなの、もう終わりにしましょう」

 伊原紀子は静かにそう呟いた。

「そんな……」

 それを聞いた杉山の目には、涙が薄っすらと滲んでいた。

 そしてあらためて、伊原紀子は俺の方へ向き直った。

「はい……新谷さんの仰ったとおりです。私が、賢一を殺しました……」

 母はこの時何を思っていたのか。目には決意と絶望が入り混じっていた。


「殺すつもりは……ありませんでした」

 伊原紀子は静かに呟いた。視線はどこにもあっていない。虚空をみつめ、言葉を静かに紡ぎはじめた。

 あの日の夕方、伊原紀子は杉山から電話を受け、今晩、伊原賢一を襲撃することを知った。杉山は伊原薫の受けた屈辱を、恨みを、全て伊原賢一にぶつけるつもりだった。

 しかし伊原紀子は止めた。そんな恐ろしいことはやめてほしいと……。しかし電話は切れ、二度とつながらなかった。伊原紀子は慌てて家を飛び出し、羽音へ向かった。

 そして夜になって、伊原紀子は羽音へ到着し、杉山が襲撃の場所に選んでいた大学へと向かった。学内を探し回っているうちに、二人が西館の庭園にいることに気付いたのであった。

 そこで伊原紀子が見たのは、意外な光景であった。

 伊原紀子が庭園の入り口に近付くと、暗闇の向こうから男女の争う音がと声が聞こえてきた。それが伊原賢一と杉山であると確信し、音のするほうへ歩いていった。

 するとそこには、杉山の身体に馬乗りになる伊原賢一の姿があった。

 杉山の襲撃は失敗し、逆に伊原賢一の返り討ちに遭っていたのだった。

 しかも、こともあろうに伊原賢一は杉山の衣服を強引に脱がそうとしていた。

 伊原紀子はその様子を見て、身体が硬直してしまった。まさか、兄が妹(のフリをしている杉山)を乱暴しようとしているなんて……。母親にとって、それはあまりに衝撃的な光景であった。

 杉山を犯そうとしている伊原賢一。必死に抵抗する杉山。他には誰もいない暗闇の中、争う物音だけが、不気味に響き渡っていた。

 その時、争う物音の中で、伊原紀子は聞いてしまった。伊原賢一の決定的な言葉を。

 

俺も(・・)一度お前を喰ってみたかったんだよ!」

 

 そして伊原賢一は悪魔のような笑い声を発し、杉山の頬を思い切り張った。杉山の意識が飛んだ隙に服を強引に剥ぎ取った。

 いよいよ杉山が危なくなった時、伊原紀子は無意識のうちに前へと出ていた。手には花壇に置かれていた古い煉瓦が握られていた……。


「そして、その煉瓦を伊原めがけて振り下ろしたと。最初は足に一撃。その後は頭部に」

 俺の言葉の後、しばらく間があって伊原紀子は頷いた。俺の横では、杉山が耳を塞いで俯いていた。そして呻くような嗚咽が聞こえ、テーブルには涙が溜まっていた。

「何とかしてやめさせようと、無我夢中でした……。気がついたら、賢一はピクリとも動きませんでした」

 伊原紀子も参っているのだろう。その声はやっとの思いで捻り出しているようであった。

「伊原賢一は妹が別人であることに気付いていなかったのか……」

 俺は正直言ってこれは意外であった。いくら似ているとはいえ、実の妹と他人を見分けられるものだと信じていた。しかしそうではなかった。それどころか、兄妹として決してしてはいけない見方を、伊原賢一はしてしまっていたのである。

 何があろうとも人を殺すことは絶対によくない。被害者に対してこういうことは感じてはいけないのは判っているが、虫酸の走る思いであった。

「どうしようない、バカだよ!」

 杉山が嗚咽とともに叫んだ。顔を上げた瞬間、涙と唾が飛び散った。

「何が仲の良い兄妹だよ! 何が妹思いの兄だよ! ふざけんなよ!」

 杉山はテーブルを平手で何度も叩き、そして堰が切れたように声をあげて泣き始めた。

「そうか……知っていたんだな。伊原薫のこと」

 伊原紀子は静かに頷いた。伊原薫が佐伯裕二の一派に乱暴されたこと。その原因が自分であることも、伊原賢一は知っていた。

 そしてそれを踏まえて、伊原賢一は妹(のフリをした杉山)を乱暴しようとした。

 ますます虫酸が走った。伊原賢一という男、大学での顔とそれ以外での顔の二つを持っているとのことであったが、どうやら「それ以外の顔」の方が、表の顔のようであった。

「……何て奴だ!」

 俺は思わず口に出してしまった。とても我慢ができなかった。

 その言葉の後、伊原紀子が口を開いた。

「はい。全ては、私が原因なのです」


「全てはあの交通事故がはじまりでした。あの時、私はとんでもない過ちを犯してしまったのです」

 伊原賢一が交通事故に遭った際、すぐ事故を起こした県議から示談の話をもちかけられた。県議に反省の態度がみられなかったため、最初は拒否し警察に届けるつもりだった。しかし県議から提示された金額は、伊原紀子の想像を遥かに超えるものであった。それは伊原紀子を心変わりさせるには充分すぎる額であった。

 当時伊原家は父親が他界し、経済的に困窮していたという事情もあり、口止め料を含んだ示談金を受け取ってしまったのであった。

「それを後に知った伊原賢一は怒った。自分と金を天秤にかけたことを」

「はい……。それからでした。賢一の生活が荒れはじめたのは」

 伊原賢一も、当時絶望のどん底にいた。事故によりサッカー選手になる夢を絶たれ、そして母は金を受け取り、事故を「無かったこと」にしてしまっていた。その事実を突きつけられた思春期の伊原賢一の心境は、想像に難くない。

「全ては、私が悪いのです……」

 伊原紀子は力なく言い、テーブルに突っ伏した

 しかし俺は聞きたいことがまだある。少し酷ではあるが、俺は言葉を続けた。

「いつ杉山に持ちかけたのですか? 伊原薫と入れ替わる事を」

 俺の言葉にピクッと反応した後、伊原紀子は顔を少し上げた。

「絵梨さんが薫を見つけてすぐです。私もその直後家に戻ってきて……。最初はとても混乱しました。だって薫が二人いるのですから。その時は、不謹慎にも血塗れの方が薫ではない別人であると、自ら言い聞かせました。でも現実は私にとって、とても辛いものでした……」

「何故、そのような提案を?」

「怖かったのです。この一件が周囲に知れ渡ることが」

 俺は思った。伊原紀子はここでもとんでもない過ちを犯したと。近所とのちっぽけな体面を気にして、杉山と伊原薫を入れ替わらせたのだ。杉山には伊原賢一への復讐という理由があったため、この入れ替わりは実行に移されたのであった。

 そんなちっちゃなことのために、伊原薫は……。

「最後に、もう一つ。本当の伊原薫はどこにいるのですか?」

 自身でも感じる程、俺の言葉は冷たかった。

 すると伊原紀子は何も言わず、「ある方向」を指差した。その方向を目で追うと、それは部屋を抜けて廊下へと続き、ある扉に俺の視線が到着した。

 それは先程伊原紀子が出てきた扉であった。

「生きているのですね」

 すると伊原紀子は頷いた。

「あの日のショックで、心の病に侵されていますが……死なせるものですか」

 俺の予想通り、やはり伊原薫は生きていた。それが唯一の救いであるような気がした。

「私からも一つ、よろしいですか?」

 不意に伊原紀子から質問を投げかけられた。

「いつ、気付いたのですか?」

 伊原紀子が犯人であることに気付いた時。確証を得たのは、伊原賢一の足について知った時だが、疑うきっかけとなったのは、あの時であった。

 そう……それは俺の好奇心にスイッチが入った時。

「俺とあなたが最初に出会った時ですよ。西館ですれ違った時」

 それをきいた伊原紀子は意外そうな表情であった。何故すれ違っただけで、犯人であると判ったのだろうかという感じであった。

「あの時感じたのですよ。何故あの人は庭園へ直接続く道を知っていたのか、って」

 もし西館の庭園で事件があったというなら、普通の人はとりあえず西館に入って庭園を目指すのだと思う。しかし伊原紀子は西館の規制線の前で、誰にも何も聞かず、あの道を選んだのか。それは伊原紀子がそこを通った経験がある。つまり庭園へ行ったことがあるということに、俺の思考は行き着いたのであった。

「そうですか……そんな時から……」

 俺の言葉を聞き、伊原紀子の身体はテーブルから崩れ落ちていった。

 悟ったのであろう。全てが終わったことを。


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