3.牢獄
「今日は、注意喚起だ。去年の卒業生が──昨夜遅くに亡くなった」
教頭先生の言葉に、クラスの中がざわめいた。「だれ?」という質問には答えず、先生は「子どもだけで海に入るのはやめるように」と言い添えた。
「今年も死んだのかあ」
そう言って笑ったのは5年生の男子だった。先生が、大きな三角定規で彼を叩く。璃子はびくりと身体を小さくした。体罰だなんて。──この島は、時が止まっているみたいだ。
「田崎、来なさい」
教頭先生は、田崎を引っ立てるようにして教室を出て行った。
「久慈先生のほうが、いいよね」
「でも先生ってさ、なんで結婚しないんだろ」
「もうオバサンなのにね」
璃子は窓の外を眺める。ねっとりした風が吹き込んできた。……あ。目を見開く。きょうも歩いている。心愛だ。白いワンピースは裾だけが鮮やかな青。長い髪をなびかせて、波打ち際を歩いている。
あれに似ている、と思った。
もっと小さなころ、やった。たとえば、横断歩道の、白い部分だけを歩かなきゃいけないゲームみたいな。
でも、心愛は不登校だとだれかが言っていた。みんなが見える場所を歩いていると傷つくのではないだろうか。不安になった。
そのとき、浜辺の心愛が足を止めた。
まっすぐにこちらを見る。璃子を見とめて手を振った──ように、見えた。そんなことがありえるだろうか。あの距離で、すこし暗い教室内にいる璃子が見えるなんて。
けれども璃子は、控えめに手を振った。心愛は手を振り返してくれた。表情は見えない。でも、ぴょんぴょんと小さな子どものように跳んでいた。
「やっぱり、ずくずく様っているんじゃない?」
そう切り出したのは、桃乃だった。
「去年も低学年の子が死んだよね。溺れて」
「しるしがあったんでしょ」
「そうそう。くらげみたいなしるし……」
「そういえば、うちの学校には怪談ってないのかな?学校の七不思議みたいな」
生徒たちは、地球が滅びるという予言が流行っていたときみたいに、楽しそうに怯えてみせた。
「静かに。席についてください」
そう言って、久慈先生が入ってきた。
「久慈せんせー!」
桃乃が立ち上がって手を振る。久慈先生はあまり表情を動かさずに「座って」と言った。
「ねー先生って卒業生なんでしょ? 怪談知らないの?」
授業が終わったあと、黒板を消していた久慈先生に、桃乃が尋ねた。先生は上を向いてふと考え込む。
「あった気は、します……でも、詳しくは思い出せないですね。たしか……手洗い場の話だったと思います」
「どこのー?」
「久慈先生!」
戻ってきた教頭先生が、ぴしゃりと言った。その横には、こってりと叱られたのだろう、赤い目をした田崎。
「困りますね。そういうオカルトじみた話題は、保護者からクレームが来ますよ」
「すみません……」
久慈先生は気まずげに頭を下げると、黒板をきっちりと消して廊下へ出て行った。
放課後。子どもたちはいつものように連れ立って走っていく。璃子だけを置いて。
だれもいなくなった教室に、冬芽が引き返してきた。いつものように心愛の席に座る。璃子は立ち上がった。
「もう帰るの?」
「……うん」
もうこれ以上、冬芽のことで頭がいっぱいになるのがいやだった。璃子を助けてくれるわけじゃないのに。それなのに、見えないところでもらう優しさなんていらなかった。
「この席の子さ、桃乃のせいで不登校になったんだ」
冬芽はひとりごとのように言った。目は合わなかった。
璃子は「そっか」とだけ言い残して教室を出た。最後に振り返ると、クリーム色のカーテンがふわりと広がって、冬芽を飲み込むように隠していた。いつかテレビで観た映像を思い出す。くらげが傘を広げたり、すぼめたりして、ゆっくりと海中を漂うもの。
冬芽がまるでくらげに食べられたように、見えた。
浜辺を見ると、いつものメンバーが集まっており、心愛はいないようだった。もしかすると、すこし時間をずらして来ているのかも知れない。彼らのほうを見ることなく、璃子は家に向かって走った。
どれくらい走っただろう。
胸が壊れそうなくらい痛くて、木の幹に手をついて荒い呼吸を整えていた。浜辺のほうから「海に近づくなあ!」と大声が響いてきた。
すこし高いところから見つめると、海のずっと向こうには、本土が見える。
大きなビルのなかにスーパーがあるらしい。買いものをするときはあそこにいかなきゃいけない。でも祖母は足が悪くて外に出たがらない。璃子が行くのは禁じられている。
だから、隣のゲンさんに頼んで配達してもらっている。
毎日思う。きらいだ、こんな島。コンビニもない。スーパーもない。かわいいものなんかひとつもない。それに、排他的な島民たちも、みんな、きらいだ。璃子にとってここは牢獄でしかなかった。
帰りたい……。
璃子のママは雑誌のモデルだった。
華やかな顔立ちの美人。有名な人だったらしい。一方の父は、会社を経営していた。
この島で生まれ育ったが、中学からは県外の寮のある学校に進んだという。そのままずっと都会で暮らし、いい大学を出て、自分で起業した。
璃子が東京の家に住んでいたときは、きらきらした宝石箱みたいな街を見下ろして暮らしていた。車のテールランプの赤色が、紅玉みたいで好きだった。最上階ではないけれど、タワーマンションのずっと上にあって、本土のあのビルみたいに高いカーテンすらつけないあの部屋は、今考えると城のようだ。
部屋にもどる。箪笥のなかには父のお下がりばかり。東京から持ってきた服は、祖母がすべて捨ててしまった。
恐竜柄のTシャツに、カーキのごわごわしたズボン。軽くて短い髪の毛。古くて黒く黴びたタイルで囲まれた鏡を見て、気分が落ち込んだ。いまの璃子は男の子みたい。かわいいものが好きなのに。
引っ越してくる前の──東京の友だちとのグループチャットは、最近いつも璃子ばかりが投稿している気がした。声をかければすぐに返事がくる。でも、ここに来たばかりのころのような気軽なおしゃべりはいつからかなくなっていた。
あんなにも毎日いっしょにいたのに。それなのに、みんなの暮らしている世界から、すこしずつ璃子が消えていくのを感じてこわくなった。そうして他愛のないことを今日も送ってしまう。
『おつかれー』
既読マークがついた。返信は、ない。
夕飯のあと、そっと家を出る。18時を過ぎているのに、まだ明るい。夏の空はどこまで沈めそうなくらい透明で、ちょっと怖くなる。すっかり日が長くなった。
期待を込めて砂浜に降りる。心愛が、いた。璃子は進む足を早めた。坂道でどんどんスピードがついていき、最後には砂浜に飛び込むように転んでしまった。ざらざらした砂が肌に傷をつける。
「だいじょうぶ?」
目の前に心愛が座り込んでいる。手を貸してもらい、立ち上がる。しっとりした冷たい手。服がぜんぶ砂まみれになっていた。自分で洗おう。祖母に怒られてしまう。
「ねえ、心愛ちゃん。きょう、学校の怪談のはなし聞いたよ」
璃子が切り出すと、心愛は目を輝かせた。よかった。この話題は正解みたい。
「どんな話?」
「詳しくは知らないの。先生に聞いたんだけど、途中ではなしが終わっちゃって。水飲み場ってことしかわからないんだ」
「そう……」
心愛は残念そうに伏せた。
「そういえば、ずくずく様って知ってる?」
璃子は話題を変える。心愛は得意げに「知ってるよ」と答える。
「ずくずく様はね、大きなくらげみたいなの。まっ白なのよ。それでね、捕まると連れて行かれるの。連れて行かれた子が次のずくずく様になるんだよ」
心愛はにこにこして言ったが、──璃子はぞっとした。
ふと気がつくと、あたりが真っ暗になっている。
心愛が璃子の両腕を掴んだ。しっとりした冷たい手が、浅黒く焼けた璃子の腕とコントラストをつくっていた。そのときはじめて、彼女の瞳が青色だと気がつく。きらきらと海をそのまま閉じ込めたみたいに綺麗で。
「璃子は、ずくずく様になりたい?」
「え……?」
「あたしはなりたいなあ」
心愛はうっとりしてそう言うと、璃子の手を取って立ち上がった。
「……迎えに来てくれればいいのに」
ぽつりとこぼれた声におどろく。そのまま、波が足にかからないように歩くゲームをしながら、夜の海をふたりで歩いた。空には雲一つなく、ずっと遠くまで星がきらめいている。
──東京には、こんな星空はなかった。夜景はない。でも、だからこそ見える宝石箱があるのだ。
少し歩くと、ごつごつした岩場にたどり着いた。
「ここにはね、アメフラシがいるのよ」
心愛が言った。アメフラシ。東京にいたころ、ママが寝る前にいっしょに見てくれた図鑑に載っていた。敵に驚くと紫色のしるを出すのだと。気になって覗き込む。潮溜まりの中には、月が卵みたいにぽっちりと浮かんでいた。
そのときだった。
「海に!近づくなあ……!!!!」
空気をびりびり揺らすような大声に驚く。学校のほうから、まっ白ななにかが走ってくる。手には長い棒状のものを持っている。”クラゲ……ババア”だ。
心愛は真っ青な顔をして弾かれるように立ち上がる。どん、と彼女の肘が胸にあたった。視界がぐらりと傾いていく。波打ち際を走っていく心愛が黒く染まった水に溶けるように、見えなくなっていく。
後頭部に衝撃が走った。
そして目を覚ますと璃子は、”クラゲババア”の家で寝かされていた。
※子どもならではの無慈悲さを出すために、あえてよくない表現(あだ名)を使っています……




