可愛いアンヌマリー
マリアンヌは公爵家令息オスカルの婚約者だ。
政略結婚ではあるものの、基本的に二人の仲は悪くなかった……アンヌマリーのことを除けば。
オスカルがアンヌマリーと出会ったのは一年程前のこと。
街へお忍びで遊びに行った時、捨てられてボロボロの状態で震えていたアンヌマリーを見つけて保護したのだ。
オスカルはその場で一目惚れしたらしい。
反対する両親を説得し、アンヌマリーを公爵家の一員として迎えた。
以来、オスカルはアンヌマリーを溺愛している。
公爵家の広大な庭を毎日一緒に散歩している姿を何度も見かけた。
“アンヌマリー”と言う名前を与えたのもオスカルだ。本人は濁していたが、『世界一可愛い』と言う意味が込められているらしい。
確かにアンヌマリーは可愛い。
人懐っこく愛嬌もある為、メイド達や反対していた公爵夫妻までも虜にしてしまった。
頭も良いし、オスカルが夢中になってしまうのも納得できてしまった。
しかし、いくらなんでも仲が良すぎやしないだろうか?
マリアンヌは日に日に嫉妬心を募らせていった。
オスカルへの不満が積もっていったある日のこと、マリアンヌは見てしまった。
オスカルがアンヌマリーを抱きしめ、その魅力的な胸に顔をうずめているところを!
(わたくしが同じようなことをすれば淑女らしくないと叱られるのに、どうしてオスカルさまは……)
厳しい淑女教育を受ける彼女には、あのような行動はとれない。
マリアンヌだって本当は人目をはばからず触れ合いたいのに。
とうとう我慢の限界に達したマリアンヌは、以前から心の内に秘めていた計画を実行に移すことにした。
その日、マリアンヌは一人で公爵家を訪れていた。
オスカルは父親の付き添いで親戚の家に行っている。帰って来るのは早くても明日の朝だろう。
マリアンヌがアンヌマリーに対して何をしようと、今の彼には何も出来ない。
普段アンヌマリーの周囲には何かと人がいるのだが、今日はマリアンヌの権力で人払いさせて貰った。
現在、部屋にはマリアンヌとアンヌマリーの二人しかいない。
「久しぶりねアンヌマリー。オスカル様がいらっしゃらなくて不思議そうな顔をしていますわね。今日、オスカル様はお出かけ中なの。だから、代わりに私がたっぷり遊んで差し上げますわ。ええ……たっぷりとね」
マリアンヌは不敵に微笑みながらアンヌマリーに近づいた。
***
オスカルは教育係から叱られないぎりぎりの速度で廊下を歩いていた。
今日は父親の付き添いで叔父の家に行く予定だったのだが、急に先方の都合が悪くなり引き返すことになった。
屋敷に戻れば、婚約者のマリアンヌが自分に内緒でアンヌマリーに会いに来ているというではないか。
(急いで彼女たちの元へ向かわなければ)
そうでなければ、自分はすごく重要な場面を見逃すことになってしまう。
オスカルの直感がそう告げていた。
やがて、オスカルはアンヌマリー用の部屋の前に辿り着いた。
そっと耳を澄ませば、中からマリアンヌとアンヌマリーの声が聞こえてくる。
気づかれない様、そっと扉を開け中を覗き込めばそこでは……
「よ~しっよしよし、良い子ねアンヌマリー! まずはブラッシングをして、それから一緒にお散歩しておやつも食べましょうねぇ~」
「わんっ!」
満面の笑みを浮かべたマリアンヌがアンヌマリーをわしゃわしゃと撫でまわしていた。
***
アンヌマリーは公爵家の飼い犬である。
一年程前、街にお忍びで遊びに行ったオスカルが『拾ってください』と書かれた箱に入れられて、空き家の軒下に捨てられていたところを保護したのだ。
当時は土埃などで汚れた状態だったが、それでも人懐こっさ全開のつぶらな瞳でこちらを見つめる姿に、オスカルはすっかり一目惚れしてしまった。
当初、公爵夫妻はアンヌマリーを飼うことに難色を示していた。
公爵家で飼う犬が血統書もついていないだなんて……などと言う理由ではなく、純粋に生き物を飼うことの大変さや責任をオスカルがしっかり理解しているのか心配していたのだ。
しかし、オスカルの決意は固かった。
何度も両親を説得し、アンヌマリーの世話も可能な限り自分でやって見せた。(公爵令息なのに)
最終的には動物好きの公爵夫妻もアンヌマリーを公爵家の一員として迎えることを許可してくれた。
こうして公爵家の一員となったアンヌマリーは、すぐに周囲の人々――公爵夫妻にメイド、そして婚約者であるマリアンヌをも虜にした。
元々そういう犬種なのかメイド達による全力のケアのおかげか、アンヌマリーはとてもふわふわで豪華な毛並みを持つ犬へと成長した。
特に真っ白な胸毛は見るからに触り心地よさそうで、誰しも一度は顔を埋めてみたいと思わせる魅力にあふれている。
***
アンヌマリー専用に用意された部屋の中では、相も変わらずマリアンヌがアンヌマリーと戯れている。
「それじゃあブラッシング……の前に、ちょっとだけ! ちょっとだけ、よろしいですわねアンヌマリー」
そう言うと、恐る恐るアンヌマリーの魅惑の胸元に顔を埋めるマリアンヌ。
それに対してアンヌマリーは自慢のもふもふな尻尾を振り回している。何かの遊びだと思っているのだろう。
「……楽しそうだね、マリアンヌ」
「オ、オスカル様! どうしてここに!?」
驚愕に満ちた表情で固まるマリアンヌ。一方的、主人を見つけたアンヌマリーはこれまた尻尾をぶんぶんと振ってお出迎えしてくれる。
「今日は、お出かけされているはずじゃ……」
「先方の都合が悪くなって、急遽取りやめになったんだ」
羞恥心からか顔を赤くして小刻みに震えるマリアンヌだったが、やがてヤケクソ気味にアンヌマリーに抱き着いた。
「だって、オスカル様ばかりアンヌマリーのお世話をしてずるいじゃありませんか!」
「それは、アンヌマリーは公爵家の飼い犬だし……」
「わたくしだってアンヌマリーと一緒にお散歩しながら走り回ったり、ボール投げをして遊びたいですわ!」
「わんっ!」
ボール投げはオスカルがいつもアンヌマリーとやっている遊びのひとつだ。
今もお気に入りのボールを咥えて来て『遊んでくれるの?』と期待に満ちた目でこちらを見てくる。
しかし、マリアンヌは貴族令嬢。
彼女がオスカルと同じ様に走ったり全力でボールを投げようものなら、すぐに家庭教師から『はしたない!』と叱られてしまう。
「しかも! オスカル様ってばこの! アンヌマリーのふかふかの胸毛に頬擦りしちゃって、羨ましいったらありませんわー!!」
「えっ! 見てたの!!?」
周囲に人が居ないことを確認してからやったはずなのに!
今度はオスカルが赤面して狼狽える。
「わたくしはお化粧が着いてしまうからといつも我慢しているんですのよ!」
淑女であるマリアンヌは当然、婚約者の家に出掛ける時は化粧を施される。
可能な限り動物に害の無い物を選んではいるが、あの真っ白な毛に粉や口紅が着いてしまったらと思うととてもじゃないが頬擦りなんて出来ない。
だから、オスカルが留守の今日だけは、特別に化粧を落とした状態でアンヌマリーと遊んでいたのだ。
「この際ですわ。散歩もボールもオスカル様はめいっぱい出来るのですから、せめてわたくしが来ている時くらい、ブラッシングは譲ってください!」
「来ている時ってほぼ毎日じゃないか! 僕には合わなくてもアンヌマリーには必ず会って帰るものだからアンヌマリーは君もこの家の住人だと思っているよ! 君が帰った後はよく不思議そうに探し回っているんだよ!」
「なにそれ可愛い」
「ブラッシングのし過ぎはアンヌマリーのストレスになってしまう。マリアンヌが毎日やったら、僕が出来なくなるじゃないか」
「オスカル様はその分、一緒に運動出来るではありませんか! わたくしは将来オスカル様の妻となる身。つまり、アンヌマリーの主人になる身です! 少しくらいお世話をさせて頂いてもよろしいのでわ?」
両者一歩も引かず、睨み合う二人。
そんな二人を見たアンヌマリーが「くーん」と鳴き声をあげた。
その声に二人は慌ててアンヌマリーの方を向く。
「ごめん。アンヌマリー! 喧嘩は良くないよな」
「ごめんなさい。嗚呼、そんな悲しい顔しないで」
アンヌマリーを悲しませてしまうなんて、飼い主失格だ。オスカルとマリアンヌは反省した。
尚、アンヌマリーはとても賢い犬なので二人が本気で喧嘩している訳では無いことを理解しているし、鳴き声をあげたのは『はやくボール遊びしようよ』と催促しただけである。
「すまない、マリアンヌ。確かに僕も配慮が足りなかったよ」
「わたくしこそ、つい熱くなってしまって申し訳ありません。アンヌマリーは公爵家の愛犬ですのに……」
「いや。君の言う通り、将来は僕のつ、つ……つみゃ……君もアンヌマリーの主人になるんだから、一緒に世話をするべきだった」
若干照れもありつつ、和解する二人。
アンヌマリーも嬉しそうに擦り寄ってくる。
「今日は徹底的に人払いするから、一緒にアンヌマリーと目一杯遊ぼうマリアンヌ!」
「まあ! ありがとうございますオスカル様!」
こうして二人と一匹は仲良く散歩に出掛けて行った。
そして、遊びに夢中になって泥まみれになってしまったアンヌマリーを誰が洗うかで、アンヌマリーのお世話を巡る通算十七回目の喧嘩が勃発し駆けつけた教育係に二人仲良く叱られることとなった。
***
ちなみに、アンヌマリーはれっきとした雄犬である。
オスカルのネーミングセンスの安直さ故に、逆に気がつかなかった“アンヌマリー”という名前の由来を“マリアンヌ”が知り、照れやら恥ずかしさやらでひと悶着起こすのは、もう少し後の話である。