蔵の中で Ⅰ
斎笹家の座敷に、風が抜けていく。
戸を開け放たれた縁側から、午後の光が差し込んでいた。庭の向こうで、蝉の声が遠く重なりこだましている。
「来る前の電話でも聞きましたけど、ほんとうに蔵を見せていただけるんですか?」
詩音が、すこし身を乗り出して訊いた。
「いいんだに、遠慮せんでも。昔の道具とか記録とか、蔵にいくらか残っとる物が気になるなら、好きに見てくれていいでな」
弥栄はにこやかに頷いた。
「ほんとうは斎笹の本家――禰宜様の家にある物の方がいいんだろうけどねぇ。ほいでも、そう簡単に見せてはもらえんだろうから。こっちはうちの蔵だもんで、勝手に見てもらっても困らんでな」
そう言って渡されたのは、蔵の鍵だった。
数分後三人は母屋の裏手にある蔵の前に立っていた。
低い石垣の上に築かれた蔵は、蔦が一部を這い、屋根には落ち葉が積もっている。
ぎい、と軋む音を立てて重い扉を開いた。
漏れ出してくる埃の匂いとともに、夏の熱気がわずかに遠ざかったような気がする。
彰人が懐中電灯で照らすと、蔵の中は古びた棚や箪笥が並び、周辺には木箱やら何やらが積まれていた。
「……昔のままって感じですね」
詩音がぽつりとつぶやいた。
「分担して探そう。古文書など祭りや舞に関係がありそうなものがあれば、持って来てくれ。片っ端から目を通したい」
悠真の指示で、三人は手分けして調査を始めた。
見つかるのは、山水画の掛け軸だったり古い版画の束だったり、あるいは数の揃った古い皿や碗ばかりだった。それらも世に出せば価値があるのだろうが、今の三人にとっては無価値にも等しい。
調査を始めてもうすぐ一時間は経とうか、詩音が奥の方で小さく声を上げた。
「……こっちの棚、下にも何かありますよ」
詩音が腰をかがめ、棚の隙間を覗き込む。埃を手で払いながら、慎重に引き出したのは、木でできた古い箱だった。持ち上げた瞬間、内部で何かがかすかに擦れる音がした。
「開けますよ?」
悠真が頷くと、詩音は蓋をそっと外した。
ふわりと埃っぽい古紙の匂いが空気に溶けた。
中には、和綴じの本がいくつも重ねられていた。糸で丁寧に綴じられてはいるが、表紙の端はすり切れ、何冊かは湿気で紙がゆがみ、黄変している。
「……日記? あるいは……覚え書きみたいなものか?」
悠真がひとつ手に取る。紙の手触りからして、明治以前のものだとすぐにわかった。
墨の筆跡は書き手の癖を色濃く残している、まさしく一個人の手による記録だった。
「……手書きだな。しかも、明らかに個人の記録だ。過去の斎笹家の誰かが、個人的に記したといった所か」
紙の薄さに気を遣いながら、悠真は一枚一枚、ページを繰る。
いくつかの記述は、年号や日付をともなっていた。だが、それ以外の大半は断片的で、夢の内容のような描写も多かった。
「……これは江戸後期の年号だな。誰かから聞いた話を記してある」
呟きながら、読み進める。
内容は断片的だが、ところどころに地名や人名、見覚えのある単語が混ざり始めた。
「これ……みやしろ様って書いてありますよ。あんまりはっきりしてないですが」
詩音が別の一冊を指し示す。
彰人は頁をめくりながら顔を上げた。
「俺の方は、なんか祝詞っぽいのが載ってる。けど、途中で破れてんな……」
悠真の指がふと止まる。ある一節が目に飛び込んできた。
筆致は乱れ墨がかすれていたが、そこにはたしかに、こう記されていた。
《……刑部討タレテ後、村ニ異シキ事アリト云フ。病絶エズ、稲枯ル。人々継ギテ御霊ノ祀レト言フヲ夢ム……》
「……あった。これだ」
悠真の声に、詩音と彰人が顔を上げる。悠真は声を落として読み上げた。
「“刑部討たれて後、村に異しき事ありと云う”。“病絶えず、稲枯る”……“人々継ぎて御霊の祀れと言うを夢む”」
部屋の時間が、止まった気がした。
「刑部が討たれて以降、村に異常なことがおき始める……。疫病が広がり、稲の実りが絶えた。死んだあと、魂がこの村に留まり続け……祟りをなした」
「御霊……つまり、刑部の霊でしょうか、それが自分を祀れって……人々の夢で?」
詩音の言葉に、悠真は頷いた。
「御霊はただの幽霊とかではなく、怨霊の意味がある。御霊信仰……死後に祟る存在を、神として祀ることでなだめるという信仰だ」
彰人が肩をすくめる。
「つまり、あなたの御霊をお祀りします。怨みを忘れ鎮まりたまえ……ってワケだ」
「そう。祀らなければ災厄が続く。疫病、不作、異変……この村では、刑部という人物がその中心にあったのだろう」
悠真は、指の腹で紙の端を丁寧に押さえながら、さらに頁を繰っていく。筆致はところどころ乱れ、墨がかすれているが、文章の調子はどこか祈るようで、訴えるようでもあった。
やがて、ふたたび彼の目がある一節に止まる。
静かな声で彼はゆっくり読み上げた。
「……“若き男の面、之あり。刑部と称す事あれど、口伝のみにて記されず。翁の面、之あり。義父の貌と言う”……」
詩音が小さく目を見開く。
「……その面って、みやしろ様の面ですよね? つまり……」
「“みやしろ様”と呼ばれてる一対の面で、若い男の面、あれが刑部様だ。口伝でそう伝わっていた」
彰人が眉をひそめる。
「でも、そんなこと……聞いたことなかったぜ?」
「口伝は、語られなくなった時点で終わる。意図的に語らなくなった可能性もある。たとえば、若い男の神とだけ紹介しておいて、実は怨霊を表していることを隠す……とかな」
悠真の声に、蔵の空気が重く沈む。
彼は頁を繰りながら、さらに先の記述を探っていく。
「“翁の面、其の子を諭す如くに舞う。刑部の義父なりと……以て御霊を封ず”」
詩音がぽつりと呟いた。
「諭す如く……封ず」
「ああ。翁の面は義父の面。義理の息子である刑部を説得する……親子の対話の形を模しながら、祟る御霊を鎮める舞なんだ」
彰人は無意識のうちに腕を組んだ。
埃っぽさと古紙のかすかな匂いが入り混じる蔵の中、悠真の指が一枚ずつ慎重に紙をめくっていく。
詩音がそっと声をあげた。
「先輩、ここ……このページの下のほう、たぶん“祭”って字……?」
顔を寄せてきた詩音に、悠真は頷いた。
「ああ、合ってる。“祭”だ。――祭りを絶やすことなかれとあるな」
彰人が、床に並べた別の本をぱらぱらとめくりながら言った。
「こっちには、“舞”の字が何度か出てくるぞ。あーっと、舞の順番について触れてる部分がある。“神等の加護を以て祟りを除き……其の後、御霊を鎮め復た封ずるなり”……」
「つまり、こういうことか。――まず招いた神々が舞い、五穀豊穣や村の安寧を約束する、これで刑部の祟りを上書きする。そのうえで、みやしろ様の舞で鎮めた御霊、祟りを上書きされた刑部をもう一度封じる」
彰人は、紙の上にそっと指を這わせた。
「……刑部様ってのは、どんな人だったんだろうな」
悠真が次の本を手に取り、頁をめくる。まもなく彰人の言葉に答えるようにして、墨の匂いとともに新たな文が現れた。
《…………建長年間ヨリ猪俣氏、此地ヲ治ムルト云フ。杉原山ノ本二館ヲ構フナリ。…………猪俣刑部ト名乗ル者ハ…………》
「……建長年間。十三世紀の半ば頃か。猪俣氏は……彰人、聞いたことは?」
彰人はゆるゆると首を降った。
「猪俣って名字自体、村の中で聞いた覚えがない」
詩音が、ぽつりとつぶやく。
「猪俣刑部……この人が、封じられた御霊?」
ページの端に、さらに墨の薄れた小さな文字が記されていた。
悠真は目を凝らして読み上げる。
「“建武二年、館焼かれ、刑部討死す。村人ら御首を杉原山の上、今の社の地に葬ると云う”……」
「……南北朝のはじまり頃の話だな」
彰人が、低く言った。
「社の傍の五輪塔は刑部の墓、いや、首塚ってことか」
悠真は紙をめくる手を止めて、短く頷いた。
「……ここまで記されているんだ、おそらくそれについての記述もあるだろう。ちょっと待ってくれ」
しばらく紙の音だけが響いたあと、悠真の指がある箇所で止まった。
《日暮レテ後、扉ヲ開カバ、御霊ノ障リ之アリ。夜、灯火持テ社二寄ラバ…………御首塚ノ石塔、崩ルル事アラバ…………》
「日暮れ以降に扉を開けば御霊の障り、つまり祟りがある。夜、灯火を持って社に近づけば……、首塚の石塔が崩れることがあれば……、いずれも祟りのきっかけになると……そう記されている」
そう行った悠真に続いて、詩音が少し震えた声で言った。
「彰人先輩から、社の扉を開いてはいけないって話を聞いた時には、冗談で祟りとか? なんて言ったんですけど、本当にそうだったんですね……」
「詩音ちゃんが言う前から、まぁ、薄々そんなこったろうとは思ってたけどさ。――てか、五輪塔、あれ少しだけど傾いてたぜ? 大丈夫なのか?」
「崩るることあらば、ということなら、今の所は問題無いだろう」
悠真は眉を寄せる。
「どちらにせよ、封印とつながっているのは間違いなさそうだな」
誰からともなく、再び手元の資料へと意識が戻った。