8、誰にも言えない事
――アルメア公国ゼフィール市 内務省警察局長執務室
内務省の庁舎はあまり豪奢とは言えない建造物で、どちらかと言うと無骨なサーバードの建物の方式に近い。これはサーバードが我が国に対する支援として建てたからだが、個人的にはシャルステルの昔ながらの建物の方が好みだ。しかし、機能性という面を考えるとこの方が良いのかもしれない。築年数は他の庁舎と比較しても新しいし、屋内に入ると、我が国ではまだ珍しいエレベーターもある。
我が国は首都のゼフィールですら高層建築物が少なく、あってせいぜい、9階建てのこの内務省の庁舎か、ランドマーク兼電波塔の、地上高31mのゼフィール・タワーくらいだ。
警察局長の執務室は4階で、内務大臣のメイリア・ゼトロールと、警察局長のハロルス・ロクロファーンが待っている。
私が入る頃には、既に二人とも揃っており、私を見るなり、立ち上がって出迎えてくれた。
「お疲れ様です。公爵閣下」
「お待ちしておりました」
私は頷いて応じつつ、ゼトロールの隣に座った。
「閣下、どうやらサーバードに大変な要求をされたとか」
ゼトロールが聞くので、私は肩をすくめた。
「まあ、半ば最後通牒だな。あれは」
「それを受けて、我々が現状をお話しするのと、方針転換を試みるという事ですね」
ロクロファーンが確認する。特に間違った事を言っているわけではないので、私は頷いた。
「それで、まずはどうしましょうか?」
私は目の前に置いてあった書類を手に取って、ざっと読んでみる。大まかな内容は、警察内部の汚職とアルメアの翼に関する調査の報告だった。
「なら、警察内部の汚職について」
「はい。これについてはかなり根深い問題な様で、そもそもこれは警察官に限らない、公務員に対する給料の低さが起因している様です」
「それに加えて、サーバードの諜報員の活動を示唆する証拠や証言がいくらか見られました。これは何千人を解雇すれば良いとか、そういう話では済まないでしょう」
ロクロファーンとゼトロールがそれぞれ意見を述べる。これはどうやら国民の貧困とも絡み合った問題の様で、無理に対応しても意味がないだろうと感じた。やはり、父やその祖先の治世のツケが芽を出し始めたのだ。
「そういう者を解雇するのも手ですが、解雇された側は不満を持つでしょうし、最悪の場合は変な恨みを買って、テロ組織に加担する可能性すらあります」
「同感だな。ひとまず、この件については調査を切り上げてくれ。だが、代わりにアルメアの翼に関する調査を強化してほしい。サーバードが関与している物的証拠、特に軍人が潜入している証拠を掴んでほしい」
結局のところ、根本的な問題が解決しない限り、汚職をまた繰り返す羽目になる。今のところ手を打てる事は、サーバードの支援をテロ組織が受けている事の証拠を掴み、国際社会でそれを訴える事くらいだった。
「軍人がですか?」
「そうだ。以前、サーバードの特殊部隊の関与が疑われると言っていたが、どうなんだ?」
「ええ、それは証言としては何件かあるのですが……証拠としては弱いですね」
「だから、物的証拠が欲しい。これを見つけられれば、国際社会に対してサーバードを告発できる」
「わかりました。特殊部隊がいるにせよ、いないにせよ、その尻尾を掴んで見せます。ですが、それには時間が必要です。かなり根気のいる作業になるでしょう」
「だから、人材を増やす。警察の内部調査は切り上げて良いから、そのリソースをそれに割いてくれ」
「ですが、良いんですか?警察内部の汚職も一掃しない事には、組織としての効率性に欠けると思いますが」
ゼトロールの言う事は正しかったが、それをしたところで意味は無いと感じていた。
「長い目で見れば、まず汚職をせざるを得ない状況にある事が問題だ。それを片づけない事にはその様な対策も意味を成さないだろう。だから、アルメアの翼の調査に全力を注いで欲しい」
「わかりました。ですが、それでも時間が必要なのはご理解ください」
「具体的には?」
「まだ何とも言えない感じですが、年単位ですね。サーバードの特殊部隊の構成員を捕まえられるなどの成果があれば別ですが、そうでないなら相当な時間を要するでしょう」
「……まあ、なるべく早く成果を挙げる事を期待している」
「善処します」
ロクロファーンは軽く、しかし丁寧に頭を下げた。
「さて、次に行くか」
「ええ、アルメアの翼についてですね。彼らに関しては連日の報告書をご覧いただければお分かりかと思いますが、逮捕者が出ている事を除けば目立った成果はありません」
「しかも、逮捕されたのはいずれも末端の構成員ばかりで、大きな成果は得られていません」
「幹部クラスは無理なのか?」
「潜入には成功している様ですから、もう少しだと思います」
「とはいえ、捕らえても証拠になりうる証言が出るかは怪しいですからね」
実際、相手が人間である以上、証言を引き出すのは骨が折れる作業になる。最悪の場合は永遠に引き出せない事もあるわけなので、あまり希望が持てる感じではなさそうだった。結局のところ、写真みたいな物証がなければ、国際社会に告発するにしても、話にならないだろう。
「やはり、写真みたいな物証を持っては来られないか?サーバードの特殊部隊の活動の明確な証拠があればそれで良い」
そう聞いても、ロクロファーンは困った顔をしている。やはり時間がないといけないのだろう。
「こちらもアルメアの翼だけ見ていれば良いわけではありませんからね……、いずれにせよ、時間をください」
「わかった。簡単じゃないだろうが、どうか頼んだ」
「仰せのままに」
思った以上に、敵は手強い。しかも道は不透明だ。果たしてサーバードを告発する事ができるのだろうか。不安で仕方がなかった。
そうして、やがて日が傾き始め、私も疲れ果てた頃。ようやく帰宅の途につくことが出来た。
「今日も大変だった様ですね。旦那様」
「そう見えるか?」
私はヴァインの言葉を聞いて、ガラスの反射に薄く映る自分の顔を見た。流れていく背景に、くたびれた雰囲気のおっさんがそこに映っている。以前より老けただろうか。
「気苦労が絶えない様なお顔ですね」
「まあ、な」
実際、家庭と仕事を両立するのは誰しも難儀するだろうが、私の場合は遥かに仕事が重かった。一国の元首とは、それだけ荷が重い仕事なのだ。耐えられる者は世界でも限られているからこそ、世界にはそれが200人といないのだ。
「……もう数ヶ月経ちますね」
ヴァインが言った。確かに、考えてみると就任からもう何ヶ月か経っている。就任式が昨日の事の様だが、カレンダーは嘘をつかないものだ。
「そんなに経つか。私も歳だな」
「私ほどではありませんよ」
「それは……そうだな。失礼した」
反論しようとしたが、確かにヴァインの方が遥かに歳上なので、口答えするのも無意味に感じた。
「いえ。別に。それより、慣れましたか?公爵府のお席は」
「座り心地は良くないな。正直、今すぐにでも離れたい気分だ」
「そうですか……それはお疲れでしょう」
ヴァインが同情する様な声で言うが、私は首を横に振った。
「……いや、国民ほどではない」
それは心から思っての発言なのかは、私にはわからなかった。
ヴァインは私にかける言葉が見つからない様で、黙ってハンドルを握っていた。この方が今の私には良い。
貴族たる者、人に良く見られなければ、誰も従ってはくれない。しかし、その労苦を理解する者はそう多くない。ましてや相手が民衆となれば、その傾向も強い。人は人の痛みがわからないものだ。私も妻の痛みを知らないし、妻も私の痛みを知らない。娘もそうだし、閣僚も、国民も、誰もがそうだ。結局のところ、それはお互い様なのだ。だとすれば、私は例え口先だけでも立派な事を言わなければ、誰からでも見捨てられうる。怖いのだ。それが。
ふと外を見ると、見知らぬ夫婦が歩いている。随分と仲が良さそうだ。そして、その脇にはホームレスらしい、物乞いがいる。虚な目で何処かを見つめている。
本当に国民の方が苦労をしているのだろうか。いや。私は、国民なんかよりも自分が遥かに重い責務を抱えている事を理解している。だが、感情がそれを許さない。
私は、確かに国民よりも苦労しているのかもしれない。しかし、それを口にすると、私は負けた気がするのだ。私は勝たなければならない。アルメアの民のために、どんな事も、どんな苦しみも、耐え忍ばなければならないのだ。
だから、こんなことを、到底誰かに言えるはずがなかった。こんな重責が誰に分かろうか。私の言葉一つで、その人の人生を変えてしまう事ができる。その重さが誰に理解できようか。
これは、アルメア公爵家に生まれた者にかけられた呪いだ。その呪いから解き放たれるために、私が退く方法はあるのか。それはまだ、誰にも明かせない事だった。
やがて、車は家にたどり着いた。
「あ、おかえり」
家に入ると、まずリリアが気づいた。相変わらず歴史の本を読んでいる。
「ただいま」
「ねえ、お父さん。ちょっと聞きたいんだけど……」
リリアがこちらの様子を伺う様に聞いて来た。家族なのだから、そこまで気を遣う必要もないのだが。
「どうした?」
「アルメアに軍隊っていないじゃん」
リリアの言うように、アルメアはかつての戦争で、軍の侵入を許さない中立地帯という形で形成された経緯を持つため、いかなる国の軍隊の侵入も許していない。それはつまり、この国が軍事力を保有してはいけないという事である。
「そうだな。それが?」
「他の国が攻めて来たらどうやって守るの?」
「その攻めて来た国を他の国が攻めてくれる事になっている。国際法上はな」
まあ、それくらい自国でやれと言われないわけではないが、法律がそれを許さないのだから仕方がない。一応、シャルステルとサーバードという軍事大国に挟まれている以上、我が国を武力で以って侵略しようとする勢力が居よう物なら、その両大国を敵に回す。だから、そんな事をしでかす国はまずないと思うが、何があるのかがわからないのがこの世というものだ。それに、相手にしているのが国ではなくテロリストとかいうアウトローな存在なのだから、厄介だ。
「でも、それをちゃんと守ってくれるとは限らないじゃん。別に違反したからって罰せられるわけじゃないし。その保証ってどこにあるの?」
随分と難しい事を聞く。リリアも成長したんだなとつくづく感じられる。私は真面目に答える必要性を感じ、椅子に座って、リリアをジッと見た。
「それを守らないと不都合がある様になっているんだ。例えば、うちの国はシャルステルとサーバードに挟まれているが、もしサーバードが我が国に攻めて来ても、シャルステルがアルメアを守らないとサーバードの勢力拡大を許してしまう。逆も同じだ」
「じゃあ、それ以外の国が攻めて来たらどうなの?」
「そもそも、一般に戦争というのは良くない事とされている。国際法の上でも、侵略された国が自国を守る戦争のみが合法な戦争だと言われている。だから、侵略した側の国は最低でも経済制裁くらいは受けるはずだし、最悪の場合はむしろ他国から自国が攻められるという事になる」
「それでも、サーバードは時々戦争してるじゃん」
実際のところ、あの国は他国に対する侵略と言うよりも、民族自決の抑圧という側面が強いだろうが、いずれにせよ良い印象はない。
「まあ、戦争というより紛争だが」
「それって法律が成立してなくない?」
「だが、決まり事を守る奴と守らない奴。どっちがマシに見える?」
「それは……守る方?」
「そう。国際法っていうのはそういう物なんだ。決まり事を守れば味方も多いし、反対の事をすれば敵を増やす。だから、アルメアみたいな弱小国が生き残るには、そうやって国際法を守っていくしかないんだ。それに、サーバードもやり過ぎればただでは済まないだろうしな」
実際のところ、世界大戦以降のここ数十年、サーバードが直接、大規模な国家間戦争を起こした事はなかった。せいぜい地域紛争や、どこかしらの国や勢力に対して軍事支援を提供するくらいだ。例えばアルメアの翼の様なテロ組織とか。
「ふうん。でも、アリナーレはどうなの?あの国はめちゃくちゃ戦争しているイメージだけど」
「正しくは軍事的介入だな。これは条件次第では合法だ」
「なんで?別に自分が攻め入られたわけじゃないでしょ?」
「集団的自衛権という考え方があってな。それこそ、この国もそうだ。アルメアがどこかの国に攻め入られた時、例えばサーバードが攻めて来たらシャルステルが助けてくれる様に、被侵略国は別の国と同盟しても良い事になっている。これがAOTO(アルトラ大洋条約機構、アリナーレを中心とする西側諸国の代表的な軍事同盟)だったり、MTO(ミミリス海条約機構、シャルステルを中心とする軍事同盟)みたいに、諸外国と同盟を組む国が多数あるが、これらはそういう事情で存在を許されている組織だ。もちろん、こういう組織に属さなくても、個別で条約を結ぶ手段もある。アルメアもそうだ」
「ならさ、アルメアもそういう軍事同盟に加入した方が強いんじゃないの?」
「まあ、それはそうなんだがな……。ただ、どちらかの国の同盟に入れば、もう片方の国が怒るんだ。最悪、それが原因で戦争にもなり得るから、やめた方が良いな」
「でも、戦争できないんでしょ?」
「みんながそう思っているだけだ。実際のところ、この世界の全ての国がそれを守る価値がないと判断すれば、その国際法は意味をなさない」
シャルステルとサーバードの戦争が国際社会に与える影響は計り知れない。仮にこの国を巡ってそんな戦争を起こそう物なら、第二次世界大戦になりかねない。それは誰しもが理解しているはずだが、おそらく、サーバードは我が国を侵略する腹積りだ。何か理由があれば必ず来る。これが地域紛争と片づけられるか、あるいは国家間戦争と見做されるかが微妙だからだ。アルメアはかなり特殊な国なので、国際社会もどう見れば良いのかはわかっていないのだろう。だから、我が国は放置され、この様な窮状になっている。
「それって意味があるの?」
「お金と一緒だ。たかが紙切れ一枚に何十リテもの価値があると皆が考えているから、実際にそれだけの価値が生じているに過ぎない。国際法も皆が守る価値があると考えているから成立しているんだ。もしその信頼が無くなれば、経済や国際秩序がクラッシュする。それだけのことだ」
「なんだか難しい」
「そういうものだ」
実際、国際情勢というのは複雑な物だ。理解には時間を要する。だからこそ、リリアの様な若いうちから学んでおくことは大切なのだ。その点、私の娘は偉い。自らそういう勉強を志し、実行しているのだから。
私が若い頃は、何も知らずに遊び呆けていた。父上の苦労も知らず、私や、この国が抱える問題から目を背ける様にして遊んできたのだ。そのツケが今になって回って来た。もし私が、弁務官ともっと仲良くなっていれば。もし私が、父上の政務の手伝いをしていれば。後悔なんていくらでもあるが、それに意味はない。結局のところ、それを糧に未来へと繋げていく事しか、今の私にはできないのだから。
そんな事をしているうちに、晩御飯の美味しい香りが漂って来た。今日も美味しそうだ。
私は席を立ち、レイラのご飯を食べることにした。