静寂の入口
七月の中旬、からりと晴れた空の下。深い緑の山々に抱かれるようにして存在する、葛井村へと続く道。
とろとろと走る車の中、佐伯悠真は助手席の窓を開け、湿り気を含んだ山の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。土や草の匂いが混じった空気が、都会に生きる身には心地よい。
「大自然……と言うべきか、すごい所だな」
そうつぶやくと、悠真の隣で車のハンドルを握る斎笹彰人が笑う。
「びっくりした? さっきなんて地図に載ってる道が途中で消えてただろ。ほんと、どんだけ秘境なんだって話だぜ、俺の村ってさぁ」
「でも、静かでいい所ですね。東京とは空気がまるで違う」
後部座席から上奈木詩音が運転席を覗き込んでそう言う。彼女は悠真たちと同じ大学の後輩だ。
土着信仰や地方の風習について、趣味をかねて研究している悠真のフィールドワークに、カメラマンとして同行している。
詩音はカメラを膝に乗せながら、車窓から見える風景を興味深そうに眺めた。
「こういう空気嫌いじゃないですよ、私。水分が肌に馴染むみたいで……。ちょっと落ち着くかも」
「東京よりだいぶ涼しいとは言え、この夏の湿気を肌が潤いそうな言葉で表現するとはな」
悠真が笑いながら言うと、詩音もふふんと鼻を鳴らすように笑った。
彰人の運転する車は、アスファルトがひび割れた道をガタゴトと揺れながら進み、やがて視界が開けると、葛井村がその姿を見せた。
葛井村は、田畑と古い木造の家屋が点在する、山間の小さな集落だ。
人の姿はあまり見えなかったが、いくつかの家では軒先に風鈴が吊るされ、涼やかな音を立てている。
「村の人たちは、日が昇るころに動き出して、日が沈むと休むのさ。ちょっとでも日が陰ると、もう戸を閉めちゃう店もあるんだぜ?」
冗談っぽく彰人が言った言葉に、詩音が目を丸くする。
「東京とは、全然ちがうんですね」
「見ての通り、のんびりした所だもんで」
方言まじりに彰人がおどけて答えた。
車はゆるやかな坂を登り、道の突き当たりにある一軒の家の前で止まった。
斎笹弥栄――彰人の祖母が暮らす家である。
古さの中にも手入れの行き届いた美しさがある、そんな古民家だ。
家の横には小さな畑が広がり、キュウリやナスのまだ育ちきっていない実が、濃い緑の葉の下で揺れている。
戸口から現れたのは、細身の老女だった。背筋がぴんと伸びており、その瞳には澄んだ強さがある。
「彰人、お帰り。長く運転してきたもんで、疲れたら?」
彰人が笑顔で近寄る。
「ばあちゃん、ただいま。この二人が大学の友達の悠真と詩音ちゃん。前に電話で話したら? 俺、いま悠真の研究に付き合っててさ。明日の祭り、見学しにきたんだ」
「なるほどねぇ……。悠真さん、詩音さん、遠いもんで、大変だったら。まあまあ、お茶でも淹れるで、ほれ、おあがりて」
弥栄にまねかれるまま入った土間は薄暗く、涼しい風が通り抜けていく。
よく拭き込まれた廊下を歩き、案内された座敷には、野山で摘んだのだろう季節の草花が飾られていた。
窓際に真新しい簾がかけられ、淡い影を畳に落としている。
床の間に目を向けると、そこには墨で描かれた面の絵が飾られていた。若い男の面と、髭を生やした翁の面が並んで描かれている。
詩音がその絵を見ながら首を傾げた。
「これって、祭りで使う面が描いてあるんでしょうか?」
「うん、多分な。……ばあちゃん、それ、昔からあったよな?」
お茶を淹れている弥栄に、彰人がたずねる。
「いつからあるんだか、誰が描いたんだか分からんけど、祭りの時につける面の絵だに。ほら、お茶淹れたでおあがりて」
頷きながらそう言う弥栄に進められ、明るい黄色みを帯びた香りのよい緑茶を飲み、一息つくと彰人が言った。
「明るいうちに、神社と刑部様の社の方を案内するから行こうぜ。暗くなると危ないし」
「道が険しいのか?」
「まあ、刑部様の社は山の上だから。普段はあんまり近づかないんだ」
彰人に案内された神社は、村の外れの山のふもとにあった。鬱蒼とした木々に囲まれた境内を散策する。
「まあ、別に変わったところもない普通の神社さ、ここは。ちょっと変わってんのはこの先だ」
本殿の脇にひっそりとたたずむ、古びた鳥居を指し示しながら彰人が言った。鳥居の先には獣道よりは少しましな道が山の上へと続いている。
細い山道をさらに登った先にある社は、樹齢数百年はあろうかという大杉の元にあった。
社はほとんど人の手が入っていないように見える。木材の表面は黒ずみ、所々に苔が生えている。
扉の前に張られているしめ縄のみが、際立って新しく見えた。
「これが、刑部様の社。下の神社より古そうだろ?」
「ですね……しめ縄だけは、つい最近取り換えたばかりみたいですけど。誰がやってるんでしょう」
詩音は社のしめ縄を見つめながら言った。
「しめ縄を換えてるのは、たぶん、祭りで禰宜をつとめる嘉道さん、うちの本家の人だ。……ちなみに、刑部様の社って呼んでるけど、何を祀っているのか正確なことは誰も知らない」
「祀られている神の名前とか、分からないのか?」
悠真が尋ねると、彰人は少し困ったような顔をした。
「ただ“刑部様”って呼ばれてて、本当の名前は誰も知らない。……たぶん昔の風習の名残なんだと思うぜ。ほら、武将とか偉い人は、名前で呼ばないっていう」
「……じゃあ、祀られてるのは神様、というより昔の偉い人なんでしょうか?」
そう詩音がたずねる。
「そうかもしれん。……そういえば、日没後に扉を開けたらいけないって言い伝えがあってさ、変わってんだろ?」
「祟りとか?」
詩音が軽く茶化すように言ったが、彰人は真顔で首を振った。
「分からん。そうかもしれないし、中にあるものが傷まないように開けるな、とかの違う理由なのかもしれない。とにかく、日没後は扉を開けるな、そういう決まりだ、って言われてんだ」
「普通ならば、絶対に開けてはならない、とか言うものだし、日没後と時間を限定するのは確かに、変わってるかも知れんな。……中には何が?」
「何が入ってんだか、俺ん家にも伝わってない。とうぜん、俺だって中を見たことはないし。ほんと、何なんだか」
話ながら辺りを見回していると、社の傍らに半ば土に埋もれるような状態で二基の五輪塔があることに気がついた。
五輪塔はどちら深く苔むしていて、過ぎてきた時代の長さを思わせる。
「それは? 墓石……ですか?」
しゃがみこんで五輪塔を調べる悠真に、詩音がたずねた。
「五輪塔だな。詩音が言った通り、墓石としても用いられている物だが、経塚などの供養塔として用いられる例もある。……これはどういう由来なんだろうな。作られたのは室町期……いやもう少し古い南北朝か?」
「それ含めて、刑部様って呼ばれてんだ。……ほら、そろそろ帰ろうぜ。山ん中はすぐ暗くなる」
三人は社の前に立ち一礼した。
吹き抜ける一陣の風が大杉の枝を揺らす。そよぐ枝葉の、ささやき声のような音が聞こえた。
参拝を終え、三人は来た道を斎笹家へと引き返した。時おりすれ違う村人に挨拶をすれば、みな穏やかに挨拶を返してくれる。
しかし、刑部様の社に行って来たと言うと、ほんのわずかにだが、視線を逸らされたような気がした。
日が暮れて、斎笹家で夕食をご馳走になった後、悠真たち三人が縁側で涼んでいると、近所の人々が翌日の祭りの準備について話しているのが聞こえてきた。
「明日の天気、少し怪しいで舞殿の設営ちょっと早めるか?」
「まあ降ったとしても、あんまり降らんだろ。あんじゃぁない」
「よろしければ、お手伝いしましょうか?」
悠真が近づいて声をかけると、彼らは驚きつつも言葉を返した。
「いや、いや。村の祭りだもんで、俺たちだけでやるよ。……そうだ、君たちが祭りの写真を撮りたいって言っとったって弥栄さんから聞いとるで、明日は遠慮せずに撮っていいでな。あぁ、でもフラッシュは焚かんで欲しいなぁ」
詩音が手でカメラを構えるふりをしながら人懐っこく笑う。
「お言葉に甘えて、しっかり撮らせていただきますね。もちろん、フラッシュは焚きませんとも!!」
明るくそう言った詩音に、村人たちも笑みを浮かべながら、一言二言、悠真や詩音と言葉を交わすと手をふって去っていった。
夜が深まる。風が簾をそっと揺らす。
都会の喧騒とは無縁の斎笹家。隣の部屋からは、襖越しに詩音が寝返りをうつ微かな音が聞こえる。
月の光が室内をうっすらと照らす。
何を考えるでもなく、畳の上に映る簾の影をぼんやり見つめているうちに、悠真は静かに眠りに落ちた。
鮎貝さなと申します。普段は短歌など詠んでいる私が、何の気の迷いかこのたび小説に手を出してしまいました。
拙い作品ではございますが、どうかお付き合いいただければ幸いです。