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終章 10年後

港に船が入ってくるのが見えた。

この店の窓からは、港が一望できる。璃子は身を乗り出した。庭の花にそっと影が差す。


新しく作り直された防波堤の向こう側を、白い小さなフェリーが音もなくすべっていく。

夏の光を受けて、船体がきらきらと海面に反射していた。






「センセ、冷やしおでんの在庫ある?」


振り返ると、厨房に立つ先生が「まだ大丈夫ですよ」と言った。


璃子が18歳になるのを見届けるように祖母が亡くなった。

オンラインで授業を受けられる大学を選び、璃子は島に残った。港にほど近い空き家を買い取った久慈先生とふたりで、観光客向けに和風のカフェをやっている。






小学校は昨年廃校になった。


島にはもうひとりも子どもがいない。校庭のすみにあった鉄棒は、誰に使われることもなく、今では錆が浮いている。


いつだったか心愛といっしょにこっそり侵入して逆上がりをしていたら、定年直前だった教頭先生──校長先生になっていた──に大目玉を食らった。久しぶりに三角定規でなぐられて、ふたりとも涙目になった。


けれども高校までずっといっしょに通った心愛も、もういない。


島を出て、東京の大学へ進学した。向こうで就職するつもりだと言っている。

心愛のSNSはキラキラしている。島にはない世界が広がっていて、ハートマークをタップしながらさみしくなることはある。


見知った顔がどんどん年をとっていく。

先月、久しぶりに見かけた教頭先生は、髪の毛がもうまっ白で、きびきびした感じが消えていた。定年を迎えてから、一気に老け込んだような気がした。


ときどきふと、不安になることがある。この島にいると、時が止まっているみたいで──。







璃子は、ふるふると首を振り、水まんじゅうをつくったあとの鍋に、水を勢いよく注いだ。


ふわり。ひらり。


半透明の葛のかけらが鍋肌から剥がれ、ふよふよと水の中をただよっている。


「くらげみたい……」


璃子は洗いものをする手をとめて、鍋の中のくらげをそっとにぎってみた。

するすると手から逃げていく。まるで生きているみたいに。








「もう開いてますか」


ひとりの男性が入ってきた。

同い年くらいだろうか。背が高く、スポーツをやっていそうな人だ。額に浮いた汗を、ハンカチで丁寧にぬぐっている。


「どうぞー。お好きな席におかけください」


璃子はやかんにたっぷり沸かしてからきんきん冷やした麦茶を、銀色のトレイに乗せて運んだ。

グラスの中で氷が溶けて傾いて、からんと音を立てた。


「この島って、映画の聖地なんでしょう」


男性がメニューに目を落としたまま尋ねた。






「そうなんです。ホラー映画の。『沈む子どもたち』」


厨房からひょい、と久慈先生が顔を出した。

余計なことを言わないように、くちびるに人差し指を当てた。






璃子の書いたはじめての物語は、児童文学賞の小学生の部で受賞した。

そのまま本になり、数年前には映画化もしている。観光客が増えて、島のご老人たちはずいぶん喜んでいた。


映画はこんなふうにはじまる。






親戚の家に遊びに来ていた少女が、学校近くの茂みで命を落とした。

犯人は捕まっていない。彼女が着ていたまっ白なワンピースは、血で赤く染まっていたという。


亡くなった子の腕には、妙なかたちのやけどの跡があった。

やがて怨霊になった少女は、さみしくって子どもを連れていくようになる。


目をつけた子どもの腕にはしるしを残す。自分のやけどの跡に似た、くらげみたいな形をしたしるしを。


しかし時代は流れ、だんだん怪異は飽きられ、忘れられ、語られなくなっていった。

そして彼女が選んだのは、上位の、もっと古くからいる存在に成り代わること──。






この本が出たあとから、怪異は一度も起こっていない。

おそらく、桃乃が最後の犠牲者だったのだと思う。


時おり海難事故はあるものの、怪異に関連しているとは思えなかった。


璃子はたまに、なんとかして”心愛”に会えるのではと夜に海に出てみることがあった。





けれども、いくら待っても海は凪いでいるだけ。

拒絶されているみたいでさみしくなることがある。悪霊だったのだとしても。あの夏、璃子を救ってくれたのはたしかにあの子なのだ。


忘れられたくない。

あの子はそう言って、ずくずく様になった。だから。






「こちらが ”ずくずく様” 水まんじゅうです」


璃子は、硝子のうつわに盛りつけた水まんじゅうを男性客の前に置いた。皿の上でふるふると揺れる。


「試作品なのでサービスです」





透きとおったゼリー状の菓子は、ぷるんとしっかり固まっていた。

くらげのかさのような形。ひと口大に丸めたあんこが透けて見える。窓から入ってきた夏の昼前の、どこか青みを帯びた檸檬色の光が、ぷるりとした透明の中に溶け込むように光っていた。


男性はぷはっと笑った。


「食うの? ずくずく様を?」


つぼに入ったのかしばらくの間くつくつと笑い続け、やがて目尻の端をぬぐった。


「うわ、いいですね。涼しげで。──いろんなくらげを模したやつがあったらたのしいかもしれません」


男性の声が、やわらかくなった。


「ああ、……確かに」


璃子は厨房に走ってメモを取る。


「いいアイディアありがとうございます」


答えはない。







怪訝に思ってふと顔を上げる。


はじめて男性の顔をまじまじと見た。中性的な雰囲気のある、綺麗な人だ。

男の人に綺麗なんておかしいかもしれないけれど。どこか甘やかな雰囲気には既視感があって。




冬芽(とうが)、くん……?」


口がぽかんと開いた瞬間、彼は目を細めて「やっと気づいてくれた」と笑った。


「忘れちゃったかと思ってたよ」


璃子はちょっとだけ泣きそうになりながら「忘れないよ」と言った。


「忘れないよ。なにも。ぜんぶ覚えておく。だから書くの」







そうして店の上の自室に走り、書いたけれど出せなかった手紙の束を冬芽の手に押しつけた。

高校生の冬に手紙で告白されてから、どうしても答えが出せずに逃げ続けていたのだ。


だって、あれから一度も会っていなかったから。

受験で忙しいから。

桃乃のことがあるから──。


逃げる理由はいくらでもつくれた。でもそれを告げることすらしなかった。

本当は、璃子は、臆病にもここで待っていたのだ。今日、この日がやってくることを。冬芽が来てくれるのを。





まっすぐに前を向く。


すぐに世界が滲んでしまったので、久慈先生が準備中の札をかけて店を出て行ったと知ったのは、ずっとあとになってから。


おずおずと抱きしめられたとき、海のほうから強い風が吹き込んできて、──後ろでひとつに結わえた璃子の長い髪の毛を、ゆらした。






【完】





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