7、東の狼煙
――アルメア公国ゼフィール市 公爵府執務室
就任から数ヶ月、この席からの眺めにも見慣れ始めた頃。今日は朝早くから、保健厚生大臣のレソンヌより何か報告があるそうで、私は執務室で書類仕事をしながら暇を潰していた。
相変わらず、アルメアの翼や公国独立会議の活動に関する報告書が多く目につく。特にアルメアの翼は酷い。ここ最近は、それ関連の報告書を毎日見ているのではないだろうか。内容としても、何人逮捕された、どこで爆破テロを起こした、銃乱射事件で何人死んだとかいう話だ。全く変わり映えしない。
初めの方こそ、気に病む心が残ってはいたのだが、今では完全に慣れてしまった。慣れというのも恐ろしい。
外からは雨音が聞こえてくる。白い雲を映す窓には水滴が付き、あまり天気は良くない。ここ最近はしばらくこんな調子だ。
すると、誰かが部屋をノックした。おそらくレソンヌなので、入る様に促す。扉が開くと、案の定、苦労人気質の保健厚生大臣がいた。表情は暗い。
「おはよう」
「おはようございます。公爵閣下」
レソンヌは私のデスクの前に立つと、鞄の中から取り出し取り出した紙束を一つ、渡してきた。どうやら報告書の様だ。『アールデ、及びシファル近傍で報告される奇病に関する報告書』と銘打った書類で、私は中身をざっと見た。
内容は、感覚障害や運動失調、言語障害などを伴う神経病がアールデやシファルの様な都市で確認されており、その調査に取り掛かったという報告だった。
「どうやら、河川の近くに在住する市民の間で、謎の病気が流行しているみたいです」
読んでいると、レソンヌが言う。
「謎の病気?」
「水系感染症の一種という見方が有力ですが、詳しい状況は調査中です」
神妙そうな面持ちで彼は言う。水系感染症と言えばコレラなどが出てくるが、一々取り上げるという事は既知の病気ではなさそうだ。
「国内で流行の恐れは?」
「おそらく局地的な物だと思います。特に南部地域で流行している様ですが、北部のあたりでは一件もこの様な報告がありません」
「南部地域はまずいな……」
アルメアの南部地域はシファルやアールデ、ヴァリスの様な経済的に重要な都市が多くある地域で、そのあたりで感染症騒ぎとなると、経済的な影響も少なくはないだろう。特にヴァリスだ。せっかく投資をすると決めたのに、こんな騒ぎで不意にされるのはかなり不愉快だった。これ以上は後がない。焦燥感を感じたが、それに気づいた私は、ひとまずは落ち着こうと考えて、深呼吸をした。
「……水系感染症と言ったな」
「はい。河川の、特に南部地域の河川や海中に生息する何かみたいです。咳やくしゃみはない様ですから、おそらく病状的には、ある種の脳炎の様な寄生虫か、何らかの中毒の可能性もある様です」
「治療法などは?」
「対症療法のみです。ただ、厄介なのは神経病な上に、我が国の医療の力には限界もあり、有効な治療法は見つかっていません」
せめて原因の究明ができていれば対策も打てるが、それすらできていないのは、我が国の医療の敗北とでも捉えるべき事だろう。なんと理不尽な事か。呆れるばかりだ。情けない限りだが、これに関しては諸外国の支援を受けなければならないだろう。
「調査完了までにどの程度かかる?」
「わかりかねます。ただ、こういう場合は長くなるとだけ、今は申し上げておきます」
はっきりしないので少し不愉快な気持ちになったが、彼に怒ったとてどうにかなる話でもない。私はため息を吐いて済ませた。
「……調査は続けてくれ」
「はい。もちろん」
レソンヌも事態の重さは重々承知している様で、表情は真剣だった。
しかし、解決しない問題が山積みだ。弁務官、経済、財政、治安、外交、行政システムに教育、そして今度は感染症と来た。どうして我が国はここまで追い詰められなければならないのだろうか。結局のところ、小国は大国のエサでしかないのだろうか。これ以上、追い詰めるのはやめて欲しい限りだ。
気づけば、レソンヌは部屋を出ており、執務室には私一人残されていた。覚えていないだけで、私が何か返事をした気がしないでもないが、どうでも良かった。
いつの間にか、雨が結構強まっている。屋根や窓、外壁を雨粒が打ちつけ、ボトボトという音を鳴らしている。帰るまでに止むだろうか。止むと良いなと願望を頭の中で垂れる。
すると、今度は補佐官が入ってきた。どうやらどこか重要なところから電話が来たらしい。私はそのまま補佐官について行って、電話に出る。どうやらサーバードの弁務官からみたいだ。
「はい。代わりました」
『やあ、同志アルメアか?』
ヤールスキーはいつもの軽快な口調で聞いてきた。
「はい。どうしましたか?」
『良い知らせがある。我が祖国は君らに対して支援をする事を決めたらしい。これは喜ぶべき事だ。同志よ』
「それは嬉しい限りです」
その裏にある事を考えれば、全く嬉しくはなかったが、口だけでもそう言っておかなければ、どうなるかわからない。
『どうした?これは喜ばしい事だぞ?同志?』
乾いた返事に聞こえたらしく、ヤールスキーが少し訝しむ。
「ええ、これでも喜んでいますよ。顔がお見せできないのが残念です」
『そうか?まあ、良いだろう。ただ、本国が条件を提示してきた』
ほら来た。これだからサーバードは信頼できない。さて、どう来るか。ひとまず、既に要求された事項ではないかを確認する。
「警察力の強化でしたよね」
『いや、それもあるが……』
聞くと、ヤールスキーはかなり言い淀んでいた。それほど大きな事を要求するつもりなのだろうか。軍事基地の設置でもするつもりなのだろうかと予想を立ててみるが、いつも外れるので、あまり意味もなさそうだ。
『……シャルステルとの縁を切れとの事だ』
一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。シャルステルとの縁を切ると言うのはつまり、サーバードの属国になれとでも言いたいのだろうか。予想はいつも外れるが、今回は悪い方に外れてくれた。
「……どういうことですか?」
『そのままの意味だ。我が国が対シャルステルの債務を全て工面するし、技術支援なども惜しまない。その代わり、シャルステルからの支援を受けない、というのが条件だそうだ』
「しかし、それは……」
怒りを通り越して、呆れた。つまり、主権を見返りに技術をくれてやると言いたいのだ。こんな言い分が通ると本気でサーバードは思っているのだろうか?
『ああ、わかっているぞ。同志。言いたいことはわかる。……だが、本国はそう答えた』
これはいよいよガータン危機の再来だ。こればかりは譲れない要求だった。
「……フェーム弁務官は何と?」
『彼女にはまだ伝えていない。とはいえ、本国のことだ。分かるだろう?』
暗に脅すつもりの様だ。つまり、シャルステル側の弁務官にこの件を話そうものなら、アルメアの翼あたりが我が家にテロ攻撃でもしてくるのだろうか?
『……同志、我々は戦争を望まない。後は君の判断だ。私からは以上だが、何かあるかね?』
返事を躊躇っていると、ヤールスキーが付け足す様に言った。つまり、暗にサーバードに隷属するか、戦争するかの二択を迫られているわけだ。支援を受けない代わりにこの話は無かったことに、というわけにもいかないみたいだ。
「ええ、わかりました。……はっきりと理解しました」
『よろしい。……頼んだぞ。同志』
私が曖昧な返事をすると、ヤールスキーはそう言い残し、電話を切った。
私は即座に、ローサファンヌとコートヌレットを執務室に呼び出した。ここからは時間との戦いになる。
二人は10分程で来た。かなり急がせたので、二人も動揺している様子だ。
「公爵、どうされましたか?」
「緊急でというには、相応の何かがあるはずですよね」
私はコートヌレットの質問に頷いて答えつつ、部屋の鍵を閉める。そして、二人を見る。ローサファンヌは私からどういう言葉が飛び出してくるのか、不安げな面持ちだ。コートヌレットの方は、なぜか不機嫌そうな感じだった。何かを邪魔されたのだろうが、こちらの方が遥かに重要な事なので、勘弁願いたい。
「まず、突然呼び出してすまない。特にコートヌレット。何か邪魔してしまったなら謝る」
「別に構いません。ヴェストリア大使の心象を悪くされるのが閣下のご希望なら、それに従うのみです」
コートヌレットはやや怒りを含んだ様な早口で、そんな皮肉を言った。すっかり呆れた様子だ。
「それはすまなかった。だが、今から話すこともかなり重要な事だから勘弁して欲しい」
「まあ、もう良いですよ。それより、どうしたんですか?」
二人の視線が私を捉え、ローサファンヌもコートヌレットも次の言葉を待っている。そのおかげで、これからする発言を頭の中でまとめるのに、少々時間を要した。
「……先程、サーバードの弁務官から電話があった。支援の件でだ」
「それで緊急の呼び出しですか?」
ローサファンヌの視線が鋭くなった。くだらない事なら文句の一つでも言ってやろうという感じがしたが、事実ではあるので、私は頷く。
「ああ。その件をネタにして、サーバードから追加で要求があった」
「だからあの国は信用できないんですよ。それで、何を要求されたんですか?」
コートヌレットが肩をすくめて言うが、その態度も一変するのだろうか。一方のローサファンヌは、黙ってこちらを見ている。
「……サーバードの要求は、シャルステル側の支援を全て切る事。だそうだ」
そう伝えた瞬間、二人の目つきが明らかに変わった。動揺している。ローサファンヌの翼がピクリと動き、コートヌレットは信じられないと言わんばかりに何度か連続して瞬きをした。かと思えば、聞き間違えではない事を確認したかったのか、二人はお互いに顔を合わせる。すると、まずローサファンヌがこちらを見た。
「……それって、ほとんど最後通牒では?」
「一応、あくまでも口約束だ。まだ書面では来ていない上に、肯定も否定もしていない」
「ついに来ましたね……」
コートヌレットは口元に手を当てて、何かを考える素振りを見せた。
「知っていたのか?」
「今までの動向を鑑みれば、察しは付くでしょう。サーバードの経済的搾取や原発の建設など、怪しい動きは多々ありました」
「いずれにせよ、これは大変な事になりますよ。シャルステル側の弁務官はなんと?」
ローサファンヌの質問には、首を横に振ってから答えた。
「まだこちらもサーバードも、フェーム弁務官には伝えていない。情報を掴んでいる可能性もあるが、いずれにせよ、知らせる必要はあるだろう」
「……閣下、それで、これからどうするおつもりですか?」
コートヌレットが質問した。
「今言ったが、ひとまず、シャルステル側の弁務官に報告をする必要があるだろう」
「そうではなく、最終的な着地点です。この危機を活かして、弁務官の影響力を排除する事もできるのではないでしょうか?」
コートヌレットがそんな事を言うものだから、私もローサファンヌも驚いた様子で彼女を見る。
「あの、本気で言っているんですか?サーバードを退けられるかもわかりませんし、シャルステルもそう簡単には行きませんよ?」
やや呆れた様に、ローサファンヌが言った。
「ですが、これはチャンスです。この件を機にシャルステルに傾き、支援の元を国際社会に移せば良いんです。これでも我々は評議会加盟国です。そうすれば、国債もPMF(惑星通貨基金、実世界で言うIMF)に移せば、両国の影響力を排除できます」
「それだと、結果的に新たな支配を生むのではありませんか?あそこはアリナーレやルーレ、フィランサール、月陽みたいな西側諸国が主な出資国です。東側の言いなりになった次は、西側の言いなりになるということですか?」
「支配する国がたくさんあれば、それはもはや支配とは言いません。協調というのです。現にティレト大陸諸国がそうです。あの国々は今も植民地とされていますか?そうではないはずです」
二人の議論を聞いているうちに、私はコートヌレットの言う事に一理あると感じたが、懸念もあった。
「だが、あそこから緊縮財政を強要されれば、せっかくの国民への経済支援が全て水の泡だ。なんでも、貸与と引き換えに緊縮財政を求めると聞くが」
コートヌレットは私に視線を移す。
「それは交渉次第です。閣下。お望みなら、PMFを頼らないやり方もあります」
「可能なんですか?」
ローサファンヌが聞いた。
「はい。第三世界と言われる国は意外と多くあります。世界的に見ればシャルステルもそうですが、ヴェストリア、ホルセア、ドラゴニア、メルクラントなどが良い例です。シャルステルと近い立場の国もありますが、これらの国からの支援を受けられれば――あるいは、西側と東側どちらかに近い国とバランス良く交渉する手もありますが――どちらにせよ、シャルステルから財政的に独立できるために必須の、経済の起爆剤になり得ます。あの国は曲がりなりにも民主主義を実践している国家ですから、手切れ金さえ工面できれば、宗主国になる事を望まないでしょう。時代遅れの植民地政策とはおさらばしたいはずですし」
「そのためには、サーバードの影響力の排除が前提になりますがね。……確かに隷属よりはマシかもしれませんが、極めて厳しい道のりになるでしょう」
どうやらコートヌレットの意見を聞いているうちに、ローサファンヌは少し納得したみたいだ。
「一応聞くが、サーバードに隷属する道を選ぶ場合はどうなる?」
「テロ組織の活動が激化するでしょうね。最悪の場合は独立派と保守派で内戦まっしぐらです。それは避けるべきだと私は思いますが……」
ローサファンヌがそう言うなら、どうやら、選択肢は残されていない様だった。私はしばらく考え、それ以外の答えがないかを探った。サーバードに隷属するのはあり得ない。今言われた様に、結局内戦になる。すると、シャルステルとの接近から独立というのが現実的なのは確かだ。もし、シャルステルに隷属する場合。これはこれで内戦になる。やはり、コートヌレットの策しかないだろう。
思索を終え、私は何度か頷いてみせる。
「……わかった。この国には、真の改革が必要な時代が来たらしい」
「つまり……?」
「第三世界を頼る。我々の事は我々でどうにかすべきだろう」
「かしこまりました」
「ひとまずはシャルステルです。フェーム弁務官にこの件を伝えましょう」
そういうわけで、私達はシャルステルの弁務官に会いに行く事になった。
――少し後、アルメア公国ゼフィール市 シャルステル・ウェルス王国弁務官府
コートヌレットは別に用事があるらしく、結局のところ、弁務官府には私とローサファンヌの二人で行った。
雨はやや弱まってはいるが、地面のぬかるみが酷くなっていた。舗装路ならこんな事もないのだろうが、あいにく我が国の道路は基本的に舗装されていない。
ヴァインの運転でシャルステル・ウェルス王国の弁務官府に赴いた。
シャルステル・ウェルス王国弁務官府は、私の先祖が子供向けの別邸として建てた邸宅を接収して、弁務官府庁舎としている。弁務官の官舎も兼ねており、住む者の気分はお貴族様といった感じだろうか。
一応、文化財保護の観点から、改築などは王国側がその費用を持ってくれる。そのおかげで、この弁務官府の見た目は昔から変わらない。それは救いだった。
そこからヴァインと別れ、使用人らしい者に案内が引き継がれる。そのまま連れられて入った応接室には、既にシャルステルの弁務官である、ミルシア・フェームが待ち構えていた。
「お待ちしておりました」
入るなり、彼女は言う。おそらくこの様子だと、情報を既に持っているらしい。
「その言いようだと、事情はご理解いただいている様ですね」
「ええ。歓迎します。シャルステルはアルメアの味方です」
フェームは両手を大きく広げて言った。これが味方というのも胡散臭いが、頼れる相手がこれしかいない以上、仕方がない。
ひとまず、フェームは向かいの席を指して、我々に座るように促した。それに応じる形で、私もフェームの向かいに座った。
「しかし、世論は味方なんですかね?」
「それは私だけの話ではありませんので、なんともお伝えしかねます」
フェームは少し困った様な顔で答えた。
「それで、本国の方はどこまで我々を助けていただけるのですか?」
「そうですね。大それた物じゃなければ、大抵の事は受けてくれると思います。サーバードがここまでしたという事実は大きいですし、世論を刺激しない様な物事ならば協力できますよ」
「世論を刺激しない様な物事ですか……」
少し判断に困る。世論を刺激するかどうかは、その国の国民にしかわからない。しかも、誰か一人に聞いたとて、答えられる物でもない。やっかいで、かつ有効な言い逃れだった。
「それで、サーバードの件を受けて、公爵府はどうされるのですか?まさか隷属するとか……?」
フェームは真面目な顔で、身を乗り出して聞いてきた。
「それはあり得ません。我が国はいかなる国にも屈するつもりはありません」
私が答えると、フェームは背筋を伸ばして、安堵の表情を浮かべた。
「いかなる国にも、ですか。それにはどうやら、シャルステルも含まれているみたいですね?」
フェームが目ざとくもそう答えると、ローサファンヌは私を見た。別に話しても問題ないと判断してやったのだから、文句は勘弁して欲しかった。
「どちらにせよ、植民地をこれ以上持ってはいられないでしょう?ここまでの債務を抱えていて、返済の見通しも立たない様では、国民をそれを望まれるのではありませんか?」
「至極ごもっともな意見ですね」
フェームは机の上に置いてあった水を一口飲んだ。
「まあ……我が国の国民全員が、その様なことを考えているわけではないでしょうが……」
「とはいえ、それが多数派なら正しいはずです」
「多数派ならそうです。ただ、そうだと良いですがね」
「話が逸れてきました気がするので、戻しましょう。ひとまずは貴国の見解をお伺いしたく思います」
ローサファンヌが割って入った。私は少し強引に感じたが、フェームは特に何もなかったかの様に答えた。
「シャルステルとしては、今回の件は国際社会に認知させるべき事案だと考えています。もちろん、誰も戦争は望みませんから、本国はあくまでも外交で解決するつもりでしょう。その上で、連合評議会で決議をすることになると思います」
「しかし、戦争やそれに準ずる事態ではありませんよね。アルメアは軍事力もありませんし。それでも対応してもらえるのですか?」
「一応、国際法の上では、書面で最後通牒が来るか、実際にサーバードが軍事力を行使した場合には、それに準ずる事態として認定できます。仮に出来なくとも、そのための国際調停裁判所(現実世界のICJ、国際司法裁判所にあたる)です」
「その、『軍事力の行使やそれに準ずる事態』という……その具体的な定義はどうですか?」
「具体的な定義……ですか?」
フェームは眼鏡を上げ、レンズ越しに意味ありげな視線で私を見つめる。それを知ってどうするのかとでも言いたげだ。
「例えば、ある国が、別の国から親善訪問の名目で海軍を派遣されたからと言って、必ずしもそれはエスカレーションを意味するわけではありません。しかし、同じようにある国がその仮想敵国に対して、空母打撃群を近海に派遣した場合、エスカレーションにあたる場合もあります」
「そうですね。これらは基本、無害通航権の原則に則って定められた規定ですが、その違いは当事国同士の関係性によります。一般的な傾向としては、艦隊を編成している場合、特に空母打撃群の様な強力な艦隊を派遣した場合はエスカレーションに当たりますが、親善訪問の名目なら駆逐艦か巡洋艦2〜3隻が精々なところだと思います。もちろん、その見解は専門家により様々ですから、一概にそうだとは言えませんが」
流石は本職の外交官だけあって、フェームはすらすらと説明してくれた。
「では、陸の場合はいかがですか?」
「……陸の場合ですか?」
フェームが怪訝な顔で聞き返す。
「ええ。私の認識では、国境沿いに師団を展開し始めたら間違いなくエスカレーションですが、例えば、ある国のゲリラ勢力に対して、別の国が支援をしていた場合。サーバードなどがやっていると噂が立っていますが、これはどうなのですか?」
聞くと、フェームは納得した様子を見せ、少し考え込んだ。
「……そうですね。そう言うからには、何か明確な証拠がおありで?」
「あくまでも仮定の話です。まさかシャルステルが我が国のゲリラ勢力に加担しているなんて事、ありませんでしょうし」
そう言ってみると、フェームは苦笑いで応じた。
「まあ、私もその辺の事はよくわかりませんので……。それで、その場合はまあ、ゲリラ勢力がその国に及ぼしている影響力によると思います。いずれにせよ、この問題をまともに国際社会で扱われた事例がないものですから……、おそらくは調停裁判所で決議される事になりますね」
「慣習国際法ではどうなっていますか?」
「一応、違法ではあると思います。アルメアの場合は、その支援をしている人が軍人であれば、確実にアウトです。条約もありますし、この事態が起きているのがアルメア以外の国だったとしても、主権侵害と見なされる行動です。ただ、これについては小国と大国の間で意見が衝突するでしょうし、この場合は調停裁判所の判事の決断によると思いますね」
アルメアの翼というテロ組織に対して、サーバードが支援を行なっていることは、状況証拠からして間違いない。だが、決定打には欠けているのが現状だ。逮捕された構成員から、サーバードから武器を買っているという旨の証言は出ているが、それが国際法違反ということにはならない。確かに犯罪ではあるのだが、どちらかというと、それだけでは入国管理法などの国内法に抵触するのみだ。
やっていることの実態は、戦争中の国に対する軍事支援の様な物だが、国際法の上ではグレーゾーンだ。少なくとも、テロとの戦いを戦争と呼ぶ者はいない。近い将来に名前が付くかもしれないが、まだそんな名前を私は知らない。
「つまり、事態認定には至らない可能性があると?」
「そうですね。そもそも、現代の戦争とはそういうものです。昨今の国際情勢では、何が戦争で、何が戦争でないのかがはっきりしなくなりつつあります。もし侵略の恐れがある場合は、評議会の停戦監視軍が派遣されるでしょうが……国内のテロ組織のみが相手だと微妙ですね」
つまり、この会話で得られた知見をまとめると、このテロ組織に対する支援活動が、サーバードの軍事的侵攻の布石であることを示せなければ、「戦争やそれに準ずる事態」にはならないみたいだ。そうしたいなら法廷で判例を作るしかないが、それには時間がかかる。
「人道支援を受け入れて、その護衛役としての軍隊派遣という形式ではいかがですか?」
ローサファンヌが提案するが、フェームは首を横に振った。
「無理とまでは言いませんが、この国の特質上、かなり厄介な事になるでしょうね。まず、この国は第三次アルメア戦争の停戦条約を根拠に建国された国家です。そして、その条約の中には、『軍事力のいかなる侵入も認めない』とあります。つまり、どの国の軍事力も、この国に立ち入ってはいけない事を条約で明確に定めてしまっています。もしそれが破られたという明確な証拠があるのなら、こちらとしても手が打てますが……」
「しかし、サーバードが関与する具体的な証拠などはまだありませんね……」
「そうであるのなら、警察予算を強化されるのが良いでしょう。サーバードの軍人がテロ組織に武器を密売している写真などがあれば、サーバードを追い詰められます」
フェームの意見は正確だった。警察予算の増加を行えば、それだけ情報を集めやすくはなる。しかし、それが本当に国民の利益になるのかは慎重に見定める必要性はあるとも感じていた。
そういえば、ヤールスキーも警察予算の増加をする様に言っていた。彼の提案は自分で自分の首を絞めるようなものだが、一体どういうつもりなのだろうか。
「ひとまず、国際社会の場で、我が国は貴国の味方として振る舞います。これは約束します」
少し考えていると、その思考を断ち切る様に、フェームの声が耳に入ってきた。
「心強い限りです」
「では、これで終わりですかね?」
ローサファンヌがこちらを見た。何か聞きたい事があるのなら今のうち、という事だろうか。それなら一つ、頼んでおきたいことがあった。
「その、僭越ながら、それ以外にもう一つ、頼みがあるんですが……」
一応、という感じで、私はフェームにそう切り出すと、彼女は私に視線を移す。
「どうしました?」
「今後、我々が貴国以外とも外交交渉を出来る様に取り計らっていただきたいです」
「と言いますと……?」
フェームは、まるで値踏みをする時の様な目で、私を見た。
「現状、我々が直接諸外国とやり取りをするのは法律上危なく、あなた方弁務官や、私の許可が必要になる。おそらく、このままではサーバードが外交交渉を許さないでしょう。しかし、シャルステルかサーバードと、我々公爵府の間のやり取りは自由に行える。そこで、あなた方王国を経由して、我が国の外交を取り次いではいただけませんか?これなら、貴国の国民に公にする必要は必ずしもありませんし、いかがでしょうか?」
そう言ってみると、フェームは納得したように頷き、上を向いて考える素振りを見せた。
しばらくすると、彼女はこちらに視線を移した。
「……それをタダで行えという事ですかね?」
「確かに、経済発展があるまで何も与えられるものもないどころか、むしろ貰ってばかり。それではいけないでしょう。しかし、経済発展があれば債務の返済に繋げることが可能ですし、貴国にも市場が広がるというメリットがあるはずです」
「それにしても不確実な未来だとは思いませんか?」
「もちろん、未来は誰にもわかりません。ですが、その可能性を高める投資だと思っていただければ良いのです。それも、そこまで大きなお金をかけずに行えます」
「それに、大それた物じゃなければ協力できると仰ったのは弁務官ご自身ではありませんか?」
ローサファンヌが口を挟んだが、フェームには効かなかったみたいで、彼女は余裕そうな笑みを浮かべて首を傾げるのみだった。
「これは大それた物ではありませんか?外交上必要な通信を、しかもサーバードに傍受されているかもしれない中でするのには、リスクが伴います」
おそらく、説得するためには何かカードを切らなければならないだろう。
「……わかりました。これで不十分だと言うのなら、今後進出するシャルステルの企業に対する税制を優遇することを約束します。もちろん、我が国の発展のためには、様々な国の資本が欠かせないのは言うまでもありませんが、立地も文化も近いシャルステルに、私は可能性を感じています。これ以上与えられる物もないかと思いますが、いかがでしょうか?」
そう言ってみると、フェームは背もたれに寄りかかり、上を向いた。何かを考えているように見える。しばらくしてそれが終わると、フェームは私を見た。
「……それなら、本国に掛け合ってみましょう。もしかすると良い返事が貰えるかもしれません」
交渉成立だ。私はフェームと握手を交わした。
「ありがとうございます。是非ともお願いいたします」
こうして、このアルメアは転機を迎え始めた。暗い将来に光が差し始めるが、その光はまだ淡く、今にも消えそうな頼りないものだった。しかし、それしかないと言うのなら、我々はそれに縋って進んでいくしかないのである。
我々がシャルステル弁務官府を出る頃には、雨は止み、晴れ間が少し見え始めていた。