馬鹿王子はようやく気づく
ユージーンは震える体を縮こめて、ひとり泣いていた。
目の前には大きな背中があった。護衛騎士のガンダルフだ。朽ちかけた大樹の虚に逃げ込んだユージーンを、身を挺して守ってくれている。
「クソッ……! きりがねえ!!」
ガンダルフが漏らした声は、まるで彼らの絶望を象徴しているようだった。
もうどれだけの間、魔物からの猛攻を凌いできたのだろう。水辺から離れているというのに、空を自由に駆ける彼らはユージーンたちを執拗に追ってきていた。
いまだユージーンの命があるのは、すべてガンダルフのおかげだ。
幼少期から頼りにしてきた護衛騎士の剣技はすさまじいものだった。魔物が襲いかかってきても、一閃のもとに斬り捨てる。しかし、いくら倒しても次から次へと敵が湧いてくるのだ。まるできりがない。
どうやら、敵はいまこの瞬間も数を増やしているようだった。
湖面近くを飛ぶ小魚を、水中に潜む魚が捕食したとたん、巨大魚へと変貌する。そんな絶望的な営みが、貯水湖のあちこちで行われていたからだ。どう考えてもジリ貧だった。このままでは、ガンダルフもろとも魔物に食い殺されてしまう。
「ガンダルフ。もういいんだ。もういい! お前だけでも逃げろ!!」
血と涙と鼻水でまみれた顔でユージーンが懇願する。
すべては自分の愚かな行為が招いたことだと、さすがのユージーンも理解できていた。だからこそ、ガンダルフには生き延びてほしい。これ以上、優秀な護衛騎士を巻き込んではいけない。
恐怖に身を焦がしながら必死に希う。
死ぬのは怖い。痛いのは嫌だ。嫌だ。ここから逃げ出したい。
けれど――いままで、誰よりも近い場所で、誰よりも親身になって自分を支えてくれたガンダルフが死ぬ方が、はるかに辛かった。だから僕を置いて逃げてくれ。お願いだ。囮になるくらいしか、僕にはできない。
「なぁに言ってんですか」
だがしかし、ユージーンの願いとは裏腹に、満身創痍のガンダルフは頑なだった。
血と汗でまみれた顔に、力強い笑みを浮かべる。
「大丈夫です。すぐにカイトが戻ってきますよ」
「そんなっ! そんなわけがないっ! アイツは逃げたんだ! 僕らを置いて!」
「だ~か~ら! 大丈夫ですって。アイツを信じてやってください。ずっと、カイトとふたりでアンタを守り続けてきたんだ」
血で濡れた剣で肉薄してきた魔物を屠る。
返り血を浴びながら、それでも笑顔を絶やさずにガンダルフは言った。
「俺もアイツも。最後までアンタを守り抜きますよ」
ユージーンの瞳から止めどなく涙が溢れてくる。
――どうして。どうしてなんだ。どうしてこんな情けない僕を?
思い浮かぶのは、いままで関わり合ってきた人々だ。父王。絵姿でしか知らない母。側仕え。ガンダルフ。カイト。仲がいいと思っていた貴族たち。自分を捨てた恋人。
……気に食わない婚約者。
もしも、自分が父のように立派な人間だったなら。
少なくとも、父のようになるために努力を重ねられる人間だったら。
彼らを落胆させることはなかっただろうか。
騎士団に置いて行かれるなんて失態、犯さなかっただろうか。
「父上、ごめんなさい。アイシャ、ごめん……。ごめん。ごめんなさいっ……」
それは、初めてユージーンが口にした謝罪だった。誰よりも傲岸不遜で、己をまったく振り返られなかった男が、己を見つめた瞬間でもあった。
危機に瀕して、ようやくユージーンは己の矮小さを知ったのだ。
――だからこそ。
運はユージーンを見放さなかったのだろう。
轟、と辺りに冷たい風が吹き抜けた。
宙に浮かび、ガンダルフを襲うタイミングを見計らっていた魔物たちが、次々と凍り付いていく。これはなんだ。一体なにが起こっている? ユージーンが目を丸くしているうちにも、事態はどんどん進展していった。
「ちょっとお邪魔します~」
黒髪を宙に靡かせた男が、薄ら笑いをマフラーで隠しながら、次々とナイフで魔物を切断していく。凍り付いていた魔物は、まるで食材のように鮮やかな断面を衆目に晒した。
「ははっ! サリーねえさん! これ、えらい楽しいんやけど!」
「ちょっと。よそ見すると怪我をするわよ!」
その浮ついた声に答えたのは、全身を黒一色で統一した魔女だった。魔の森の魔女。その姿を知っていたユージーンは、思いも寄らない人物の登場に度肝を抜かれてしまった。
「動かないでいただけますか」
「ひっ……!」
すると、どこからか飛んできたカトラリーが、密かにユージーンたちに迫っていた魔物を貫いた。姿を現したのは、執事姿の男だ。
……ああ、アイシャの犬だ。
眉を顰められそうな蔑称がユージーンの脳裏に浮かぶが、けっして口に出そうとは思えなかった。それだけ、ヴァイスの強さが際立っていたからだ。
「ガンダルフ様。後はお任せを」
目にも留まらぬ速さで、どこからか取り出したカトラリーを投擲する。
空を埋め着くさんばかりに犇めいていた魔物の胴体に穴が開いていく。醜い悲鳴を上げながら、巨大魚たちは次々と地面に落ちていった。
「……たす、かった?」
信じられなかった。
ガンダルフも自分も、ここで死ぬのだと信じて疑っていなかったのに。
「お。みつけた!」
ユージーンの目に飛び込んできたのは、やたら晴れやかな笑顔。
かつての婚約者アイシャ・ヴァレンティノは、傍らにカイトを携えてこう言った。
「助けに来たよ。馬鹿王子!」
あんまりな呼称である。だが、ユージーンは文句すら言えない。
「王子ぃぃぃっ……! 無事でよかった!!」
抱きついてきたカイトの温もりが、あまりにも心地よくて。
感情がグチャグチャで、涙を堪えるのに精一杯だったからだ。




