悪女の落日
「ぎゃあああああああああああああっ!」
最初に異常に気がついたのは、ディアーヌの寝室を訪れたメイドだった。主人を起こすために、物音ひとつ立てずに寝室に入室して――とんでもないものを目撃して腰を抜かしてしまったのだ。
「なあに……?」
あまりの騒がしさに、ディアーヌが寝台から起き上がった。床に座り込んでブルブル震えているメイドを怪訝そうに見つめ、ぐるりと寝室内を眺める。特に異常はないようだ。贅を懲らした調度品は普段どおりだし、昨晩可愛がってやったお気に入りの侍従はベッドの中でいまだ夢の中である。
不愉快そうにメイドを見下ろしたディアーヌは、不愉快そうに片眉を挙げた。
――何もないじゃない。メイドごときがわたくしの眠りを妨げるなんて……。
到底許せるものではない。だが、鬱憤を晴らすにはちょうどいいかも知れないとも思う。
ディアーヌは使用人を傷つけることを好む傾向があった。躾と称して、自ら鞭で打つことも多い。ここのところは、水責めで苦しむ様を眺めるのがお気に入りだ。特に最近は鬱憤を貯め込んでいたから、発散の機会を心待ちにしていた。
すべては隣国にいる、賢王だのと呼ばれて持てはやされている元夫のせいだ。
抗議文を携えたエルフなんぞを派遣してきたのである。
隣国からの抗議を受けて慌てたのは宰相を始めとした官吏たちだ。よりによって王位継承権を持つ人間を排除し、すでに臣下に下っている自分の息子を王位に就けようとディアーヌが企んでいると知って、頭を抱えていた。
元々、彼らはディアーヌの存在をよく思っていなかった。王族の義務だのと言って、ディアーヌを誰かに嫁がせようと躍起になっていたが、それらすべてを却下したのは父王であるレオナードである。
『ディアーヌの好きにさせよ』『ディアーヌは私の宝だ』
そう言って憚らない父王レオナードは、彼らにとって悩みの種であったらしい。
とはいえ、その寵愛もここのところ陰っている。ディアーヌが欲望のままに散財しているとどこからか漏れて、国民から反発を受けているからだ。
そんな状況で持ち上がったのが、ディアーヌによる隣国への内政干渉だった。
いずれ隣国を侵略しようという話は元々あった。けれども、それは今じゃない。今は北方の国との国境線がきな臭く、賢王が健在のうちに仕掛けるべきではないという意見が圧倒的だ。
だからこそ、彼らは元夫ヨハンからの抗議文に頭を抱えてしまった。エルフの使者を客室に留め置き、延々と会議を行っている。そのせいか、ここ数日の父王の機嫌が最悪だった。ディアーヌに蟄居を命じ、仕舞いには商人の出入りさえ制限したのである。
朝食時は共に過ごしてくれてはいるが、あからさまに不機嫌で、ディアーヌの言葉に耳を貸してくれない。
『可愛いディアーヌ。今は辛抱の時だよ』そう言って我慢を強いてくるのだ。
――ああ。何なのよ。腹が立つ。
すべては元夫と、無能な大臣たちのせいだわ。
確かに勝手な行いではあったが、今回の内政干渉もそう責められることでもないはずだった。ディアーヌは事前に今回の計画をレオナードに打ち明けていた。父王も「上手くやれ」と認めてくれていたのだ。だって、呪いが達成されれば、城内の人間はすべて死んでしまう。もぬけの殻になった城を落とすだけならば、たとえ北方がきな臭くとも問題ないはずだ。
だのに、ディアーヌを信じ切れない人間たちが邪魔をする。
愚かな人間には付き合いきれない。
――わたくしは神々に愛されているのだから、間違う訳がないのに。
それは、別に思い上がりでも何でもなく、ただの事実だ。
そう思ってしまうほどに、ディアーヌは恵まれている。
ディアーヌが生まれた時に、それはそれは見事な二重の虹が空に架かったのは有名な話だ。神々の寵愛を受けた王女だと、幼い頃から評判だった。
実際、なにをやっても失敗した試しがない。ディアーヌが望んで傅かない人間はいなかったし、誰も彼もがディアーヌの機嫌を損ねないように動く。それが当然の人生だった。それですべて上手くいっていた。深く考える必要なんてどこにもなかった。
人生の汚点をひとつだけ挙げるとしたら、ヨハンに嫁いだことだけだろうか。見た目が気に入ったから嫁いでやったものの、ケチ臭いあの男はディアーヌに贅沢をさせてくれなかった。出産だってもう懲り懲りだ。子に愛情だって持っていない。生まれたての我が子を見た瞬間、あまりにも汚らしくてすぐに下げさせたくらいだ。
しかしそれも、今思えば正解だったのだろう。ヨハンを排除した後、息子を王に据えることが出来れば、また贅沢な暮らしが出来る。
すべては繋がっているのだ。ディアーヌを幸せにするために。
世界はディアーヌに都合がいいように出来ている。
それもこれも、ディアーヌが神々から愛されているからだ。
だからこそ、状況が悪化してもディアーヌは楽観的だった。己の幸運を、神からの寵愛を信じて生きてきた彼女が――
――まさか、神々に連なる女神たちから呪われるなどと、露ほどにも想像していなかったのである。
実のところ、ディアーヌが神々に愛されているというのは、まったくの自惚れである。
疚しいことがあるだけで、人間に対して攻撃的になる精霊が昇格したものが神だ。他人を蹴落とし、自分だけがいいと考えるディアーヌを好むわけがない。女神たちからすると、ディアーヌのような人間はクズである。当然のように大嫌いだし、万が一にでも近寄ってきたらゴキブリのように潰していいとさえ考えている。
二重の虹だって、偶然に気象条件が重なっただけ。何事も上手くいっていたのは、彼女の高貴な身分におもねった人々が暗躍しただけ。
つまり、ディアーヌは恵まれた環境に生まれついただけだった。
だからこそ、ディアーヌの存在を知った女神たちは容赦しなかった。
ゴキブリは殲滅♡精神でウッキウキで呪いを掛けたのである。
まず、仕掛けたのは水の女神アクアだった。
薄ら笑いを浮かべ、ガクガク震えているメイドにお仕置きしようとしたディアーヌに、ウフフと不敵な笑みを浮かべて呪いを振りまいた。
『こういう高慢な女がふんぞり返って座っているの、嫌いなのよね~』
だから、彼女はディアーヌの汗腺を脂で詰まらせ、時間を進めた。主に――尻の辺りを。もう二度と、ふんぞり返って座れないように。
「っ……!?」
寝台から下りようとした瞬間、ディアーヌは激痛を感じて動きを止めた。
尻が恐ろしく痛い。なに。なにがあったの。そろそろと首を回し、ネグリジェを捲くって尻を確認すると――
「なによこれ……!」
何やら大量の発疹が出ているのに気がついた。それも一面にだ。紫色に変色しているソレは実に汚らしかった。水疱が破けた箇所からは、黄色い膿が垂れている。それ以前にすごく痛い。とんでもなく痛い。焼け付くように痛い! 座っていられなくなったディアーヌは、思わず寝台から転げ落ちた。
「ひいん!」
途端に腰を強打して激痛が走る。あまりの痛みに声が出ない。腰をやってしまったかと冷や汗が背中を伝ったが、ぎっくり腰ではなかったようで安堵する。とにかく移動しなければ。そんな気にさせられる。
だってディアーヌは王女だ。床に這いつくばるなんて屈辱以外の何者でもない。
そして、灯の女神ホーリーは、ディアーヌのそういう気質が嫌いだった。
『…………。他人に頭を下げるのが嫌なの? なら、常に地面に這いつくばっていたら、どうなるの、かな……』
灯の女神ホーリーは人々の旅路や安全を守る女神だ。炉の炎をも司る神でもあるが、人々が暮らしやすいように足下を照らしてくれる女神でもある。
だから、灯の女神ホーリーはあえてディアーヌの手許を暗くした。言うなれば、手許足下にまったく注意がいかなくなるような呪いを仕掛けたのだ。
結果――
ディアーヌは床に転がっていたワインの瓶の上に、勢いよく手を置いてしまった。
「はあん……!」
ディアーヌの手は、ワインの瓶の上で思い切り滑った。ぎゅるん、と信じられないくらいの速さで体が回転する。床が濡れていたからだ。昨日、酔っ払ったディアーヌが、最高級白ワインを床に撒いたまま寝たからである。
「う、うう……」
ひっくり返ったカエルのような体勢になったディアーヌは痛みに呻いている。全身が痛い。尻も背中も腰も。お気に入りのネグリジェや下着がワインでびっしょり濡れていた。気持ち悪い。どうしてわたくしがこんな目に。
ふと視界に入ったのは、最初に悲鳴を上げたメイドだった。
沸々と怒りが湧いてくる。すべての元凶はコイツだ。コイツのせいで、わたくしがこんな目に――!
――そうやって、ディアーヌは息を吸うように他人に責任を転嫁する。
そしてそれは、恋愛の女神エステルが最も嫌うものだった。
『私ぃ、恋愛物語がすごい好きなのっ! 主人公に感情移入してキュンキュンしちゃう。だからこそ、悪役ムーブがだいっっっっきらい! 特に容姿に自信があるタイプね。滅びろ♡ って思っちゃう。お腹の中は真っ黒な癖にね。見かけだけ美しくて何になるの。だから~』
エステルは、うっそり笑ってこんな呪いをディアーヌに仕掛けた。
『そのご自慢のお顔、誰も見られないようにすればいいんじゃないかしら♡ 例えばそう――心の内面が、そのまま容姿になっちゃうみたいな?』
その結果――
「お前……」
「ぎゃああああああ! 化け物……!」
ディアーヌが声を掛けた途端、メイドは真っ青になって辺りにあるものを手当たり次第投げつけ始めた。クッションが顔にぶつかったディアーヌは目を白黒させている。
「な、なに!? なんなのよ。あなた、わたくしを誰だと思っているの!?」
「ひいいっ……!」
怒るディアーヌには目もくれず、メイドが逃げ去っていく。取り残されたディアーヌは唖然とするほかない。
「な、なに!? なにかいるの!?」
メイドの様子は明らかに変だった。罪を逃れようとしているようにも思えない。本当に化け物がいる? 不安になったディアーヌが視線を巡らせていると、とあるものが視界に入ってきた。
――それは鏡だ。
ディアーヌのために作らせた特注の姿見である。それを見た途端に、ディアーヌは悲鳴を上げた。毎日、メイドたちが磨き上げた豪奢な姿見に――緑色の肌をした化け物が映っていたからだ。
その姿には見覚えがあった。確か――世間ではゴブリンと呼ばれている魔物だ。
ああでも、何かおかしい。
――どうしてゴブリンがわたくしのネグリジェを着ているの?
「どうなされました。ディアーヌ様!」
「ディアーヌ!? いったい何があった!」
騎士と父王レオナードが寝室に駆け込んできた。もう朝食の時間なのだろう。蟄居を命じられたディアーヌのため、わざわざ離宮まで足を運んでくれた父を震えながら見つめた。
「お、おとう……」
手を伸ばそうとして固まる。騎士がディアーヌに剣を突きつけてきたからだ。
「魔物め。どうやってここに入った!」
「違う……! わた、わたくしはディアーヌよ!!」
「なんと。魔物が人語を解した……!? なにを企んでいる!」
喉元に剣の切っ先が食い込んでいる。わたくしは魔物じゃない。わたくしは何も企んでいない! ブルブル震えながら父に助けを求める。けれど返ってきたのは、氷より冷たい視線だった。
「おい。早くこれを片付けろ」
冷え切った声でそう命じると、「ディアーヌはどこだ!」とディアーヌの寝室中を探し回る。「わたくしがディアーヌです!」必死に言いつのるも、ディアーヌの声は父王には届かなかった。
「ディアーヌ様の寝室を血で汚す訳にはいかない。連れ出せ!」騎士の残酷な声。拘束されそうになったディアーヌは――
「いやあああああああああああっ!」
一瞬の隙を見て、脱兎の如く逃げ出した。




