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4.青い部屋

 



 海の底へ向かって沈んでいく夢を見た──。







 ピントの合わない写真のようにぼやけていた天井が、少しずつクリアになってくる。真珠のようにマットな白い光。目の前に見覚えのない照明がある。

 くらげ型のランプシェード。天井は青い光で照らされていた。


「目が覚めましたか?」


 聞き覚えのある声に、少しずつ意識が現実に引き戻される。

 身体を起こそうとすると、だれかがそっと背中を支えてくれた。華奢な柔らかい腕だった。まだ目が霞んでいる。でも確信があった。


「久慈先生……?」


 璃子は恐る恐る尋ねた。クリアになった視界のなかで、先生は困ったように笑った。


 璃子はベッドに寝かされているらしかった。


「先生、わたし……」


 そうしてふと、先生の服装に気がつく。まっ白なシーツみたいな服。襤褸(ぼろ)のレースが幾重にも伸びる裾。


「まさか先生が……?」


「あ、着替えるの忘れていました」


 先生はたいしたことないというふうに、自分の姿を見下ろした。

 よく見ると、その服には血がついている。


「頭を打っています。ごめんなさい。私が驚かしたから……」


 先生はしゅんと頭を下げた。言われてみると、後頭部がわずかに痛んだ。手当てされているらしく、触れるとかさかさしたガーゼの感触が手に残った。


「状態は悪くないと思います。でも、吐き気がするなど、異変があったら必ず教えてくださいね」


「うん……」


「先にあなたの家に行ったのですが、保護者の方は休まれているのか、何度インターホンを鳴らしても出てきてもらえなかったのです。それでうちに運びました」


 たぶん起きているのだろうなと、璃子は思った。





 先生の背後には、大きな水槽が見えた。


「くらげ……。先生、くらげ飼ってるの?」


「ええ。昔から好きなんです。なぜか心惹かれます」


 先生は遠くを眺めるようにして言った。


 青いランプで照らされた水槽のなかで、透明なくらげの身体がきらきらと輝いている。ふわり、ふわり。花が開いてしぼむような動きで水のなかを動くくらげは、確かにうつくしかった。


「どうしましょう? おうちに帰りますか?」


 ややあって先生が尋ねた。


 身が硬くなった。先生は、それを見逃さなかった。


「……居づらいですか」


 璃子は、自分を抱きしめるようにしてうなずく。







 祖母の家は、自分の家だという感じがしない。食事は出してもらえる。おいしい。でも、祖母は璃子がいないように振る舞う。──まるで、亡くなった人に食事を供えているような。


 父の部屋で過ごしている。学用品や下着はきちんと買ってもらえるけれど、そこに璃子のものはない。何十年も前のお下がりばかりだ。


 家のなかでの璃子は、透明なのだ。

 そんな幽霊に、思い出したように、祖母は気まぐれに手をかける。男の子にしようと髪を切り、東京から持ってきたかわいいものは捨てられてしまう──。


「きょうは、泊まって行かれますか。一応、あなたを保護した旨をしたためて、郵便受けに入れてあります。居づらいようならどうぞ」


「いいの?」


「ええ。ただ、私は少し仕事を続けますが。ねむくなったら遠慮なく寝てください」


 璃子は首を振る。それから先生は立ち上がった。奥のほうから、ぶうん、という電子レンジの音がする。


 なんとなく気まずくて、璃子はぼんやりと部屋の中を眺める。

 間接照明の光だけがほの暗く灯った、青い部屋だった。くらげ型のランプシェード。くらげの水槽。壁には水彩で描かれたくらげの絵。


「くらげ、好きなんですね」


「……ええ」


 すこし硬い声だった。照れくさそうな。


「くらげは、美しくて恐ろしいところが好きです」


 先生はきっぱりと言った。


「毒があるからですか」


「ええ。あんなに悠然と泳ぎながらも、身を守ることができるんですから」


「どうぞ。……アレルギーは、たしかありませんでしたよね」


 先生が持ってきたのは、透明なカップだった。縦にラインが入り、花びらやフリルのように見える。カップも持ち手もお皿も。すべてが透明で、なんだかくらげみたい。


 ひと口、ふくむ。甘い。ほんのり香ばしい苦みが鼻を抜けていく。


「ほうじ茶、ですか……?」


「ええ。ほうじ茶をお砂糖といっしょに濃く煮詰めたものに、ミルクを加えてみました」


「おいしいです」


「そうですか」


 先生はいつも通り無表情で言った。でも、頬に赤みがさしているような気がする。


 シャワーを借りた璃子は、まだ湿りけの残る髪の毛をタオルで押さえながら鏡を見た。薄目で見る。島に来てからずっとそう。これは璃子じゃない。自分がしっている璃子じゃないのだ。


 短い髪の毛は、夏ならあっという間に乾いてしまう。何度さわっても慣れない、指を通してもさらりと落ちてくることのない短い髪の毛──。


 ベッドを使っていいと先生が言うので、お言葉に甘えることにした。ごろりと寝転んで、先生の横顔を眺める。ちょうどママと同じくらいの年頃だろうか。


 先生はゆるくカールした髪の毛を、透明なクリップでひとつにまとめていた。あのくらげのような服はぬいで、だぼっとしたTシャツに着替えている。


「なんか、意外です」


「なんのはなしですか」


 璃子は、首周りの伸びたTシャツを指さした。


「……元彼のです」


「えっ」


「なんですか。私だって人並みに生きてきたんです。元彼だっていたりしますよ」


 先生はぷいっと顔を背けた。その白いうなじを、パソコンのブルーライトがくっきりと浮かび上がらせていた。


 久慈先生は、璃子にとって先生だった。でも、それ以前にひとりの女性なのだ。当たり前のことに気づかされた。







「なんでああいうこと(クラゲババア)してるんですか。メリットってあるんですか」


 璃子は、ごろりと横になり、顔を先生のほうへ向けて尋ねた。タオルケットはきっと夏用で、触れたところからしっとりと冷えていく感じがする。心愛の手に似ていた。


 璃子の質問に、先生は困ったように口の端を上げるだけで、答えることはなかった。


 壁には白いぼろぼろの衣装が吊り下げられていた。







 翌朝目を覚ました璃子は、ふと腕に発疹があることに気がつく。両方の腕に赤いぽつんとしたできものがあった。左右対称に、同じ場所に。


 先生はそれを見て、むずかしい顔をした。


「海にはぜったいに近づかないで」


 ガーゼを貼って、テープでとめる。先生の顔は、心なしか青ざめて見えた。


「慣れてますね」


「学校ではしょっちゅう誰かが怪我をしますから。うちは小さい学校でしょう。保健室の先生も常駐していないから、教師はみんな、自然となんでもできるようになります」


「担任が教頭先生って、はじめ、びっくりしました」


 久慈先生は、ふだんは低学年を教えており、図工のときだけやってくる。意外だけれど音楽は教頭先生。オルガンを引きこなすのだ。


「これは隠しておきなさい」


 手当を終えると、先生はガーゼを巻いた場所を指さして言った。桃乃たちの言葉が思い浮かぶ。また”しるしだ”なんて騒がれたら厄介だ。







 土曜日だった。

 先生は、いっしょに山道を歩いて、璃子を家まで送り届けた。時おり視線を感じていたので「なんですか」と見上げると、先生は一瞬口を開けて、それから迷ったように閉じた。


「……あなたはきっと、子どもでいられる時代がなかったんですね」


 もう一度こちらを見たときに先生が言ったのは、そんな言葉だった。






 インターホンを鳴らす。

 返事はない。じっとりと暑い日だった。家の周りには巨木が多い茂っており、日陰をつくっていたが、葉の隙間からこぼれ出すわずかな光だけでも汗が吹き出した。


 先生のうなじにも、細かい汗のつぶが流れていた。ややあって、先生は大きな声を出した。


「小学校の久慈と申します!!! ご在宅でしょうか!!!」


 カラスが鳴きながら飛び立つ。木々が揺れたかのような錯覚を覚えた。そうして、そうだ、この人は、海辺でいつも叫んでいる”クラゲババア”だったのだ、と璃子は思い出した。

 普段の物静かな感じとはあまりにも印象が違いすぎて……。


 ややあって、玄関の曇りガラスの向こうに、祖母がいつも着ている赤いハイビスカスのもようがちらりと映り込んだ。がらがらと音を立てて開けると、小柄な祖母は、先生をきっと睨んだ。





「ご無沙汰しております」


 そう言ってまっすぐに顔を合わせると、祖母の目が、見開かれていく。

 先生は祖母の耳元でなにかを告げる。顔色が悪くなっていき、はじめて、祖母ときちんと目が合った気がした。


「では、失礼いたします。なにかあればまた来ますし……璃子さんには、うちで補習を受けてもらおうと思っていますので」


 ふだんのぼんやりした感じからは考えられないくらい、きっぱりした声で言うと、先生は砂浜へ颯爽と下りていった。

 大きなボストンバッグを抱えていることに気がつく。先生は授業のある日も、いつもあれを肩にかけて登校していた。そうか、あのなかに入っているのだ。”衣装”が。






 祖母は、いつもみたいに璃子の後ろを透かしてみるのではなく、まっすぐに目を合わせて手招きした。


 通されたのは居間だった。

 祖母は日中、畳敷きのこの部屋でいつもテレビを見ている。丸いちゃぶ台に肘をついて、頬を支えるようにしてどこか遠い世界のことを見ている。


「……見せてごらん」


 祖母はぶっきらぼうに言った。それが発疹のことだと気がつく。璃子は、先生が貼ってくれたガーゼを剥がした。産毛が引っ張られてぴりぴりと痛い。顔をしかめながら一気に取り去る。


「ああ……」


 祖母が頭を抱えた。


 朝見たときよりも、発疹はすこし、大きくなっていた。中心部がくらげの傘みたいにぷっくりと透明な水ぶくれになっている。そうして周りには小さな赤い発疹が真珠のようにつながっている。


 ぱっくりとあいたくちびるのようだった。


 祖母はなにも言わずに麦茶をごくごくと飲み干した。ふう、と震えるような長いため息を吐いていた。






 璃子は、自室にもどる。

 部屋の窓から、木々のすきまを縫うようにして浜辺が見える。そこで白いワンピース姿の心愛が手を振っているような気がした。


 心愛のもとへ行こうと、服を着替えて階下に降りる。ところが、居間の前で祖母が待っていた。いかめしい顔が、いつもより自信なさげに揺れていた。


「ちょっと話があるんだ」


 祖母はそういうと、璃子を手招きした。



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