第三章 駅前にある蕎麦屋での出来事
翌日の昼過ぎ、瑞希からメールが届いた。内容は今からこっちへ帰ってくるというものであった。そのメールが届いて二時間後、羽音駅前で俺は瑞希と広田を出迎えた。
「ただいま〜」
駅舎から瑞希が手を振りながら出てきた。後ろには広田も続いていた。
「割と早かったな」
「うん。うちらが参加したのは出棺までだから」
瑞希の顔は笑顔だったが、目の下にはクマができている。昨晩の通夜から式場にいたそうなので、あまり寝ていないのであろう。
「二人ともお疲れさん。あそこの喫茶店でコーヒーでも飲もうぜ」
俺は道路を挟んで向かい側にある喫茶店を指差した。
「壮介君のおごり?」
「ああ、広田はな。お前は自腹だ」
「なに〜!」
「アーホ」
こんなしょうもないやり取りをしながら、俺たちは喫茶店へと移動した。
喫茶店で一息ついてから、葬式の様子を瑞希たちから聞くことができた。
伊原家の親族は妹の薫と母の伊原紀子だけだったそうで、後は地元の知人たちが手伝っていたそうである。しかしそれでも手が足りなかったそうで、瑞希たちも手伝いに参加したのである。
「あの人がお母さんだったんだね」
不意に瑞希がそう言ってきた。「あの人」とは誰のことを言っているのか、俺は見当がつかなかった。
「ほら、事件の日、帰ろうとしてた時に、私たちの横を通り過ぎていったおばさん」
事件の日……つまり、伊原賢一の死体が発見された日。俺と瑞希が帰ろうとしてた時、広田がやってきて、そして……、
「あ〜」
思い出した。庭園に入っていった人のことだな。そうかあの人が伊原賢一の母親だったのか。となると、あそこに行ったのは死体確認のためか。
「妹の薫はどうだった?」
すると瑞希は広田の方を向いた。広田は複雑な表情を浮かべ、コーヒーには全く手をつけていなかった。
「ああ、まあ、そうだわな」
俺は空気を読んでそれ以上何も突っ込まなかった。広田のこの表情を見れば、当日薫がどんな状況だったかは、何となく想像できる。
ここでみんな黙り込んでしまった。何だかイヤな空気だ。
と、ここで瑞希が急に笑顔になった。何とか場の空気を変えようとしているのか。
「そ、そうだ。壮介君にお土産があるんだ」
瑞希はそう言うと、カバンを漁り紙袋を取り出してテーブルの上に置いた。
「何だこれ?」
俺へのお土産というからには、俺が開けていいのだろう。俺は紙袋を開けてみた。
そして紙袋から出てきたのは、
〈手打ち蕎麦 お持ち帰り用〉
ハンドメイド感溢れるラベルにはそう書かれていた。
「もう一回言う。何だこれ?」
「蕎麦です」
広田が今日会って初めて口を開いた。それは何となくホッとするものであったが、反面何となくムカつくものであった。気のせいだろうか、何か小馬鹿されいるような……。
「見たらわかるよ。え、なにこの人。今まで蕎麦を見たことないの? 可愛そう〜 みたいな目でみるんじゃねーよ」
「せ、先輩。それは言いがかりですよ」
何て長い説明のいる言いがかりなんだろうか。自分で言っておいて、自分に突っ込んでいた。
「だから、この蕎麦を一体どういう経緯でお土産になったんだって聞いてるの。お前らが今日行った所って、別に蕎麦の産地でも何でもねーだろ」
お土産を買ってきてもらって、こんな言い草はないだろうと俺も感じているが、一旦振り上げたツッコミはそう簡単におさめることはできなかった。
「も〜」
瑞希が呆れたようにため息をついた。でもどこか表情はほころんでいるようにも見えた。
「その蕎麦はね、お葬式が終わって帰る前に、お昼ご飯を食べるのに寄った駅前のお蕎麦屋さんで買ってきたの。けっこう美味しかったから、壮介君にもと思って」
なるほど。そういう経緯でこの蕎麦を買ってきてくれたわけか。
「いらないんなら、私たちで食べちゃうよ!」
「いやいや、有難く頂戴致しますですよ」
瑞希が蕎麦をカバンに戻そうとしたので、慌てて手元に引き寄せた。
「もう、調子いいんだから」
瑞希が頬を膨らませると、横の広田が少し表情を柔らげた。
ああ、こんなだから周りからバカップルと思われるんだ……。
「あ、そういえば」
唐突に瑞希が指をパチンと鳴らした。何かを思い出したようだ。
「藍ちゃんがお手洗いに行っている間、お店のTVで事件のニュースが流れていたの。内容は特に進展はなかったんだけど、その時お店の人が話してたの。伊原さん家の兄妹、昔はよくうちの蕎麦食べに来てくれてたな〜って」
意外な所で、事件との接点を見つけてしまった(といっても大したものではないが)。瑞希たちが立ち寄った蕎麦屋は、伊原家の兄妹が以前よく通っていた店のようであった。まあ二人の地元だし、駅前という立地条件も考えて、別に不思議なことではない。
「何でも賢一さんはざる蕎麦と親子丼のセット、薫さんは天ぷら蕎麦をよく注文していたんだって」
「ほ〜、なかなかいいチョイスだな」
瑞希は自分が仕入れた裏情報(これも大したことではないが)を誇るかのように話していた。俺も適当に話を合わせていた。
「嘘だ……」
しかし広田の意外な一言で俺たちのどうでもいい会話はストップした。
「どうしたの藍ちゃん?」
「薫ちゃんが……そんなのおかしいですよ」
広田の表情は明からに普通のものではなかった。広田は何に対しておかしいと言っているのだろうか?
「広田、何がおかしいんだ? 俺たちにも教えてくれよ」
広田は一度コーヒーに口をつけてから頷いた。
「はい。単刀直入に言うと、薫ちゃんは蕎麦アレルギーなんです」
「へっ?」
俺と瑞希はほぼ同時に間抜けな声を上げてしまった。かつて天ぷら蕎麦を好んで食べていた奴が、蕎麦アレルギーだって?
「私たちが入学して間もない頃、初めて学食に行った時、薫ちゃんと一緒だったんです。その時、薫ちゃんはパスタを注文していたんですけど、パスタを何口か食べた後、急に気を失って倒れてしまったんです」
すると瑞希が何かを思い出したような表情になった。
「あ、覚えてる。救急車来たんだよね。あれって薫さんだったんだ」
「はい。後で聞いたんですけど、学食では一つの釜で全ての麺類を茹でているんだそうです」
ここで俺もピンときた。
「なるほど。全ての麺類ってことは、パスタの他にもうどん・ラーメン、そして蕎麦」
「はい、そういうことです」
つまり全ての麺類を一つの釜で茹でているわけだから、蕎麦以外の食べ物にも蕎麦粉が付着して、それを口にしてしまう可能性があるというわけなのである。
蕎麦アレルギーは食物アレルギーの中ではとてもキツい部類のもので、最悪の場合生命にかかわることもあるらしい。
「だからありえないんです。薫ちゃんが蕎麦を好んで食べていたなんて」
広田の話によると、伊原薫はパスタの表面に付着していた蕎麦粉程度でも失神してしまった。そんな人間が蕎麦をズルズルすすっている絵ヅラなんてとても想像できない。
しかし瑞希の話によると、蕎麦屋の店員は伊原兄妹の件を名指しで話していたそうだから、店員の勘違いという可能性も低い。
これは一体どういうことなんだ?
広田には申し訳ないが、これから何だか面倒くさいことになっていきそうな気がした。俺はとりあえず、もう冷めてしまったコーヒーを喉の奥へと流し込んだ。