1.沈む子どもたち
これから私が書くのは、レテの海に沈んだ子どもたちの話──。
ふわりと広がったスカートを見て、くらげのようだと思った。
砂浜に、少女がひとり歩いている。まっ白なワンピース。彼女は波打ち際ぎりぎりを裸足で歩いていた。まるでそこに目に見えない境界線があって、踏んではいけないとでもいうように。
翡翠色の海のずっと向こうに、こんもりとした緑色の山が見える。ここは、海に囲まれた島。閉鎖的で、まるで牢獄みたい。──璃子はそんなことを考えていた。
東京に帰りたい──。
それは、七夕の日のことだった。
「地球、ほろびなかったねえ」
クラスの中心で、桃乃がからからと笑っている。ゆるく巻いた髪の毛を、頭の高い位置でツインテールにしている。璃子はそれを見て「子どもっぽい」と心の中で悪態をついた。
2日前に”地球がほろびる”という予言があった。璃子はほろびてもいいかもしれないとひそかに思っていた。もちろん、痛いのも苦しいのもいやだけど。でも、すべてが一瞬でぷつんと消えてしまうなら、いいかも。
そんなふうに思うくらいには、島での暮らしは璃子には合わなかった。
「今日も、海行くー?」
「行くー!」
桃乃の指に、みんなが手を重ねていく。教室の中に、机は9つしかない。この学校は、全校生徒がたったの14人しかおらず、ここは4・5・6年生がまとめられた1室だ。
去年までは2学年ずつのクラスだったが、年々子どもが少なくなっており、今年からは低学年と高学年で分けられた。
「でも、ずくずく様が来たらどうしよう」
「ずくずく様なんかうそだよ」
また、か。暑くなってきたころから少しずつ耳にするようになった、聞いたことのないその言葉。どうやら、怪談じみたものらしい。聞きかじったものをまとめると、くらげの姿をした化け物で、出会うと連れていかれるのだとか。
「去年死んじゃった子だって、ずくずく様のしるしができたあとだったでしょ?」
「あたしは、クラゲババアが来る方がいやだなあ。あの人、なんかキモいし」
ひそひそと囁く声にため息をつきながら、海の向こうの空を眺めていた。
空の色は薄いけれど鮮やかで、何年か前に家族で行った祭りのブルーハワイを思い起こさせた。練乳がたっぷりかかって、少し色が薄まったあの青。
そんな夏の空を、もくもくした雲が目に見えるスピードで流されていく。
転校したばかりのころはよかった。
東京から来た璃子の周りには、ああして人が群がっていた。東京にいたらアイドルに会えるの?とか、タピオカドリンクが飲めるって本当?とか。
いつからだろう。たぶん、秋の、学内の作文コンクールで賞をとったときだったか。その作品は最終的に全国での佳作になった。”本土”の新聞社が来て、取材をされた。
──あれがきっかけだったと思う。
「作文がうまいのはももちゃんなのに」
そう言い出したのは誰だっただろう。
「人の特技をうばうなんてひどい!」
「ももちゃんの気持ち、考えないのかなあ」
「これだから”ヨソモノ”は」
呆れるくらい稚拙だった。それから少しずつ遠巻きにされていった。
教室の中には”双子の島”ができた。
9つある机は、7つがまとまって置かれている。璃子の机と、そして不登校だという少女のものだけが窓側に追いやられていた。
はじめは一つだけの孤島だったことを思うと、彼女が学校に来ない理由も察することができた。
担任でもある教頭先生は、それを見てもなにも言わない。こういうところが大きらい。田舎なんて。──東京に帰りたい。
6年生は、桃乃と彼女の双子の弟、そして璃子の3人だけ。もうひとり、心愛というクラスメートがいるようだが、璃子が転校してきたときにはすでに不登校になっていた。璃子の席のすぐ後ろに置かれた机は、彼女のものだ。
「静かに……。授業をはじめます」
いつの間に入室していたのか、久慈先生が少し猫背がちに教壇に立っていた。
先生は、40代前後の女性で、ウェーブがかった茶色の髪の毛を後ろでゆるくまとめていた。きりりとした少し男性的な顔立ちで、化粧っ気はない。
「今日は教頭先生がお休みなので、私が代わりに来ました」
「やった」とどこからともなく小さな声がこぼれた。
久慈先生の表情はほとんど動かないが、物腰やわらかく、授業もわかりやすいので、担任である教頭先生よりもずっと人気があった。
その日の授業が終わった。帰りじたくをする子どもたちは、引き続き「ずくずく様」の話題に夢中だった。先週までは「7月5日に世界がほろびる」って怯えていたのに。
「ここ、海だよ。どうする? 逃げ場なんかないんだよ」
桃乃はなかばパニックになったように言っていた。逆に、彼女の双子の弟であるのほうが冷静で「ああいうのは迷信だよ」と一蹴していた。
「ずくずく様に魅入られるとしるしをつけられるんだって」
「身体のどこかに、赤いしるしができるんでしょ?」
「そうそう。くらげみたいな、透明にぷくんって盛り上がったやつ」
「あたしは、赤い、ネックレスみたいなぶつぶつができるって聞いたよ」
誰もがきゃらきゃらと笑っている。怖い怖いと言いながら、その感情そのものを楽しんでいる。
「とりあえず行こ!」
桃乃が先陣を切り、みんながぞろぞろとついていく。
誰もいない放課後の教室が好きだ。
学校の裏手はすぐ砂浜になっている。璃子の家は、砂浜を歩いてしばらくいったところにある。ほかの人たちは、学校の正門から出て、港のほうへ向かうので、帰り道がいっしょの子はほとんどいない。
みんながいなくなるのを待っていたのだけれど、なんとなく腰が重くって、立ち上がれずにいた。
「璃子ちゃん」
「……冬芽くん」
冬芽と桃乃は、二卵性双生児だが、よく似ている。
ふたりとも甘い顔立ちをしている。目はぱっちりと大きな二重で、まつ毛が長い。鼻は丸っこいけれど、小さくて主張しない形。違うのはくちびるで、桃乃のほうはぷっくりしているのに、冬芽は薄い。
冬芽は男の子にしては髪が長く、繊細な雰囲気をしている。日焼けしづらい性質らしく、最近はいつも頬や鼻の頭が赤くてすこし痛そう。
ふたりは時おりこうして、放課後の教室で話すことがあった。
「ずくずく様って、結局なんなの?」
璃子は尋ねてみた。
「聞いたはなしだと、くらげの化け物らしいよ。昔、生贄として海に沈められた子どもの恨みが……って」
「生贄」
「そう。そんなことあるのかなって感じだけど」
それからふたりで宿題をしながら時おりしゃべった。
冬芽は笑顔をよく見せてくれた。彼はほかの男子とは違った。精神年齢が高い感じがあった。たぶん地頭がいい。でも、桃乃より目立たないように手を抜いている感じがある。
璃子よりも早く宿題を終えた彼は、図書室で借りたらしいギリシャ神話を読みはじめた。
「家じゃあ読めないんだ」
桃乃はいつも、彼にべったりだ。読書の時間も取れない彼の様子を想像して、璃子は苦笑する。
「神話なんかおもしろいの?」
「うーん。非現実的なところが面白いかも」
「なにそれ」
「なんかさ、登場人物がすぐに星になったり、花になったり、ゼウス……神様に連れ去られたりするんだよ。なにも考えずに読める」
ふわり。璃子の身体が包まれる。開け放した窓の向こうから吹き込んでくる風がカーテンを大きく波打たせたのだ。
体ごとすっぽり包まれて、目の前がクリーム色になった。
たぐるようにしてカーテンを払いのけた璃子は、どきりとした。カーテンの向こう側から、冬芽がこちらを見つめていた。
その目の中にあるものを、確かに知っている。
男の人たちがママに向ける色だ。そして璃子の目にもきっと、その色が宿っているのだろう。でも、冬芽はきっとその感情を口にすることはないだろう。璃子だって。
だって、冬芽は──。
「あ! こんなところにいた! 冬芽、早く行こ。みんな待ってるよ」
教室の入口に仁王立ちした桃乃は、ツインテールをお団子に結い直し、ぴったりとしたスイムスーツに着替えていた。腰に手を当ててこちらを睨めつけている。
「ごめん。今行く」
冬芽は璃子のほうを振り返ることなく、硬質な声をして立ち上がった。璃子はただむなしく、遠くなっていく2人の後ろ姿を見つめていた。
璃子は冬芽をこれ以上好きにならないと決めている。だって彼は、一度だって璃子のことを助けてくれない。冬芽が璃子の前で笑うのは、周りにだれもいない時だけなのだ。




