神々の舞
朝靄の名残が山間にたなびくなか、葛井村の一日が静かに始まった。
朝のひんやりとした空気に、かすかに湿った草の匂いが混じっている。遠くから鳥の鳴き声がかすかに聞こえ、村の静けさが一層際立っていた。
どこかの家の軒先で揺れる風鈴の音に混じって、庭の木の葉がそよぐ音が聞こえる。
斎笹家の縁側に腰掛けた悠真は、手に湯呑を持ったまま、しばらくその音に耳を澄ませていた。
「先輩、おはようございます。……おぉ、今日もいい天気ですね!」
詩音が寝間着のまま現れた。
さっぱりとしたショートヘアが所々、寝癖ではねている。無邪気で明るい瞳が、朝の光を受けて輝いていた。
「おはよう、詩音。今日は祭りの日だから、晴れてくれてよかったな。祭りは雨天決行だから雨のなかで舞うのは大変だと、昨日の人たちが言っていたし。……髪の毛、はねているぞ」
「まだ顔洗っただけで、身なりを整えてないですからね。……あんまり見ないでください」
少し恥ずかしげに言う詩音の瞳は、昨日よりも少し落ち着いていて、それでいて何かを待ちきれないような輝きを帯びていた。彼女もまた、この土地の静けさに心をほどかれているのだろう。
◆
子どもたちのはしゃぐ声が遠くから聞こえてくる。午前中に村の子どもたちが神社の周囲を掃除し、若い衆が舞殿の設営をするのだという。
斎笹家の前を何人かの村人が通り過ぎるたび、詩音は軽く会釈しては話しかけ、時おりカメラのシャッターを切っていた。
午後五時も過ぎたころ、山のふもとの神社に人が集まりはじめる。
弥栄とともに、悠真たち三人が神社に赴くと、境内には村人たちが舞殿と呼ぶ仮設の舞台が設けられていた。
舞殿は、地面より一段高く土を盛り、四隅に打った杭に笹を結わえ、ぐるりとしめ縄を廻したものだった。
四隅の笹が、境内を吹き抜ける風にさわさわと音を立てて揺れ、いかにも神聖な気配を帯びている。
「これから始まるお祭りは、祝詞をあげて色々な神さまをお迎えするところから始まるんだに。じき、禰宜さまが来るで、静かにね」
弥栄の言葉の通り、そう間を置くこともなく白い浄衣をまとった男が現れた。
村内では禰宜様と呼ばれている、神事を執り行う神職者である。年のころは五十歳前後だろうか、きびきびとした動きのなかにも、深い静謐を湛えている。
「………………祝詞言祷き…………の本辺に刈る斎笹揺すり振り…………踏み轟こす土の四方に斎杭打ち立て………………天津神国津祇、もろもろの大神たち…………の地に降り座しませと………………」
祝詞が始まった。
低く、よく通る声をひそめながら、古めかしい言葉が紡がれていく。
それは通常のお祓いなどで耳にする祝詞には含まれない詞ばかりで構成された祝詞だった。
その詞が紡がれるたびに、鳴いている虫の声が静まるように、周囲が静寂に包まれていくように感じる。
「……なるほど。この祭りに合わせた内容になっているようだが、これは降神詞の類いだな」
悠真は聞き取れた詞を手帳に走り書きしつつ呟いた。
「……うわ、空気が変わった」
隣にいる詩音が小声で言う。たしかに、それまでただの静けさだった境内の空気が、どこか張りつめたものに変わっていた。
「神降ろしの祝詞だ、雰囲気も変わるだろう」
やがて祝詞が終わると、本殿の脇からゆっくりと一人の舞手が現れた。彩飾の薄れた木製の面をつけ、白の浄衣をまとっている。
自然界の精霊を思わせるように現れたその姿は、まったく異界から抜け出してきたような印象を悠真たちに与えた。
舞が始まった。
笛と太鼓、そして手拍子の音に合わせて、舞手は足を踏み出し、腕を広げ、ゆったりとした動きで舞い始める。
動きはいくぶん単調でありながらも、そこには不可思議な吸引力があった。
見る者の意識を、じわじわと舞手へと引き寄せていくような、そんな力があった。
やがて、それぞれが異なる面をつけた舞手が二人目、三人目と現れ、舞った。
天狗のような面をつけた者。女の面をつけた者。童のような顔立ちの面をつけた者。代わる代わる現れて舞うと、また舞殿から立ち去る。
優しげな媼の面を着けた者と、柔和な顔立ちの翁の面を着けた者が、手に鍬を持ち、舞う。
狐の面をつけた舞手が現れて跳び跳ねるように舞う。
様々な神々が、人の体を借りてこの場に現れた。
「招かれた神様たちが、順に舞うんですね……」
「あぁ。人じゃなくて神が舞ってる、って感じだろ」
彰人の言葉は穏やかだったが、そこにはどこか、幼いころから見てきた者にしか持ち得ない感情がにじんでいた。
「招いた神々が代わる代わる舞って、五穀豊穣や村の安寧を約束するって内容さ」
日が落ちて境内で篝火が焚かれ始めたころ、若い男の面をつけた舞手と翁のような面をつけた舞手の二人が現れた。
この二人の舞手のみ、今までの舞手とは違う衣装だった。直垂をまとい、腰には太刀を佩いている。
篝火に照らされ、闇の中に浮かび上がるように現われた舞手がつける若い男の面は、今まで現れたどの面とも違い、不自然なほど無表情に見えた。
翁の面は、若い男の面に比べれば、いくぶん温かみを帯びてはいるものの、その佇まいにはどこか厳しさがあり、包み込むようでいて、決して甘やかさない強さを感じさせた。
「……この面、というかこの舞だけ、雰囲気が違いますね」
詩音がささやいた。
悠真もまた、その舞には他の神々の舞とは異なる気配を感じていた。だがそれが何かは、うまく言葉にできない。
「みやしろ様の面だに」
詩音のささやきが聞こえたのだろう、弥栄が小声で言った。
「みやしろ様というのは、どちらの面の呼び名ですか?」
そう悠真はたずねたが弥栄からの答えはない。
「両方、みやしろ様って呼んでんだ」
代わりに彰人からそう答えが返ってきた。
笛の音だけが細く、かすかに揺れなから境内に響く。
先ほどまでは賑やかだった太鼓も手拍子も鳴らされない。
二人のみやしろ様は低く腰を沈め、左右にわかれて歩を進める。
ゆっくり舞殿の上を一周すると、歩み寄り、舞殿の中央で向かい合った。
若い男の方のみやしろ様が足を踏み鳴らす。
対して翁の方のみやしろ様は手を伸ばすと、若い男の方をなだめるような所作をする。
どちらも顔の向きを変えることなく、身体だけで動きを表していた。
その舞に華やかさや賑やかさはなく、静かで幽玄な、そして簡潔な動作が異様に整った舞だった。それは厳格で、何か、決して破ってはならない約束事を表しているようにも見えた。
詩音がカメラを構えたまま、言葉を失っているのが横目でわかる。
悠真もまた同じだった。
一連の舞が終わると、再び禰宜が現れた。
「掛けまくも畏き………………本つ御座に還り座しませと…………」
彼は再び祝詞をあげはじめる。それは最初のそれとは異なる響きを持っていた。重く、静かで、訪れた者たちを元の場所へと送り返すためのもののようだった。
「……招いた神々にお帰りいただいてるのさ」
彰人がぽつりとつぶやいた。
神々をこの地に降ろし、舞い、そして退去を願う――その一連の神事の流れが、ようやく完結するのだ。
やがて祝詞が終わり、静寂のなか禰宜が振る大幣の音が聞こえた。瞬間、境内の張りつめた空気がふっとほどけ、鳥たちが一斉にさえずり始めたかのような錯覚に襲われる。
まるで魔法が解けたかのように、境内の空気がまたゆるやかに動き出した。
夏の夜の、湿度の高い空気がまとわりついてくる感覚を思い出す。
いま、祭りが終わったのだ。
◆
「……すごいものを、見たな」
斎笹家に戻る帰り道で悠真がそう言うと、詩音も頷いた。
「ですね……。時間が止まったみたいに動けなくて……なのに、ちゃんと呼吸だけはしてて……。うまく表現できませんね、圧倒されました」
「詩音ちゃん、村の人たちにとっては、これが毎年のことなんだぜ」
彰人の声には、どこか懐かしさがにじんでいた。
「きっと大切にされてきたんでしょうね、面も祭りも。……言葉にしようとすると、うまく言えないことばっかりで、なんか悔しいな」
詩音が冗談めかして言うと、悠真は小さく笑った。
歩きながら、祭りで見た面の一つ一つが思い出され、言葉にならない何かが胸の奥で渦巻いている。祭りに、舞に宿った神秘は、決して軽々しく言葉で説明できないものだと、三人は感じていた。
彼らの胸にはまだ祭りの余韻が、面の眼差しが、淡く残っている。
悠真は、あのみやしろ様と呼ばれる若い男の面と翁のような面に、強く好奇心を刺激されていた。
みやしろ様とその舞は祭りの中でも特に異質だった。あれは一体何を表す面と舞なのだろうか、と。