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静かな夢で


 夜の帳が山の端から静かに降りてきた頃、斎笹家の座敷には穏やかな明かりが灯っていた。卓袱台(ちゃぶだい)の上には、弥栄が用意してくれた素朴ながら手の込んだ郷土料理と四合瓶の地酒が並んでいる。


「いやぁ……やっと落ち着いたぜ」


 彰人がグラスを片手に笑った。


「今日一日、いろいろありましたね」


 詩音は箸を置いて、ため息混じりに笑い返す。いつも通りの口調ではあるが、蔵での緊張感が抜けて、どこか柔らかい。


「しかし、貴重な発見だった。古文書も、鞘巻も」


 悠真はそう言いながら酒をついだ。彼もまた、やや肩の力が抜けたように見える。


 ふと、彰人が声を上げる。


「そう言えば、ばあちゃん。あの鞘巻、刀ってさ……もともと誰のだったの?」


 その言葉に、弥栄は少し箸を止めて考えるように視線を落とした。


「うーん……あれは、うちに代々伝わってるもんだもんで。誰が最初かっていうのは、まあ、ご先祖様の誰かだと思うけども、もう分からんのだに」


 詩音が、煮物を口に運びながら問う。


「じゃあ、彰人先輩のお爺ちゃんが購入した物だったわけじゃないんですね?」


「そうだに。うちの人も特別大事にはしてなかったと思う。……うちの人、早くに亡くなったんだけどな、病気で寝込んどる内に、いろいろ名義も整理せんといかんようになったもんで……ほれ、役場の手続きの一つだったんな。教育委員会に届け出てなぁ……私、刀剣とかに全然興味なかったもんで、すっかり忘れとったんな」


「じいちゃんが亡くなったのって、四十年くらい前……だっけ」


 彰人がぼそっと言うと、弥栄は頷く。


「そう、それくらいだに。それで、今は正式な所有者は私になっとるでね。そいでなぁ、彰人」


 弥栄はふっと目元を緩め、彰人を見つめた。


「あんたが興味持ってくれとるの、私嬉しいんな。……そんだもんで、あの刀、よかったら、あんたに譲りたいんな」


 彰人は思わず身を乗り出した。


「……いいの? ほんとに」


「私よりちゃんと大事にしてくれるら? それに、ああいう物は引き継ぐべき人のところに、ふっと現れるような気がするでなぁ。ちゃんと手続きしてくんなんしょ」


 彰人は言葉を探しながらも、ゆっくりと頷いた。


「……ありがとう、ばあちゃん。東京に帰る前に、ちゃんと手続きもしておくよ。今は教育委員会のサイトでも電子申請できるらしいし」

 

 弥栄は目を細め、嬉しそうに微笑んだ。

 詩音がその様子を見て、ぽつりと呟く。


「なんだか、ちゃんとあるべき場所に収まったって感じがしますね」


 悠真もゆっくりと頷く。食卓を囲む空気に、古いものが今につながる確かなぬくもりが満ちていた。




 夜はゆるやかに深まり、簾越しに虫の音が聞こえる。誰かが笑うたび、座敷の空気がやわらかく振動する。

 気がつけば、酔いもほどよく回り、卓袱台(ちゃぶだい)の上には空いた皿と注ぎ合った日本酒の香りだけが残っていた。


「そろそろ寝ようぜ」


 彰人がのびをしながら立ち上がる。

 詩音も立ち上がり、髪を耳にかけながら言った。


「明日、早く起きられたら、また村の中を見て回りたいですね。調査じゃなく観光として」


「あぁ。いいかもな、それも」


 悠真が頷いた。


 遠くから聞こえてくる虫の声が、夜の静けさに溶けていく。

 話しながら廊下を歩き、三人はそれぞれの部屋へ戻った。



 天井の梁を見上げながら、深く息を吐く。そして電気を消して、夜の静けさに身をゆだねていった。    






 ――その夜、詩音は夢を見た。

 

 それは、まるで古い無声映画を見るような夢だった。


 淡く白んだ視界の中で、村人たちが畑を耕し、川辺で水を汲み、笑顔で会話している。

 

 山のふもとには屋敷があり、その門から直垂(ひたたれ)をまとった男が現れた。

 顔ははっきりと見えないが、その姿勢には威厳があり、すれちがう誰もがその男に頭を下げる。


 男は村人の前に立つと、幼子の頭を撫で、その親には作物の出来をたずねているのだろう、畑を指さして時おり頷いていた。

 村の誰もが、その男を(した)っている。


 たぶん――彼が猪俣刑部なのだろうと、詩音は思った。


 川の流れ、木々の揺れるさま、村人たちの動きから流れる穏やかな雰囲気。

 そこには祟りの不気味さも、戦の緊張もない。ただ、ひとつの村の穏やかな日常があった。


 詩音はじっとその光景を見ていた。

 あたたかい陽の光、畑を耕す村人の泥汚れ、笑い合う老若男女。

 生きるという営みのささやかな美しさがあった。

 


 ―――朝。


 詩音は、穏やかな気持ちで目を覚ました。

 布団の上で小さく伸びをして、簾の隙間から射す朝日を見つめる。

 どこか、懐かしい映画を一本観終わったような、やさしい余韻が心に残っていた。


 部屋を出ると、ちょうど廊下で悠真に出会った。


「おはよう」


「おはようございます。先輩、今日……時間あります?」


「まぁ、特に予定はないが。どうした?」


「昨日言ったじゃないですか。ちょっと、村の中を見て回りたくて。昼食の後、つきあってくれますか?」


 悠真は微笑んで頷いた。

 




 昼食の後、二人は斎笹家を出て、ゆるやかな坂を下り、田畑の合間の道を歩いていた。

 

 ふいに後ろから声をかけられる。


「おお、嬢ちゃん。また来とったんかな」

 

 振り返ると、以前、斎笹家の前で話したことのある村人が、鍬を担いで笑っていた。


「こんにちは。また少し、お世話になってます」


 隣にいた悠真も、軽く頭を下げた。


「うちの村は、静かで暇しとるでなぁ。嬢ちゃんたちみたいな若いのが来てくれると、ちったぁ賑やかになるでねぇ」


「のんびりした雰囲気で、良い村ですよ」


 詩音はくすくすと笑いながら言った。


 さらに少し歩くと、通り沿いの小さな商店が見えてきた。


「先輩、ちょっとこのお店に寄りますね」


 古い暖簾のかかったその店を覗くと、手作りの漬物や味噌などが並んでいる。


「いらっしゃい。あれ、また来てくれたんだねぇ」


 店先にいた老婆が笑顔で出迎えてくれた。


「こんにちは。今日はお漬物を買いに来ました。以前いただいたのが、すごく美味しくって」


「ありがとうねぇ。……詩音ちゃんたちは、たしか都会からだったら?」


「はい! 東京からです」


「まぁまぁ、それはまた遠いとこから。……前のが口にあったんなら、今日はこれ、買ってったら? たぶんこれも好きな味だと思うに。そいでねぇ、こっちのをおまけしてやるでな。食べ比べてみると良いに。」


 そう言って、購入した漬物に加えて、もう一つ漬物を包んで入れてくれた。


「そんな、おまけなんて、申し訳ないですよ!」


「いいんな、いいんな。遠慮しんくても。おいしいって言ってもらえれば嬉しいでね」


「わ、ありがとうございます! きっとまたこの村には来ると思うので、その時に美味しかったって言いに来ますね」


 詩音が礼を言い外に出ると、悠真がぽつりと呟いた。


「……なんとも、懐かしい匂いがする村だな」


 

 

商店を後にし、ふたりは畑の広がる道をのんびり歩いた。低い石垣の向こうでは、とうもろこしの葉が風にざわめいており、畝の間には芋の蔓が伸びていた。


「……あ」


 詩音が声を上げる。

 少し先の畑で一人の老人が鎌を手にしゃがみ込んで草を刈っていた。


「こんにちは」


「ん? あぁ、たしか詩音ちゃんと……あんたは悠真くん、だったか」


 にこりと笑って、額の汗をぬぐう。


「はい、ちょっと村を歩いてて……畑、よく育ってますね」


「今年は虫も少ないでなぁ。天気もいいもんで、トマトも茄子もいい色に育っとるに。後で弥栄さんの家に持ってくで、料理してもらいな」


「……え、それは……」


「遠慮せんで。弥栄さんにお裾分けするのはいつものことだでなぁ」


 悠真と詩音は礼を言ってまた歩き出した。

 日差しは強いが、吹き抜ける風はからりとしていて心地よい。


 やがて、川の音が聞こえてきた。

 木々の間を抜けると、緩やかに蛇行する清流が姿を現す。水は澄みきって水底の石が見え、水面はきらきらと光を反射している。

 川岸に生える背丈ほどの草の合間には、青紫色の露草がひっそりと咲いていた。


「……ここ、すごい綺麗ですね」


 詩音がぽつりと言った。

 川の中では、小学生くらいの子どもたちが遊んでいる。澄んだ空に浮かぶ白い雲と緑の木々が生い茂る山、子どもたちが魚とりの網を片手に、水を掛け合い笑い声をあげるその光景は、まるで夏という概念を一枚の絵にしたようだった。


「詩音ちゃん!」


 ひとりの女の子が詩音を見つけて川の中から手を振った。祭りの片付けで一緒になった子だ。


「こんにちは。みんなで遊んでるの?」

「うん、今日は学校おやすみだから!」


 子どもたちのそばには、母親たちが木陰に座って話をしていた。そのうちのひとりが、こちらに気づいて軽く会釈する。


「詩音さん、また来てたんですね。今日は……デートですか?」


「えっ……? いや、えっと……」


 言葉に詰まった詩音の横で、悠真が少し肩をすくめて答える。


「少し村を歩いてただけですよ」


「あらあら、仲が良さそうで。今日は暑いから、お二人とも熱中症には気をつけてね」


 母親たちの笑い声と、子どもたちのはしゃぐ声が、夏の風に乗って流れていく。


 ふたりは離れた木陰の岩に腰を下ろした。

 

「……夢で見た光景、そっくり」


 詩音がぽつりとつぶやく。


「夢?」


「猪俣刑部がいた頃の村の夢を見たんです。無声映画みたいに、音も言葉もない夢だったんですが、なんといいますか……暖かい雰囲気で、村の人たちが、刑部様を慕っていて……」


 悠真は川の流れを見つめながら、小さく頷いた。


「……そういうことも、あるのかもしれないな」


「えっ?」


「祟りの顔ばかりではないのだと、伝えたかったのかもしれない」


 詩音は、珍しいことを言う悠真を少し驚いたように見つめ、それからゆっくりと頷いた。


「そうだとしたら……ちょっと、嬉しいかも」


 川辺の時間は、まるで夢の続きのように、穏やかに過ぎていった。




 夕暮れ、二人が斎笹家に戻ると、すでに夕食の支度が進んでいた。 


「今日はどこ行っとったんな?」


 弥栄が声をかけてくる。


「村を少し散策してきました。すごく良いところですね」


「はは、何にもない村だけどなぁ」


 食卓には、昨日とは違う料理が並ぶ。天ぷら、小鉢、煮物に味噌汁。どれもがどこか懐かしい味がした。

 食べて、語って、笑って。


 夜風が簾を揺らし、虫の音が座敷に染み込んでいく。


 虫の音と共に、葛井村の夜がゆるやかに深まっていった。

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