5.記憶の底
「やよいちゃんが先生になっていたなんて、知らなかったよ」
祖母は誰にともなく言った。
璃子はまだ、自分が幽霊のままのような気がした。それでも時おりこちらに視線を向けることを考えると、璃子を見ようとはしているのだろう。
「やよいちゃんは、ほんとうに、かわいそうな子だったよ……。なにも悪くなかったのに」
そうして祖母は、久慈先生の──久慈やよいの過去を、語りはじめた。
久慈やよいは、島でも有名な秀才だった。
父親は小学校の先生。母親は専業主婦。兄弟はいなかったが、すぐ近所に住んでいた「貴之」という少年を弟のようにかわいがっていたのだという。
そして貴之は、璃子の父とも仲がよかった。
「……あんたも、もう気づいてると思うけどね。この島はいびつだ」
貴之と璃子の父は、やよいが卒業した途端、いじめられるようになったのだという。
「貴之のことを、あの子やお前の父親は”キノ”と呼んでいた。キノは優しい子だった。でも、おっとりとして走りや泳ぎが苦手なこと。男の子にしては少し華奢で、髪も長かったこと……。人気者だったやよいちゃんの庇護がなくなった途端、そういうしょうもないことがきっかけで、いじめられるようになったんだ。庇ったおまえの父さんもね」
ふたりは身を寄せ合うようにして過ごしていたが、ある日。
キノはいなくなった。
砂浜で遊んでいた子どもたちの間になにがあったのかはわからない。けれどもキノは消えた。世界から、なんの痕跡もなくふっつりと消えてしまった。
璃子の父が、高熱で休んだ日のことだったという。
遺体は見つからず、見つかったのはキノが履いていた靴の片方だけ。その靴は、干潮のときしか行けない、沖合いに近い岩の上にあったらしい。
「靴を取りに行こうとして、潮が満ちてきたのだろう」
だが、きっと元凶であるはずの子どもたちはその死を怪異のせいだと面白がった。
一方、キノの母親は……やよいを責めたのだという。
「どうして? 先生になんの責任があるの?」
その日、やよいは、子どもたちとキノがいっしょにいるところを見たそうだ。
けれども本土で用事があり、港へ走っていた。もしやよいが声をかけていればあんなことにならなかったのに、と。
「そんなの、筋違いじゃん……」
「ああ。だが、その気持ちはわかるような気がする」
祖母はそっと目線を外した。
「あたしがおまえに辛く当たっていたのも、同じようなものだ。だれかのせいにしないと苦しいんだよ。……謝ってすむことじゃあないがね」
だれにも言っていないことが、ある。
ほんとうは、パパはもうこの世にいない。
自殺したのだ。ママの不倫を苦にして。──華やかな仕事をしていたママは、男性との出会いも多かった。そうして自らの気持ちに正直に、奔放に生きていた。悪いと思っているふうもなかった。
あの人は、ママではなく、一人の女のままだった。
祖母は、そんなママに瓜二つの璃子を憎んでいた。
だから、璃子が”女”にならないようにした。そんなこと知っている。
最初からわかっていた。
パパが亡くなったあと、要らなくなった璃子は、パパが生まれ育ったこの島へと追いやられた。スマホ代と養育費だけは払ってあげるから、と。
ママは真っ赤なくちびるを歪めて、歌うように言った。
その宝石みたいな瞳のなかに璃子は映っていない。きっと、ずっと最初から。
「やよいちゃんは、高校を卒業すると、逃げるようにこの街を出て行った。和弘も……おまえのパパもそうだ。中学受験をして、他県へ行かせた。金はかかったが、あたしがそう勧めたんだ。……こんなところにいてもね」
それからというもの、祖母は、少しずつ璃子を見るようになっていった。
嫌がらせめいたことをきっぱりとやめた。
祖母に思うところはある。
謝られても、優しくされても、璃子のこころはそんなに急に変われるものじゃない。先生もあいだに入ってくれて、学校のあとや休日は、久慈先生の家で過ごす時間もつくることで、すこしずつこころを立て直していった。
けれどもその間にも、璃子の腕にできた発疹は、大きくなり続けていた。
まるで肌を食って、成長しているかのように。腕に口ができたみたいに。やがて絆創膏では隠しきれなくなった。大判のガーゼを巻き、上から長袖の服を着るようになった。
それでも耐えきれずに掻いてしまうことがある。
先生の家にはミシンがあった。
あの”クラゲババア”の衣装も、自分でつくったのだという。
「先生の家って、いろいろあるけど、どうやって買ってるの?」
「ネットです。家まで運んできてくれるので便利ですよ。あなたの家もそうですが、高台だときついじゃないですか」
先生はミシンに向かったまま言った。ガタガタと鳴る音が大きくて、ときどき聞こえにくかった。
「まあ、業者さんは大変かもしれませんが……さあ、できました」
父のお下がりの恐竜柄のTシャツがかわいく変身していた。丈は短くなり、恐竜のイラストはポケットをつけて隠されている。
「最近の流行りは、丈の短い服だそうですよ。私はあまり好みではありませんが……」
やがて夏休みに入った。璃子は週の半分を先生の家で過ごした。あまりにも入り浸るものだから、時おり祖母が手作りの料理を持って迎えに来た。
「やよいちゃんも、年ごろの娘なんだから。子守りばかりさせるわけにはいかないんだよ。恋人と会ったりもしたいだろう」
祖母の言葉に先生は顔を赤くする。
「私、もう43歳です」
祖母はぱっくりと口を開けた。それからうちわのように手で顔を仰いで「あたしの中ではずっとセーラー服姿なんだよ」と言い訳をした。
「でもわかる気がします。……本土で働いていたとき、キノと同じ年の男の子がいました。でも彼は大人で。私のなかではキノもカズくんも子どものままなんですよ。今もね。はじめて会ったときの年齢って、ずっと引きずられるのかもしれません。……あ、おいしい」
先生の表情が動いた。祖母はどうしようもない人だったけれど、この一年近く、出される料理はどれも本当においしかった。
東京にいたときは、外食かレトルトしか食べたことのない璃子にとって、家庭的な味というのははじめての体験だったのをよく覚えている。
「これ、味つけはどうしてるんですか」
先生が聞いた。祖母は目を輝かせて話し出す。
「オイスターソースとねえ……」
今日は冷やしおでんだった。
皮をむいて揚げた翡翠色の茄子や、焦げるまで炙って皮をむいたパプリカ。蒸してから輪切りにしたとうもろこしなどが入っており、夏のおでんはカラフルだった。
青い部屋のなかで、女三人でおでんを食べているのがふしぎな気がした。
祖母がいっしょに帰ろうといったが、璃子は断った。
その夜は、先生の家に泊まった。
「私にも、あなたくらいの子どもがいてもおかしくないのですよね」
先生はぽつりとそう言って目を細めた。
「同世代の子とも遊んでみたらどうですか。冬芽さんは中立な気がします」
先生は控えめに言う。
「冬芽くんは……人の目がないところでなら優しいんだよ。そういうのって苦手」
「そうですか」
そうしてふと思い立つ。どうして忘れていたんだろう。
「あ、でも一人だけ。学校に来てない子と仲良くなったんだ」
「不登校……というと、海老名心愛さん、ですか……?」
先生が怪訝な声を出す。
「そう。心愛ちゃん」
「ねえ、先生は、ずくずく様って本当にいると思う?」
これを聞くのには勇気が必要だった。闇の中で、先生が身を硬くしているのがわかった。ひっと息を吸い込む音がして、それから覚悟を決めたように吐息がこぼれた。
「いますよ。……います」
ステンドグラスがはめ込まれた窓の向こうから、清かな月の光が差し込み、先生の黒目がちの瞳に強い光をともしていた。
「キノは、ずくずく様に連れて行かれたんです。だから、私だけは忘れちゃいけない。そう思って生きています」
普段の無表情で淡々とした先生からは想像できないくらい、強い語調だった。
狂信的なくらいに。祖母がわたしを憎んだように、キノの母が先生を憎んだように。
先生は、ずくずく様を信じることでなんとか生きているのかも。──そんなことを思った。
「先生のせいじゃないでしょう」
「……罪を告白します。私、恋人に会いにいくところだったんです。それで急いでいて。キノから聞いていたんです。いじめられてるって。でも、助けてあげなかった。ずっと後悔しています」
「先生……」
「たぶん、冬芽さんも後悔すると思いますよ。あなたを面と向かって助けなかったこと。大人になっても。老いても。ふとしたときに笑えなくなるんです。そういうものです」
先生の言葉は、闇に溶けていった。
ふとグループチャットにメッセージが届いていることに気がつく。
あんなにもすがりついていた、昔の友だちのことも、心愛と同じようにすっかり忘れていた。璃子もまた存外薄情な人間なのだと思った。
けれども、そこに書かれていたものを見て、呼吸が浅くなった。
鼻の奥がつんと熱くなって、ぷくぷく盛り上がった涙があとからあとから落ちてきた。止めることはできなかった。嗚咽がこぼれ出したころ、先生にそれを聞かれたくなくて、璃子はそうっと先生の家を抜け出した。山を駆け降りる。真っ暗な海へ向かって──。




