祭りの残余
祭りの夜が明けた翌朝、葛井村にはまたいつもの静けさが戻っていた。
斎笹家では、弥栄が朝食の支度をしていた。コンロの上には湯気を立てる味噌汁の鍋がかけられている。
「昨夜はよく眠れたかいな?」
「はい、ぐっすり。夢も見なかったくらいですよ!」
「そんなら良かったでな。慣れない所だと寝付けなんだり、変な夢を見たりするもんだでなぁ」
詩音はまだ寝間着姿のまま、縁側に座って弥栄と話していた。やはり寝癖を直すことも忘れた様子で、朝の光に包まれている。
手帳を携えて、悠真が遅れて起きてきた。昨夜の余韻がまだ完全には抜けきらないようだった。
「おはようございます。……一つ質問があるのですが、弥栄さん。祭りの最後に出てきた、若い男の面と翁の面……あれは何を意味してるんですか?」
「んー、それは私らにもわからんのだに。あれのことは言い伝えもほとんどないもんで。……昔の人が、語りたがらなんだのかもしれんなぁ」
弥栄は味噌汁をかき混ぜながら、ぽつりと続けた。
「ただね、両方とも“みやしろ様”と呼ぶ決まりだと、そう教えられてきたんだに」
「“決まり”……ですか」
悠真はその言葉を反芻すると彰人が続けて言う。
「理由もろくに知らないのに、皆が守ってるんだぜ。不思議なもんだよな」
それは“習わし”や“伝統”といった言葉よりも、もっと個人的で、どこか封じるような響きがあった。
午前中、悠真と詩音は再び刑部様の社を訪れた。
あの幽玄かつ不思議な雰囲気の漂う舞を見た後では、社の佇まいも違って見えた。
「……この石塔、五輪塔でしたっけ、これってやっぱり刑部様のお墓なんでしょうか?」
詩音が社の傍らを指さす。二基の五輪塔を覆う苔は分厚く、指で触れるとわずかに湿っている。塔の周囲だけひんやりとした空気が流れているようだった。
悠真はしゃがみ込み、苔の隙間から塔身に何か刻まれていないか探ったが、風化のせいか、あるいはもともと刻まれていなかったのか、文字らしきものは見当たらない。
「どうだろうな。しかし、ここが“刑部様”と呼ばれる社で、そのすぐ脇にあるということは……ただの五輪塔ではないだろうな」
「神様の墓、だったりして」
詩音が冗談めかして言った言葉に、悠真は真顔で答えた。
「死後に人が神になる話はいくつもあるからな。そういう意味では神の墓というのも、あながち間違いではないかもしれないぞ?」
「じゃあ、神になった人の墓……?」
「もしくは、神として祀らざるをえなかった誰か、だな」
二人はしばらく黙ったまま、その苔むした石塔を見つめていた。
山を下ると、彰人が迎えに来ていた。
「社、見に行ってたのか?」
「ちょっとな。あの舞を見た後だと、何でも気になってしまって」
「まあ、あれは見たら忘れられんよな。俺もガキの頃、初めて見たときは夜にうなされたわ」
「うなされた……?」
「あの面さ。あれが夢に出てきてさ。こっち見てんのに、ピクリとも動かねえんだ。無表情なのに、何か言いたそうで……あれは子どもには怖ぇよ」
「まるで呪いじゃないですか、それ……」
詩音が苦笑しながらそう言った。
「子どもには怖ぇけど、毎年やるってことは、大事な祭りなのさ」
ふもとの神社の境内では、祭りの後片づけが行われていた。詩音は村の子どもたちと一緒に、面や衣装の収納を手伝い始める。
「わ、この面……少し欠けた痕がある」
「天狗のお面だら? 十年くらい前に新しく作り直したお面らしいけど、去年、炭畑家のおじぃまが落としちゃったんだ」
子どもの説明を聞きながら、詩音はシャッターを切った。
面や衣装を収めた白木の杉箱の中に、一つだけ漆塗りの木箱があることに気がついた。それは他の箱より大きく、また鍵がかけられていた。
「それは触っちゃダメだに」
「え?」
「みやしろ様のお面が入っとるんな。お祭りの時に舞う人以外だと、禰宜さましか触っちゃダメな決まりだもんで、お祭りが終わったらすぐに禰宜様が箱にしまうんだに」
「お祭りが終わったらすぐにしまうのも、決まりなんだって。じいちゃんが言ってたよ」
詩音は子どもたちからその話を聞いて、きっと一番大切な面だからこそ、特別な扱いをしているのだろうと思った。
この村には、時代を越えて大切に守られてきたものがいまも確かに息づいているのだと。
その夜、斎笹家の一室には、静かな灯りがともっていた。
障子を開けた縁側の向こうからは、虫の音が涼やかに入り込んでくる。
風が通るたびに、どこか遠くで吊られている風鈴の音が、控えめにチリンと耳に届いた。月はまだ昇りきっておらず、青白い暮れ残りの空気が漂っている。
畳の上には、小さな卓袱台。麦茶を飲んでいたグラスには、薄く結露の名残だけがある。
詩音は正座を崩し、膝を抱えるようにして横を向いた。
「明日はもう帰るんですよね……なんだか名残惜しいです」
障子の外に目をやりながら、ぽつりと呟く。
畳に背をつけて仰向けになり、何気なく柱のほうをぼんやりと見つめていた悠真は、詩音の声に目を向けた。
「詩音、だいぶ村の空気に馴染んだな。写真、どれくらい撮ったんだ?」
詩音は笑って、カメラのストラップを引き寄せる。
「だいたい二百五十枚くらいです。……あ、でもブレたのとか、暗すぎたのとか入れたら、もう少し多いかもしれません」
「ずいぶん撮ったな」
「最初は、写真の練習みたいなつもりだったんです。シャッターを切る回数だけでも増やそうって。でも、途中から変わってきました。……何か、残したいなって」
そう言って詩音は、カメラを胸に抱えた。
「ここで見たもの、ぜんぶ。舞とか、集落の風景とか……あの、苔むした五輪塔のことも」
悠真は身体を起こし、彼女のほうへ向き直った。
「もし、写真集にまとめたりして即売会とか、どこかで写真を発表するなら、併せて俺も何か書こうか。あの舞の意味とか、もっと調べてな」
詩音は少し驚いたように目を丸くした。
「……先輩、それって結構、深く入り込む覚悟がいりますよね?」
「ああ。わかってる。……だが、あの舞を見てしまったら、調べずにはいられない」
かすかな笑みを交えて悠真が言う。
詩音はその表情を見つめながら、ゆっくりと頷いた。
「……じゃあ、私もついていきますね。次にまた村に来るときも、一緒に」
その言葉に、悠真は少し目を見開いたが、すぐに笑みを深めた。
詩音はそっと視線を逸らし、カメラのモニターを点けた。
指先で一枚ずつ写真を送っていく。社の写真、境内の古い鳥居、村の風景。どれも構図はまだぎこちないが、撮った者のまなざしが感じられる。
悠真は、自分の膝の上に置かれた手帳を開いた。書き付けたメモの断片たちは、まだ何の答えにもなっていないが、詩音の写真と同じように、村で過ごした時間の気配を留めていた。
「ね、先輩。……東京に帰ってからも、たまにはゆっくり話せますか?」
「――別に、今までと変わらないだろう」
詩音は小さく笑った。
外から夜の風が吹き込み、彼女の髪をそっと撫でる。
風鈴がまたひとつ、遠慮がちになる。
まるで時間が別の速さで流れているかのようだった。
明日には、都会の喧騒へ戻っていく。だがこの夜の静けさは、きっと心に長く残るのだろうと詩音は思った。
三日目の朝、東京へ帰る日が来た。
弥栄が包んでくれた弁当を手に、悠真と詩音、そして彰人は車に乗り込む。
窓を開けて、詩音が弥栄と話している。
「しばらくしたらまた来ますね。村の人たちにも、よろしくお伝えください」
「詩音ちゃんも、よく馴染んだもんだで、またいつでも、おいでなんしょ」
車がゆるやかに坂を下る。
後ろに見える弥栄の姿がどんどんと小さくなっていく。
神社の屋根が一瞬、木々の合間から遠く見えた。
山の上にある刑部様の社と二基の五輪塔が脳裏をよぎる。
悠真は手帳を膝の上に開き、そこに小さく書き加えた。
《刑部様=誰かが神として祀られた存在か? 五輪塔はその誰かの墓石、あるいは供養碑か? なぜ二基ある? みやしろ様と呼ばれる二つの面と関係があるのか?》
ペンを止めると小さく呟いた。
「――次は、もう少し深く、踏み込んでみるか」
その言葉に、詩音が小さく頷いたのを、彰人はルームミラー越しに見た。
車は村を離れていく。