第一章 大学で起こった事件
「ん、何だ?」
大学へと続く、長くて急な坂道を自転車で登りきった先、大学の入り口に、パトカーが数台停車しているのが見えた。俺は駐車場に併設されている駐輪場に自転車を停め、パトカーの方へと近付いた。パトカーの周りには数人の制服警官がいた。
何かあったのか、制服警官に訊ねようとした時、後方から俺を呼ぶ声が聞こえた。
振り向くと大学前のバス停から、瑞希がこっちに向かって走ってきていた。
「壮介君、おはよう」
「おいっす」
俺たちはいつものように挨拶を交わした。いつもと少し違うことがあるとすれば、瑞希はバス停から走ってここまで来たので、多少息が切れていることくらいだ。
因みに俺の名前は新谷壮介。羽音学院大学二回生だ。そして一緒にいるのは岡本瑞希。俺と瑞希は写真サークルに所属しており、そこでの縁で付き合いはじめた。つまり、俺のカノジョだ。
「何かあったみたいだぞ。俺も今来たところだけど、こんなカンジだ」
俺はパトカーの方へ手を差し出し、瑞希に説明してやった。
「うん、私もびっくりしたよ。でね、さっき藍ちゃんからメールがきてさ、何でも、西館の庭園で人が死んでいたんだって」
どうやら瑞希は俺より先に状況を把握していたようである。何だか悔しい。
俺は振り返り、大学キャンパスの方を向いた。門からは制服警官や私服警官が出たり入ったりしていた。
「死体ねえ……」
朝から少し憂鬱な気分であった。出切ることなら今日は大学に足を踏み入れたくはない。でも行かなければ単位が危ない。俺は仕方なく門をくぐった。
俺と瑞希が通う羽音学院大学は、羽音市の山の上にある緑に囲まれたキャンパスである。門へと続く坂道の沿道には桜が植えられており、春になると桜色のトンネルが新入生を出迎えてくれる。俺の中で「世界で一番綺麗な桜」だ。
そしてキャンパスについてだが、主に五つの建物に分けられており、まず学生課や就職課といった事務関係の部署がある管理棟がある。そしてその管理棟を中心に四つの棟があり、それぞれ北館、南館、東館、西館となっている。これら東西南北の棟には、俺たちが講義を受ける講義室に実習室、教授方の研究室等がある。また北館と南館の一階部分は食堂と売店になっている。
今回死体が発見された西館の庭園というのは、西館一階に隣接している。庭園と言えば聞こえはいいが、要は裏庭である。大層な設備があるというわけではなく、芝生と季節の花が植えられた花壇、あと休憩用のベンチがあるくらい。お昼休みに弁当を広げる人で賑わう以外で、あまり人影をみることはない。
俺たちもその庭園へ向かおうとしたが、西館自体に規制線を張られていたため、庭園はおろか西館にも入ることはできなかった。
ただ、警官同士の話している内容を聞いたり、野次馬の話を合わせると、なんとなく状況が掴めてきた。
死体の第一発見者は、大学に出入りしている清掃業者のおばちゃん。午前七時頃、おばちゃんは西館のゴミを処理するため、西館に置かれているゴミ箱を一つ一つまわっていた。そして八時前、西館のゴミを回収し、最後に庭園に設置されたゴミ箱の回収をするため庭園に向かい、そして死体を発見した。
被害者の名前は伊原賢一。うちの大学二回生。詳しい死因は判らないが、頭を殴打されたようで、頭から肩にかけて血で染まっていたとのことである。
直接見たわけではないのでよくは判らないが、少なくともこれが殺人事件であることは理解できた。
「本日は全講義休講となります。各自速やかに学内から出てください」
大学職員が総出で学生たちに告げてまわっていた。そりゃキャンパス内で殺人事件が起こったのだから講義どころではないだろう。西館も全く機能しなさそうだし。こんなことならわざわざ来なくても、門の所で引き返していればよかった。
「帰るか」
俺は瑞希に向かってそう言い、踵を返した。瑞希も俺の横についてきた。
「岡本せんぱーい」
不意に後ろから瑞希を呼ぶ声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。
俺たちは同時に振り向いた。すると見知った娘がこちらに向かってきていた。
「あ、藍ちゃん。メール見たよ。びっくりした」
「私もです。私が来た時はちょうどパトカーが到着した頃で、学内騒然でしたよ」
ショートカットでやや幼い表情の娘は未だ興奮冷めやらぬという感じであった。
この娘の名前は広田藍。大学一回生で俺たちと同じ写真サークルに所属している。つまり、俺たちの可愛い後輩である。
「何かエラい騒ぎになっちまったな」
俺は視線の先にある西館に向けて手をかざした。かざした指の間には、せわしなく動く警官と、折角来たのにすぐ帰らされている学生たちの姿があった。
「壮介君、伊原賢一って人知っている?」
「ううん、知らない」
瑞希の問いかけに即答した。伊原賢一という男は俺たちと同回生であるが、名前を聞いたことは一度もない。多分、違う学部の学生なのだろう。
「あの……」
後ろで広田が何かを言おうとした。俺と瑞希が振り返ると、そこには何とも複雑な表情……いや、今にも泣き出してしまいそうな表情の広田がいた。
「藍ちゃん、どうしたの?」
瑞希も広田の変化に気付いたようで、慌てて広田のもとに駆け寄った。
「実は……その伊原賢一さんというのは、友達のお兄さんなのです」
言葉は出さなかったが、瑞希は驚きと戸惑いが入り混じった表情をしていた。そして俺自身も戸惑っていた。
何だろう。このイヤな予感は……。
「薫ちゃんて言うんです、私の友達。薫ちゃんとはバイトも一緒で、とても仲良しなんです。薫ちゃんの話には、よくお兄さんが出てきていました。とても仲がいい兄妹だなって感じていました。それなのに……こんなことになって」
広田の目にはうっすらと涙が滲んでいた。俺たちの大学で殺人事件が起こったのだから驚かないはずはない。しかし所詮は他人事。今帰ろうとしている奴らの中には、早く帰れてラッキーと思っている奴らもいるかもしれない。しかし、殺された人間が友人の身内ならどうだろうか。サークルの後輩がこんなに悲しんでいるんだ。他人事だなんて片付けられることは、俺にはできなかった。少しでも早く帰ればよかったと考えた自分を恥じた。それは瑞希も同じようで、自分を戒めるように下唇を噛んでいた。
「藍ちゃん……」
正直こういう時にどう言葉をかけていいか判らない。それは瑞希も同じであった。瑞希は名前の他は何も話さず、ただ広田の肩を抱いてあげていた。
その時、一人の女性がこちらに向かってくる姿が見えた。女性は四十代後半であろうか、この大学では見ない顔であった。
女性は時折ハンカチで口元を押さえ、こちらの方へ近付いてきた。そして西館の規制線の前で止まり、近くにいた制服警官に声をかけた。
そして女性は制服警官が一礼をしてから規制線のテープをくぐり、西館の建物横から庭園へと続く細い歩道へ足早に入っていった。




