2.クラゲババア
(ああ、もっと早く帰るべきだった……)
学校をあとにした璃子は、通学路の向こう側──浜辺から聞こえる楽しげな笑い声に、物憂げな気分になった。
地面を蹴りながら走る音が近づいてくる。
衝撃とともによろめいた。てのひらが砂まみれになり、じゃりりとした痛みに顔をしかめた。
去年卒業した、女子生徒だ。中学生からは船で本土に通う。
真新しいセーラー服の裾をひるがえすようにして、彼女はこちらを見ることなく、ぶつぶつとなにかをつぶやきながら走り去っていった。
「ずくずく様がくる、ずくずく様がくる……」
ふくらはぎには、大きなガーゼが貼られている。
とつぜん、ぴたりと足を止めた彼女は、前を向いたまま、ガーゼの周りをがりがりと掻きむしった。それからまた、走り去っていった。
異常な雰囲気に、無意識に詰めていた息を吐いた。
のろのろと歩く。
こめかみのあたりに汗が滲んでいるのに気がついた。
祖母に短く切られた髪の毛のせいで、首元がじりじりと焼けるように暑い。
「あんな女に騙されたせいで」
それが祖母の口ぐせだった。祖母は、父の母親だ。ママを──そして、彼女に似ている璃子のことも毛嫌いしている。祖母は璃子に、女の子らしくあることを禁じた。
璃子はただ前を向いた。
海にせり出すような小高い山にだけ視線を向けた。
右のほうからは楽しそうな笑い声が聴こえてくる。見たくないのに、視線の端には手漕ぎボートが映る。
クラスメートたちは、ボートに入った海水とくらげをかき出しているところだった。桃乃はてのひらに透明のくらげをのせて、ぶにぶにと上から下から挟むように押している。
はじめてこの島に来たときはもう秋口だったが、島の子どもたちがああしてくらげに触れているのには驚いた。当時はまだ人前で話しかけてくれた冬芽が「ミズクラゲだよ」と教えてくれた。
「毒がないんだ。だからふつうに触れるんだよ」
それでも怖がる璃子の手に、彼は、触手側ではなくって、かさの部分がふれるようにそっとひっくり返してのせた。ぷるぷるしたゼリーのようだった。冷たくてやわらかくて。
それでも、自分でにぎることはできなかった。
冬芽は困ったように笑うと、ミズクラゲをそっと海にもどした。
「打ち寄せられると、なかなか沖にはもどれないんだろうね」
彼の視線の先には、クラスメートたちが集めて放った大量のミズクラゲがあった。砂浜に敷き詰めるように置かれたミズクラゲは、一部──きっと古いものから干からびている。
濡れて黒くなった砂の上にできた、畳数枚分ものミズクラゲの絨毯は、まるで墓場のようだったっけ──。
あのころは、クラスメートがまだみんな、笑ってくれていた。
璃子だけがいない波打ち際で、ずっと明るい笑い声が響いている。さっと雲がかげった。自分だけが影のような、感覚。
だれか。だれか──、璃子の名を呼んでくれないだろうか。ここに来て。いっしょに遊ぼうって……。ほんとうは毎日、そう祈っている。
意を決して、足を止めてみた。
今からでも仲良くなれないだろうか。一縷ののぞみをかけて璃子が足を止めると、呼応するみたいに砂浜が静かになった。
「ねえ、あれ、……アイツじゃない?」
かっと血が登った。
そう言ったのは4年生の少女だ。あの子、きらい。桃乃に取り入っていつもえらそうにしてる。年下のくせに。
みんな、みんな──田舎もののくせに!
ぽつりと涙が落ちた。
こんなことを思う自分が、──璃子はきらいだ。
「あっちいこ」
「冷める」
子どもたちは無慈悲にそう言うと、のろのろと移動をはじめた。じっと視線を送る。冬芽とも目が合わなかった。
そのとき、空気をびりびりと揺らすような大声が響いた。
「海からはなれろー!!!!!」
「やべっ、クラゲババアだ!」
子どもたちは、ボートにつないだロープを引っ張りながら、璃子とは反対方向の浜へ走っていった。驚いて固まる。璃子のすぐ後ろには、女性が立っていた。
”クラゲババア”と呼ばれる人物を、はじめて見た。地域の不審者としてよく話題に上がっている女性のこと。ひどいあだ名だと思っていたが、なるほど、たしかに彼女は「くらげ」のような見た目をしていた。
まっ白で奇妙な服のせいでそう見えるのだ。
服は腹のあたりに紐が結ばれており、上半身がぽんっと膨らんでいる。裾にかけて、襤褸のレースがたくさん縫い合わされており、触手のように見えた。前が見えないような長い前髪のせいで年齢はわからないが、中年の女性のようだ。
驚いて固まっている璃子に、彼女は「海に近づくと、ずくずく様が来るよ」とぶっきらぼうに言って背中を向けた。心臓がばくばく鳴っていた。
見た目は、まぎれもない不審者だった。でも、あの人は──正気で純粋に見えた。
いやな人たちがいなくなった静かな浜辺を、璃子は歩いてみた。
くつをぬいで、裸足になって。波打ち際の砂はねっとりとやわらかく、足がすこし沈む。打ち寄せてくる波の境界線は、そのときによってぜんぜん違っておもしろい。
そういえば、海に入ったことはないかもしれない。
物心ついたころから、両親は仲がよくなかった。ママと、あるいはパパと。どちらか一人としか出かけたことがなかった。
遠く水平線を眺めていると、引き寄せられるように足がそちらへ向かう。ふらふらと。呼ばれるように──。
「ねえ、なにしてるの?」
鈴のような声に、ふっと意識を引き戻される。振り返るとそこにいたのは、昼間、教室の窓から見えた少女だった。白いワンピース。白い帽子に、白いリボン。
年のころはどう見ても璃子と同じくらい。そこでふっと思い当たる。璃子と同じ、教室の離れ島になっているあの机──。
「あなた、心愛ちゃんでしょう」
彼女は曖昧に笑った。触れられたくないのかもしれない。そうだ。だって、学校に来ていないんだもの。
璃子は、学校の話はしないと決めた。
心愛は砂浜に腰をおろした。まっ白なワンピースに砂がついてしまうが、気にしていないようだ。
「ねえ、学校の七不思議って知ってる?」
心愛は唐突に訊いた。
「何の話……?」
璃子が首をかしげると、彼女は悲しそうに眉を下げて「やっぱり知らないか」と言った。
「昔の話なのよ。みんな、忘れていくの」
璃子はなんとなくその場から離れがたくて、心愛のとなりに腰を下ろした。
そしてそのままふたりで砂浜に座って、海を眺めていた。ずっと見つめていると、視界がぼんやりぶれていく感じがあって、世界の見え方が変わった。
気づくと太陽が陰っていた。じりじりと焼かれるようだった砂浜の温度もしんと下がった。
璃子と心愛は、言葉少なに海を眺めていた。
太陽が海に溶けるみたいにじゅっと沈んでいくと、彼女は立ち上がって、スカートについた砂を払い落とした。
「心愛ちゃん……?」
心愛が背中を向ける。「明日、学校に来る……?」その質問はできなくって、飲み込んだ。
「またね」
彼女は、こちらに向き直ってふわりと璃子に抱きついた。
驚いていると、ぱっと身を翻す。そうして波打ち際のぎりぎりのところを歩きながら、消えていった。
しばらく立ち尽くしていた璃子は、一番星に気がついて、慌てて走って家に帰った。
家に帰ると、郵便受けに市の広報誌が入っていた。
同じ市でも、本土と島じゃ大違いだ。載っている写真を見て思う。こんなビル、この島にはない。コンビニだってスーパーだってないんだから。
なにげなくめくってみる。
『海に沈んだ子ども』
そんなタイトルの読みものページを見つけた。いま住んでいる、この島が舞台のようだ。遠い昔、海がずっと荒れていた。祟りだと恐れた島民たちは、ひとりの子どもを生贄として海に沈める。名前は「づく助」。づく助は、皆を救うためなら僕が神を鎮めましょうと言い残して入水した。
逸話はこんなふうにしめられていた。
『海に沈んだ子ども、づく助。彼のおかげで島の海は守られているのです──』
璃子は驚いて、もう一度表紙を確認する。たしかに市の広報誌だ。 合っている。胸にざらりとしたものが残った。こんな内容を出して問題ないのだろうか。
いや、なにより。”づく助”のことを思うと胸が痛んだ。こんなこと言うわけないじゃん。──きっと後世の人間たちが付け加えたんだ。璃子はまたひとつ、島のことがきらいになった。
祖母の家は、昔ながらの古い家だ。東京で住んでいたタワーマンションとは違う。父はこんな暮らしをしていたのか。想像がつかなかった。祖母は偏屈で、璃子には極力かかわらない。
眠るのも早く、20時にはふとんに入ってしまう。真夜中。東京の友だちとのグループチャットで盛り上がっていたら目が冴えてしまい、璃子は外に出た。
この家は、砂浜から少し山側に登ったところにある。虫がひどく多くて、今でもいやだけれど、少しは慣れてきた。家の裏側には大きな木がある。よく見ると、木の幹にところどころ横に削られたあとがあるのだ。
その傷に手足をかけると、するすると高いところへ登ることができる。
璃子は、木の枝に座って、夜の真っ黒な海を見下ろした。なにか白いものが見えたような気がした。水音も聞こえた。
けれども、目をこすると消えていた。




