第五章 一人の少女に二つの影
一通りの調査を終え、俺は帰途につくことにした。
しかし俺はここでとんでもないミスを犯してしまった。
「次は〜宇方、宇方です」
「……あっ!」
時間ギリギリで慌てていた俺は、反対方向の特急電車に飛び乗ってしまったのである。仕方なく、車掌さんに事情を説明し、次の駅で折り返すことにした。幸いにも追加料金は請求されずに済んだ。
次の停車駅である宇方駅には三十分程で到着。電車が来るまで少し時間があったのでトイレに行こうと改札口の方へと移動した。
そのトイレは改札のちょうど向かい側にあり、トイレの入り口の横には売店が設置されていた。トイレを済ませた後、缶コーヒーを買おうと思いその売店に立ち寄った。
「缶コーヒー、冷たい方」
俺がそう伝えると売店のおばちゃんは、屈んで冷蔵庫の一番下の段に並べられているコーヒーを取り出そうとした。
その時であった。おばちゃんが屈んだ時に、売店の奥に張られてある、やや年季の入った一枚の張り紙の存在に気付いた。
「何だ?」
俺はこれが一体何の張り紙なのか目で追ってみた。するとこの張り紙の一番上に大きな赤字で「探しています」と書かれていたので家出人の捜索ビラのようである。その字の下にはある人物の顔写真が掲載されていた。見たカンジ十代の少女のようであった。
顔写真の下には、これまた赤い字で「杉山絵梨」と書かれていた。
この時、俺はイヤな予感がした。とてもとてもイヤな予感だった。
俺はその張り紙をケータイのカメラで撮影した。
「どうしたん?」
気がつくと、売店のおばちゃんがコーヒーを持って訝しげにこちらを見ていた。
俺はコーヒーを受け取り、この張り紙について訊ねてみた。それによると、この張り紙は約十ヶ月前に地元の人間数人が失踪者の捜索ビラとして貼らせて欲しいと頼みに来たのだそうである。
これを聞いた俺は、ある「とんでもない」想像をしてしまった。
俺はその場を離れた。そして時計を見た。次の電車が来るまでまだ時間がある。俺は再びケータイを開き、さっき撮った張り紙の写真を画面に出した。
「よし、電話番号もちゃんと撮れている」
それから数日後の夜、広田からメールが届いた。伊原薫が明日から大学へ来れるようになったというものであった。俺はそれに対する返信として、明日の講義終わりに会うことができないか打診してみた。
それから一時間程でして広田から「OK」の返信が届いた。
「悪いな。急に呼び出して」
「先輩、遅いですよ!」
俺の姿を確認した広田は頬を膨らませた。俺が時間を指定しておきながら、三十分以上遅刻してしまった。空にはもう夕闇が迫ってくる時刻であった。
「藍ちゃんと伊原さん、遅れちゃってゴメンなさい」
俺の後ろには瑞希も続いた。
そして俺たちの目の前には、不機嫌そうな表情の広田と、俺からの用件を全く聞かされていない、少し怯えた表情の伊原薫がいた。
俺と瑞希は二人の向かい側に座った。そして取り合えずコーヒーを二つ注文した。
それから数分後、コーヒーが二つ運ばれてきて、俺と瑞希はそのコーヒーを軽くすすった。
「あの、用件ってどういったことなのでしょうか?」
俺がコーヒーカップを口元から離した時、伊原薫が口を開いた。その表情はやはり冴えない。
「そうですよ岡本先輩。私何にも聞かされてないです」
「ゴメン藍ちゃん。私も全然聞かされていないの」
広田には今回色々と協力してもらったが、用件については何も話してはいない。それは瑞希も一緒だった。
俺は「あえて」この件を事前に二人には伝えなかった。
別に驚かせようとしているわけではない。
「さて……まず何から話そうかな」
別に焦らしているわけではない。本心だった。正直これから伊原薫に話すことは、俺の中で確証のない話であった。俺の想像の域を出ない話。だからある意味「賭け」であった。
「最初に呼び出しておいて遅れちまったことは謝るよ。悪い。急にケータイが鳴って長電話になっちまった」
向かい側に座っている二人は、「別にいいですよ」と手を細かく左右に振った。二人が早く聞きたいのはこんなことではないだろうから。
「さてと、伊原薫さん。早速観てもらいたいものがあるんだ」
俺はカバンから一枚の写真を取り出した。
「ケータイで撮った写真をL版で印刷してみた。ちょっと粗いけど、大体は判るだろ」
そしてその写真を伊原薫の手元に置いた。
その瞬間、伊原薫の顔色が変わったことを俺は見逃さなかった。
広田もその様子に気付いたのか、隣からその写真を覗き込んだ。
俺が伊原薫にみせた一枚の写真。それは数日前に宇方駅の売店に貼られていた家出人捜索ビラを撮ったものであった。
「え?」
広田もその写真の「奇妙さ」に気付いたのだろうか。一瞬にして表情が変わった。
「え、私にも見せて」
瑞希の言葉を受けて、広田はその写真をつまみ、瑞希に手渡した。すると瑞希は口が半開きになり、視線を写真と伊原薫とを行ったり来たりさせていた。それはまるで目の前にいる人物と写真の人物が同じであること確認しているようであった。
そう……「自分と全く同じ顔の人間」
ドッペルゲンガーと呼ぶらしい。残念ながら、俺はそのような人物に出会ったことなどない。
しかしこの中に、そんな経験をしている人物がいる。
「え……これって、伊原さん……?」
その写真を見た瑞希は、震える声でそう呟いた。
杉山絵梨という少女を探すために作られたこのビラ。それには杉山絵梨の顔写真が載せられていた。
ここにいる三人はその顔写真を見て、顔色が一瞬にして変化した。
何故なら、この杉山絵梨という少女、今俺の目の前にいる井原薫と、まるでソックリ瓜二つなのだから。
俺以外の三人……正確には瑞希と広田の二人は、同じ顔を持った二人の少女を見て言葉を失っていた。このような事実、滅多にお目にかかれるわけではないし、またそう易々と信じることもできないであろう。
俺は再び伊原薫の表情を伺った。伊原薫はかなり動揺しているのか、視線が定まっていなかった。また、そろそろ夜になると冷え込んでくる季節のはずなのに、額には汗が滲んでいた。尤も、それは暑いから出てきた汗ではないだろうが。
「壮介君。これって一体?」
この三人の中で一番早く冷静さを取り戻したのは瑞希のようであった。瑞希は写真を摘み、俺の元へ戻してきた。
「この写真は前に伊原の実家へ伺った時の帰り、俺は間違って逆方向の電車に乗ってしまい、宇方っていう駅まで行ってしまったんだ。その宇方駅の売店に、これが貼ってあった。正直、ビビッたよ」
俺はその写真を手元に引き寄せてから、伊原薫の元へズイッと押しやった。伊原薫の視線は相変わらず定まっていない。故意にその写真が視界に入らないようにしているのだろうか。
「これは、君だね」
俺の言葉に瑞希と広田が言葉にならない声を上げた。
「先輩、何を言ってるんですか?」
「壮介君。確かにこの写真の人と薫さんは似ているけれど、名前は全然違うし、全くの別人だよ」
すると今まで定まっていなかった伊原薫の視線が俺の顔を捉えた。
「そうですよ……何を訳のわからないことを。私は、伊原薫です」
小さな声ではあったが、伊原薫ははっきりと答えた。
しかしその答えの後、俺は間髪を入れなかった。
「違うな」
少し声を張ってみた。伊原薫の体がビクッと震えた。
「君は伊原薫ではない。杉山絵梨だ」
この時、広田は居ても立ってもいられなくなったのか、俺と伊原薫の間に入ろうとしたが、俺は言葉でそれを制した。
「広田から聞いたが、君は蕎麦アレルギーなんだってね」
しばらく間があってから、伊原薫は小さく頷いた。
「しかしそれではおかしいんだ。伊原薫は地元に子供の頃から通っていた蕎麦屋があった。僅かな蕎麦粉でもアレルギー反応を起こす人間が、蕎麦屋に通って蕎麦を食べるなんて自殺行為だ」
これは今俺を制止しようとしている広田からの情報である。広田は何も言えなくなってしまった。俺は視線で「とりあえず座って俺の話を聞け」と合図をして、広田を落ち着かせた。
「俺はこのビラに書かれてある連絡先に電話してみた。そして確認させてもらったよ。杉山絵梨は蕎麦アレルギーだということを」
再び伊原薫の視線が落ち着かなくなってきた。
俺は電話をした際、名古屋の立ち食い蕎麦屋でよく似た女性をみたと話した。すると受話器の向こうから、それは違うという回答があったのだ。何故だと訊ねてみると、杉山絵梨は蕎麦アレルギーで、少量の蕎麦粉を口にしただけでもアレルギー反応を起こすとのことであった。
俺はここでコーヒーを一気に飲み干し、伝票を手に席を立った。
「どうしたの壮介君」
俺の行動に疑問を抱いた瑞希が続けて席を立った。
「場所を変えよう」
俺はそう言ってレジへと向かった。訳のわからない三人は混乱した様子で次々と席を立った。
広田は伊原薫の様子を気遣っていたが、本人は「大丈夫」と無言の合図をした。
正直、広田に伊原薫と会えないかと頼んだ時点では、これらのネタしかなかった。だから写真とアレルギーの件で、本人が杉山絵梨であることを認めなかったら、これ以上の追求はできなかった。
しかし俺が喫茶店へ向かう直前、電話が鳴った。ディスプレイには見慣れない番号が表示されていた。出てみると、どこかで聞き覚えのある声。それは原田幹郎からの電話であった。
その電話で、俺は原田から「ある事実」を知らされたのだ。それはある意味、俺の追求の決定打になるものであった。
しかしそれは喫茶店のような場所で話せるような内容ではなかった。
それは伊原薫にとって、ちょっと辛い話であったからである。
パッパッという音と共に、少々薄汚れた蛍光灯に灯りが宿った。
今俺たちがいるのは写真サークルの部室。といっても、活動室は別にあるので、ここはほぼ倉庫として使用されている。八畳くらいのスペースに、機材や資料が乱雑に置かれている。その部屋の真ん中には中古のテーブルとソファが設置されており、俺たちはそこで向かい合っていた。
何故、俺はこんな小汚い場所に変えようと提案したのか。それはこの部屋はこの時間帯、誰も訪れることのない場所であったからだった。
そしてこれから俺が話す内容は、できるだけ誰にも聞かれたくない話であった。
「実はそっちへ向かう前に、ある人から電話があったんだ」
俺は全員がソファに落ち着いたのを確認して切り出した。
原田からの電話。
それは佐伯裕二が逮捕されたというものであった。
この時、俺は伊原賢一殺害の容疑者として、佐伯が逮捕されたのだと思っていた。
伊原賢一には数多くの三角関係トラブルがあり、原田の話によると、最近では佐伯との間でトラブルを起こしていた。そしていつかのニュースで「容疑者逮捕間近」と報じられていたため、てっきりもうすぐ佐伯裕二が逮捕されるのだと考えていた。
しかしそうではなかった。佐伯が逮捕されたのは殺人の容疑ではなく、別の連続婦女暴行容疑であった。
この時点で、何故原田が俺にこんな話をわざわざしてきたのか理解できなかった。しかし話が進むにつれて、その意味が胸の奥底からジワジワと湧き上がってきたのである。
原田によると、佐伯はつい先日名古屋で婦女暴行事件を起こし逮捕された。その後の取調べにより、余罪がかなりあることが判明した。そして佐伯は律儀にも自らが暴行した女性の名前を控えていたのである。
そのリストの中に、俺たちの知っている名前があった。
それは、伊原 薫
俺はここで一度言葉を止めた。周りの状況を確認してみると、三人共口を真一文字に結んでいた。瑞希と広田は何を話せば誰も火傷しないで済むのだろうかという様子であった。そして俺の目の前にいる「伊原薫」の心中は一体どうなのだろうか?
そして原田の話は続いた。原田はこの事実を聞き込みにやって来た警察関係者から聞いたそうなのだ。
その際、警察関係者からこんな質問をされたそうだ。
「あなたの周りに、手に火傷跡のある女性はいますか?」
何でも佐伯は暴行した全ての女性に対し、手にタバコの火を押し付けるというあまりに酷いことを行っていたそうなのである。
つまり、佐伯の毒牙にかかった女性は、手に火傷の跡が「必ず」あるのだ。
だからその火傷の跡は、伊原薫にも「必ず」あるはずなのである。
みんなの視線が「伊原薫」の手に集中していた。
その時、「伊原薫」はハッと吐き捨てるようなため息をつき、ソファから立ち上がった。
「薫ちゃん!」
その姿に、広田はどうしていいか判らず、目に涙を浮かべていた。
すると「伊原薫」は手を広げ、俺たちの方へかざしてみせた。何の変哲もない、どこにでもあるような少女の手であった。
火傷の跡らしきものなどどこにもなかった。
「アンタ、よくここまで判ったわね。惚れちゃいそうだわ」
俺の目の前にいる少女は挑発的にニヤッと笑った。
それはもう「伊原薫」のものではなかった。