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馬鹿王子の憂い

 その日、ユージーンは複雑な心地でいた。馬車に揺られながら、今にも逃げ出したい気分を必死に押さえ込んでいる。


 原因は彼の母親にあった。


 母が邪教の布教に手を貸している――

 更には、自国で起きている様々な問題の元凶が母ではないかと判明した時から、彼は面識のない母と会うために動き出していた。


 正直なところ、王族としての正義感や義務感からではない。


 母を信じたい一心からだった。自分を産んだ母が、こんなひどいことをするはずがない。そうだ、きっと何かの間違いだ。たびたび聞こえてくる悪い噂も、ユージーンを産み捨てたような格好になったことも。すべてが間違いで、出会った瞬間にすべての真実が明らかになるに違いない。


 そう考えて、ヨハン王が隣国に派遣した使節団に加えてもらったのだ。そして、護衛騎士であるガンダルフと、側近であるカイトを引き連れて母との再会を果たした。


 通されたのは、隣国の王城の外れにある離宮だ。


 実に煌びやかな宮だった。磨き上げられた大理石の床は鏡のようで、金銀を惜しみなく使った装飾品は、瀟洒な建物を彩っている。香木が焚きしめられた室内は実に贅を尽くした作りで、選び抜かれた家具はどれもこれもが一級品。それでいて手が込んでいる。なんのことのない引き出しの取っ手に、大粒の宝石をあしらうほどだ。


 王子としてそれなりの生活を送ってきたユージーンですら、この部屋にかけられた額を思うと気が遠くなりそうになる。まさに、王の寵愛を象徴するような宮であった。


 そんな場所で、ユージーンの母親は息子と対面したのだ。


 黄金のように輝く髪、すみれ色の瞳を輝かせ、豊満な胸を強調するようなドレスを着込んだユージーンの母・ディアーヌは、赤ん坊の頃に別れたきりの息子にこう言い放った。


「なにをしにきたの、役立たず。まったく……どの面を下げて会いに来たのかしら」


 血のように紅い唇でそう告げた後、ディアーヌは七色の扇で口許を隠す。濃い色のアイシャドウで彩った瞳を、すうと細めた。


「あの愚かな王にそっくり」


 ディアーヌがクスクス笑うと、彼女にしなだれかかっていた侍従も笑い声を上げる。半裸の侍従の腰を撫で摩ったディアーヌは、ユージーンに冷え切ったまなざしを向けた。


「目障りよ。帰りなさい」


 ――これが、久方ぶりに再会した親子の会話なのだろうか。

 これが――僕の母親?

 嘘だろう。まさに噂通りの人物じゃないか。


「……王子様。しっかりするッス」

「俺らがついてますから」


 呆然としていたユージーンは、カイトとガンダルフに声を掛けられて気を取り直した。

 今は個人的な感情は捨て置こう。それよりも成すべきことがあるはずだ。


「は、母上。今日はお聞きしたいことがあって来たのです。何も情報を得ないまま、帰る訳には参りません」

「…………」


 ユージーンの問いかけに、ディアーヌは答えない。視線すら寄越さない。まるで存在しないが如くの扱い、侍従の馬鹿にするような視線にチリチリと胸が騒いだものの、ユージーンは努めて冷静に訊ねた。


「母上についてよくない噂が広まっています。とある新興宗教と関わり合いがあるとか、それらの布教を援助しているとか……。今日は真実を確かめに来たのです。はっきりおっしゃってください。弟を呪い、殺そうとする輩たちが信じる宗教を――母上が後押しするはずがありませんよね?」

「…………」

「父からも書簡が届いているはずです。あなたのお父上……祖父からも何か聞いておりませんか。新興宗教……いや、ここは敢えて邪教と言わせていただきましょう。彼らの影響で多くの犠牲が出ています。誰かを呪うために使用人を殺し、自らの命さえも犠牲にするような者たちです! 彼らを支援しているだなんて。母上にとって汚名以外の何ものでもないはずだ!」

「…………」


 相変わらずディアーヌとは視線が合わないままだ。こみ上げてくる嫌な予感から必死に目をそらしながら、ユージーンは必死に声を絞り出した。


「どっ、どうか否定して下さい、母上。――沈黙は肯定と見なします」


 冷たい汗が背中を伝う。緊張の面持ちで見つめているユージーンを、ディアーヌはようやく視界に収めた。しなだれかかっていた侍従を引き剥がす。豪奢なソファから立ち上がり、ユージーンの前に進み出た。


 甘ったるい香水の匂いが鼻腔を擽る。脳天が痺れそうな匂い。ディアーヌはしなやかな指をユージーンの頬に這わせると、熟れた果実を思わせる唇から吐息を漏らした。


「わたくしはね、わたくしを自由にしてくれるものが好きなの」

「痛っ……」


 ディアーヌ指先に力が籠もっている。磨いだ爪先でユージーンの頬に紅い筋を残しながら、彼女はひどく楽しげに笑った。


「それが何かはどうでもいいわ。わたくしが欲しいと思った時に、欲しいものをくれるなら。何かしたいと思った時に、そうさせてくれるのなら。あの神を信じている子たちはね、わたくしにたくさんのものをくれたわ。宝石もドレスも可愛い男の子もたくさん。だから手伝ってあげた。それだけよ」

「はっ……母上……!? それは……」

「繰り返すわ。ユージーン」


 親指でユージーンの頬を拭う。指先に付着した血を舌で舐め取ると、表情を消した。


「わたくしはわたくしを自由にしてくれるものが好き。それ以外に価値はないの。どうしてそれがわからないの?」


 ゾクゾクと怖気立って、ユージーンは堪らずたたらを踏んだ。

 自分の行いによって誰がどうなろうと構わない――

 ディアーヌはそう断言したのである。


 まったくもって、かつてユージーンを悩ませた元婚約者とは反対の考えだった。彼女も自由を求め、そして愛する人だ。けれども、アイシャは周囲を傷つけることなく、むしろ周囲のために身を粉にして働く。それで得た自由を愛でるのだ。他人から何かを奪ったり、ただ与えられるのを待ったりはしない。


 ――吐き気がする。これが僕の母親か。


 わずかに残っていた母親への幻想が打ち砕かれた瞬間だった。こんな人間の血が流れているのだと思うと、自分が為政者としての資質に欠けている理由さえ見つけた気がしてならない。


「そんなの。わかるはずがありません。わかりたくもない。気持ち悪い……」


 目を背けて震えているユージーンに、ディアーヌは不思議そうな顔をしている。


「変だわ。わたくしの言葉を理解しようとしないなんて。わたくしを愛してくれないの?」


 再び伸びてきたディアーヌの手を、ユージーンは咄嗟に振り払った。

 ――僕が母上を愛する? 巫山戯るな!!


「あ、愛せるはずがないでしょう! ぼ、ぼ、僕を産んですぐに帰った癖に! 親子なのに、僕は姿絵でしかあなたを知らない! どれだけ孤独だったかわかりますか。血が繋がった人間は父上だけだった。けれど、父上は新しい妻を迎えて、その人との間に子を作って。父上は分け隔てなく育ててくれましたが、それでも! それでも僕はひとりぼっちだった……!」


 だから、自分をチヤホヤしてくれる相手に気を許した。彼らが離れないように、必要以上に散在した。囁かれた甘言を無視できなかった。捨てられたくなかったからだ。だってユージーンは、血が繋がった母親でさえ、子を捨てることを知っている。


 ――それなのに、どうしてだ。どうして今になって。


「……父上から聞きました。僕を王位につけたがっている人間がいると。その人は、密かに我が国の高位貴族や低位貴族に接触し、今もなお動いていると聞きました。……それは母上なのではないですか。僕を傀儡に国を裏から牛耳ろうとでもお考えですか。ここ最近、祖父からの寵愛が薄れているそうではありませんか。その穴埋めがしたいだけなんでしょう!?」

「…………」


 ユージーンの問いかけにディアーヌは答えない。静かに自分を見つめている母親に、ユージーンは憤りを隠せなかった。


「残念でしたね! ぼ、僕の王位相続権が剥奪されて! もう何をしたって手遅れだ。きっと王位は弟が継ぐ。万が一、呪いで弟が亡くなったとしても、他の人間が王になればいい。そうだ! うちには妹もいる。アイシャだっているんだ! 僕が王位に就く可能性は万が一にも――!」


 思いの丈を叫んでいたユージーンだったが、とある人物の存在に気がついて息を呑んだ。

 いつの間にか、ディアーヌの背後に男が立っている。不気味な格好の男だ。黒いローブに目許を覆う仮面を身につけている男は、ディアーヌの耳元で何かを囁いたかと思うと、すう、と姿を消した。


 唐突なことにユージーンは動けないでいる。男のローブに刺繍された、燃えさかる大樹のエンブレムだけが網膜に焼き付いていた。


 呆然としているユージーンに、なにやら思案していたディアーヌはちらりと視線を向ける。

 どこか妖艶な笑みを浮かべて、彼女はこう言った。


「なにを勘違いしているのか知らないけれど、別に残念ではないわ。王位相続権が剥奪されていても関係ないもの」

「は……?」

「うふふ。言っちゃおうかしら。こんなにも簡単に種明かしをしてしまうのは、ちょっと味気ないけれど。あなたが言うとおりに、もう手遅れだから(・・・・・・)構わないわよね」


 ディアーヌは、ほんのりと頬を染めている。じっとユージーンを見つめながら、まるでを愛しい我が子を愛でるように、とても楽しげに。愉快そうに。そして満足そうに目を細めた。


「あなたたちが邪教徒と呼ぶ彼らが呪っていたのは、第二王子じゃないわ。違うの。そうじゃないの。あの子たちが命を捧げて願ったのは『王城にいる人間すべての死』。第二王子の体調が崩れたのはね、まだ幼くて生命力が低かったから。症状が出るのが早かっただけ。呪いは完成しつつあるわ。個人個人で対処しても意味がないのよ! そのうち、みんな死ぬわ。王も王妃も、その子どもたちも、政に携わる人間たちも、なにもかも! そうなったら――王になるべき人間を選んでいる場合ではないわよね? 血を絶やさないことが第一だもの。みんなきっと賛成してくれるわ。賛成してくれるように――お願いする。誰も死にたくないものね」


 だから関係ないとディアーヌは笑っている。

 王城にいる人間を皆殺しにした実績を盾に、貴族たちを脅すつもりなのだ。


「……王位相続権を持つ者は、城にいる人間の他にもいます」


 怒りを堪えながらユージーンが言うと、ディアーヌはクスクス楽しげに笑った。


「アイシャ・ヴァレンティノとか? 大丈夫よ。もう始末が済んだから」

「なっ……!?」

「その他の王位相続権持ちにも、いま〝お願い〟しているところなの。この世から退場してくださいってね! 素敵でしょう? きっとあなたしか残らないわ。よかったわね、ユージーン! 黙っていても、王位が転がり込んでくるわよ!」


 これは邪教と母による国の乗っ取りだ。

 一刻も早く、父王に報せなければならない。


「まったく話にならない。……今日は失礼します」

「そう? また来てね」


 去ろうとしているユージーンを、ディアーヌは引き留めるつもりがないようだった。背後から侍従とじゃれついている声が聞こえる。お前なぞどうとでもなる。そういう風に言われている気がして苛立ちが募った。


 ――アイシャ、無事で居ろよ……!


「ガンダルフ、カイト! 父上の元へ戻るぞ!」

「「は、はいっ……!」」


 その後、ユージーンは駆け足で自国に向かった。普通なら三日ほどかかる行程である。馬車をいくつも乗り継ぎ、寝る間を惜しんで父の元を目指す。ようやく自国の王城にたどり着いた時には、ディアーヌと面会してから二日目の昼になっていた。


 旅装から着替える時間も惜しくて、そのまま父王の執務室を目指す。

 いつもなら、この時間は執務中のはずだ――無事であればだが。


 城内を早足で進んでいると、ふとカイトが小首を傾げた。


「なんッスかね。この匂い……」


 確かに、不思議な匂いが城内に立ち込めている。食欲をそそる匂いだ。昼時だからだろうか。それにしても濃厚だ。城内の至る所からする。


「腹減ったな……」


 ぽつりとガンダルフが呟く。まったくもって同感ではあったが、さすがに食事の時間を確保するだけの余裕はない。焦る心のままに早足で城内を行く。すれ違う人々の様子は普段とあまり変わらないようだった。まだ呪いの影響は出ていないようだと安堵しているうちに、父王の執務室前にたどり付いていた。先触れは出してある。このまま入室しても構わないはずだ。


 ごくりと唾を飲み込む。

 ――アイシャ、無事であってくれよ。

 あれだけ厭わしく思っていた元婚約者を気遣いながら、ノックの後にドアノブを捻る。


「父上、失礼します……!」


 すると、目に飛び込んできた光景に、ユージーンは思わず足を止めた。


「…………。…………?」


 なんだこれは。幻覚か?


 父王の執務室の中に、大量の寸胴鍋が置かれていた。重厚なアンティークで整えられていたの王の威厳を示すはずだった室内は、今やある意味で戦場のようだ。大勢の料理人が忙しそうに立ち回っている。携帯用のコンロ――アイシャが開発して、冒険者の間で普及しているものに似ている――があちこちに置かれ、地べたに座ったメイドや騎士たちが、一心不乱に材料の皮むきをしていた。


 何故か調理の陣頭指揮を執っているのは、父王だ。


「王よ。味付けはこちらでよろしいですか!」

「う~ん。もうちょっと砂糖を入れてくれる?」

「かしこまりました!」


 出来上がった料理は、続々と部屋の外に持ち出されている。茶色いスープのようなものだ。漂ってくる香ばしい匂いに、城中に立ち込めていた原因がそれなのだとわかった。


「なんで……?」


 自分の目が信じられなくて、思わずゴシゴシと目を擦る。再びマジマジと室内を眺めて、それでもなお現実を受け止めきれないでいた。すると、中にいた父王が声を掛けてきた。


「あ、お帰り~! 早かったね~!」


 いやに陽気な声である。貴族服の上にピンクのエプロンをつけた賢王は、軽い足取りでユージーンに近づいてきた。


「お疲れみたいだね。身支度を終えてからでもよかったのに~」


 あまりにも危機感のない物言いだ。しかも、エプロンに猫ちゃんのアップリケを見つけてしまって、父王の威厳のある姿しか知らないユージーンは思わずたたらを踏んだ。


 ――なんだ。なにがどうなっている。アイシャが死んだのかも知れないんだぞ。なのに悠長に料理なんてしている場合か? いや、一国の王が料理をしている時点でおかしな話なのだが。


 ともかく状況を確認して報告せねば……!

 決意を固めたユージーンは、父王と向かい合った。


「あの。父上。アイシャが……って、むぐもが!!」


 すると、口の中にスプーンを突っ込まれて悶絶した。犯人はもちろん父王である。「もがーっ!(なにをするんですか!)」思わず抗議の声を上げたユージーンに、父王はクスクス楽しげに笑った。


「ごめんね。でも、なるべく早い方がいいみたいだから」


 あーん、と再びスプーンを差し出してくる。

 父王の手許には例の茶色いスープがあった。


「お、僕らも食べていいんッスか?」

「うめえ~! なんだこれ。おかわりある?」


 気がつくと、カイトとガンダルフも食べ始めている。動揺しながらも、ようやく口の中のものを飲み込んだユージーンは、父王の手からスプーン奪い取って言った。


「な、なんなんですか。暢気に飯など食っている場合じゃないんですよ! しかも、なんですかその格好……! 執務室もです!! 職場に何を持ち込んでいるんですか!」

「いやあ。僕もさあ、最初は調理場でやろうって言ったんだけどね? サムソンが、一国の王が立ち入る場所じゃないって言い出して。仕方なくここでやってるんだ。カレーの調理法を知ってたの、僕だけだったからね」

「料理人に任せればいいではないですか……」

「ええ~~~。やだ。こんな機会は滅多にないし、料理が楽しいなあって思い始めたところだったし。あ、ちなみにピンクのエプロンは僕の私物~。部屋の隅は見ちゃいけないよ。サムソンが鬼みたいな顔で睨んでくるからね」


 ユージーンが思わず様子を窺うと、確かに恐ろしい形相のサムソンが佇んでいる。騒々しい室内において、そこだけが空気が違っていた。後で絶対に説教するという固い決意が感じられて、父王が可哀想になった。


「はあ。……カレーと言うんですか、これ」

「おいしいでしょ?」

「確かにおいし――……いやいやいや! そうじゃなくて! それどころじゃないんです。アイシャが! 呪いが!!」

「ああ。城全体が呪われてるって話でしょ。知ってる」


 父王の言葉に、ユージーンはポカンと口を開けたまま固まってしまった。

 間抜けな顔を晒した息子に、父王は優しげな眼差しを向けた。


「真剣に考えててくれたんだねえ。ユージーンは成長したね」

「なっ……!?」


 突然の褒め言葉に、ユージーンの頬が染まる。「だ、男爵になってしまったとはいえ、これでも王族ですから」モゴモゴ小声で言うと、勢いよく父王を睨み付けた。


「な、ならなんでこんなことしているんですか。一刻も早く対処すべきです!」

「うん。だからこれが呪い対策だよ」

「へっ……?」


 目を丸くしたユージーンに、父王は笑顔で答えた。


「カレーの材料のひとつにカレー粉があるんだけど、アイシャが薬聖と開発したものなんだ」

「アイシャが……?」

「滋養強壮効果があるからって、アイシャに増産をお願いしててね。城でも食べたいなと思って仕入れてあったんだ。でも、ひとつだけ引っかかっていたことがあって。なぜか僕とサムソンが食べた時だけ体が光ったんだよ。アイシャとヴァイスは、そんなことなかったのにね」

「……それは、不思議ですね?」

「うん。どうも、疑問に思ったアイシャが専門家に調査を依頼してたみたいなんだ。その結果――カレー粉には、解呪の力があることがわかった。それも強力な!」

「……! だ、だからカレーを……?」

「そうだよ。カレーを食べさえすれば邪教の呪いなんて怖くない。しばらくしたら効果が薄れるみたいだから、危険があるうちは数日に一度くらいの頻度で食べるべきだけどね」


 意外すぎる事実に、ユージーンはヘナヘナと座り込んだ。

 ああ、またアイシャか。そんな気持ちでいる。


 アイツはいつだって僕の先を行く。前はそれが腹立たしくてならなかった。

 けれども――今回は不思議と爽快な気分だ。


「……父上たちが無事でよかったです。城の者たちも。犠牲が出なくてよかった」


 自然とそんな言葉が口に突く。紛れもなく本心だった。前はこんなこと思いもしなかったな。父王がますます笑顔になっていて、なんだかひどく擽ったい。


「どうせアイシャは生きているんでしょう」

「うん。ダンジョンの中に滞在してるみたい。淡水湖の湖底に現れたダンジョン、わかる?」

「……ああ。神代のダンジョンの疑いがあるとかいう?」

「そうそう。邪教徒に襲われた時、たまたまそこに逃げ込んだらしくてね。ダンジョンの深層に基地を作って、こちらに色々と情報を提供してくれてるんだ」

「……なんでそんなまどろっこしいことを? 出てくればいいではありませんか。あのアイシャです。刺客が怖い訳でもないでしょうに」

「ははは。さすが元婚約者、わかってるね~。僕もそう思うんだけどね――」


 父王が苦虫を噛み潰したような顔になる。

 ウロウロと視線を彷徨わせた後、ユージーンの耳元に顔を寄せて言った。


「実はあの子、ブチ切れちゃってて」

「は?」

「『そっちがその気なら覚悟しろよ。殲滅してやる』って――えらい剣幕なんだ。そのためには地上にいない方が都合がいいみたい」


 ユージーンは思わず渋い顔になった。公爵令嬢の癖に何を言い出すんだ。いやでも、アイシャなら言い出しかねない。むしろ言いそう。というか、もう行動に移しているだろ。逆に邪教徒たちが可哀想になってきた。


「……邪教徒ども、アイシャに何をしたのでしょうか。以前、暗殺者に狙われた時も、こんなに怒っていなかったと思うのですが」

「さあ……。知らずに虎の尾を踏んじゃったんだろうねえ。可哀想にね?」


 頭を抱えているユージーンとは対照的に、父王はどこまでも朗らかだった。

 きっとアイシャなら何とかするだろう。そんな気持ちでいるのかも知れない。ひとしきり笑顔になっていた父王は、不意に真面目な顔になって言った。


「まあ、僕の方でも動くつもりではいるよ。アイシャばかりに任せていられない。外交的な手段を使えるのは僕だけだからね。いま色々と手段を探ってるんだ。元妻を懲らしめるために」


 父王の目はまるで笑っていなかった。表情には賢王という呼び名に相応しい威厳が漂っている。エプロンが邪魔だが。猫ちゃんのアップリケと目が合うと、ものすごく複雑な気持ちになるが。というか、さっきから口調が砕けすぎてないか。憧れていた父の姿はどこに。


「……はあ」


 賢王とアイシャが本気を出せば、思いのほか簡単に騒動は収まるのかも知れない。

 父王の話を聞きながら、ユージーンはそんな気がしていた。


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