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slag  作者: 雨後の筍
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プロローグ ―あの人の弓、僕の弓―

 学び舎からの帰り道、ルフラムはいつも泣いていた。

 身体中に出来た擦り傷が、殴られて切れた口の中が痛くて泣いた。

 どうして自分がいじめられるのか分からなくて、辛くて泣いた。

 そして何よりも、いじめてくる奴らにやめてと言えない弱い自分が悔しくて泣いた。


 泣いて、泣いて、目が真っ赤に腫れ上がりながらも、ぽつりぽつりと家に帰る。

 陽が傾いて、名前も知らない鳥が鳴いている。

 夕暮れが寂しくてまた泣いた。

 涙の跡がカピカピに乾いた頃、いつもの匂いでふと、我に返る。

 声を出すのを止め、服の袖でガシガシと、乱暴に目元を拭った後、にこりと笑う練習をしてから玄関の戸を開ける。

 ルフラムのいつものルーティーンだった。


「ただいま! お姉ちゃん!」

「おかえり、ルフラム! ご飯できてるよ!」

「お姉ちゃんの特製スープでしょ! 匂いで分かったよ! お姉ちゃんの作るスープ、いつも美味しいから好き!」

「うふふ、嬉しい事言ってくれるわね、さ、準備して食べましょ!」


 姉である、マリアの笑顔は、ルフラムの中に差し込む一筋の希望の光だった。

 人の悪口一つ言わない、心優しい姉はルフラムの自慢だった。

 どれだけ年上にいじめられたって、一日が終わって、また次の日が始まってしまう怖さがあったとしても、姉の笑顔があれば一時忘れられた。

 マリアは、どんな時でもルフラムの味方でいてくれた。

 唯一の家族として、ルフラムの心を許せる数少ない人物の内の一人だった。

 作り立ての温かいスープは、切れた口に強く滲みたが、それ以上に心に沁みた。

 ルフラムの方を暖かく見守ってくれるマリアのその目線に気づいた時は、練習する意味もないくらい自然に笑みが溢れた。


 両親を三国戦争で亡くしたルフラムとマリアは、二人でなんとか日々を暮らしていた。マリアは、六歳のルフラムの面倒を見ながら、仕事に奔走し息つく間もないくらいに働いていた。

 ルフラムは、そんなマリアを尊敬していたし、自分のせいでここまで働かせてしまっている事を強く悔やんでいた。

 自分で生きていける様になりたい。強くなりたい。

 お姉ちゃんの足は引っ張りたくない。

 そんな思いは、日毎に強くなっていった。


 温かいお風呂は、交代で薪をくべて入った。

 体力仕事が苦手なルフラムは、重い薪を持って息を吹きかけるだけでも、一苦労だった。

 それでも、姉の為に出来る唯一の事なので、文句も言わずに頑張った。


 学び舎の先生が、世の中にはルーンという力があって、生まれつき特定の人間が自身の身に一つだけそのルーンを宿していると言っていた事を不意に思い出す。

 中には、火を操るなんてものもあるらしい。

 ルフラムは、もしそんな能力が自身にあればきっと喧嘩も負けないし、マリアにも楽をさせてあげられるのにと羨やみながら、ため息をつく様に息を吹いた。


「お姉ちゃん、湯加減どう?」

「ちょうど良いよー、ありがとー」


 ルフラムは、入浴する時間が短い為、マリアの入浴時間を異様に長いと感じる時があるが、疲れを溶かしている姉と、外から薪を入れながら会話をするのが楽しかった。


「今日は良い事あった?」


 いつもマリアはこうやって聞いてくる。

 しかし、ルフラムにとって良い事よりも悪い事の方が多い毎日は、この返答にいつも困らせた。


「うん、今日はルーンについて学んだ事が面白かった! 僕が色々質問したんだけど、良い質問だねって褒められちゃった!」

「そう! 凄いわね! さすが自慢の弟だわ!」


 マリアの弾んだ声がルフラムの元に反響して聞こえた。

 この響いた声を聞く度に、胸がちくりと痛んだ。


 黙々と新たな薪をとりだし、くべて息を吹きかける。


 姉の前でのルフラムは、いつも明るく活発な少年だ。

 学び舎の中心人物であり、みんなからの期待と尊敬の眼差しを一身に受けるまさに、稀代のヒーロー。

 意味もなく殴られたり、教科書を取られたり、ご飯が無くなっている事なんてとても縁遠い話だ。


「ルーンねー、お姉ちゃんも実際には見た事ないんだけど、本当に、一人で戦況を変えられちゃうんだって。持ってない人達はほんとに大変だー」

「へぇー! すごーい!」

「ねぇ、すごいねぇ」


 マリアは、実感が湧かないのか、どこか上の空の様な返事だった。


「僕も、ルーンの力を持ってたらなー」

「持ってたらどうするの?」

「強くなる!」

「強くなってどうするの?」

「嫌な事をする人達を、やっつける!」

「そっかー、やっつけるのかー」


 マリアは、ポツリと呟く様に言った。

 しばらく沈黙が続いた後、マリアは湯船から上がった。

 服を着て、出て来るのを見てからルフラムが風呂に入る。

 マリアは、いつも薪を再び入れてくれるが、ルフラムはいつも休んで欲しいと思っていた。

 どうせ入る時間も短いし、残り湯で十分だ。

 なんなら入らなくても良いとさえ思っている程だ。

 しかし、いくらマリアに言ってもお互い様だから、と言って先に布団に入る事はしなかった。


 結局、五分と経たずに、ルフラムは湯船から上がった。


 二つ並びの寝床に入る時、ルフラムにとってこの時間は、安心と不安が入り混じる不穏な時間だった。

 マリアが側にいてくれる嬉しさと、明日が来てまたいじめられてしまうという不安。


「明日も、勉強頑張ろうね」

「うん、お姉ちゃんも無理はしないでね」

「えぇ、大丈夫よ。おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 この言葉を皮切りに、ルフラムの中の不安は大きく強くなっていく。

 マリアが側にいるのに遠い。


 心の内側から、夕暮れを飲み込む夜の様に侵蝕してルフラムを包み込もうとして来る。

 布団にくるまって見ても、寝ているマリアの背中を見ても、この気持ちは抑えられなかった。


「ねぇ、ルフラム」


 しまった、ごそごそしている事に気づかれた。

 マリアは、ルフラムの方を全く見ようとはしなかった。

 ルフラムは、マリアが怒っているのではないかと、ひどく怯えた。

 そして、姉の眠りを妨げてしまった事を猛烈に反省した。

 安心という気持ちがバラバラと砕けたいく音がした。

 今、マリアに怒られたら、涙が堪えられないかもしれない。

 ルフラムは、マリアに背を向けて、目を強く閉じた。


「ごめん! お姉ちゃん! すぐ寝るから!」

「ううん、まだ寝てなかったから大丈夫よ。そうじゃなくて」

「……うん?」

「……強く……なりたい?」


 ルフラムは、唐突に投げかけられた質問に戸惑いを隠せなかった。

 一体どんな意図があって自身にそんな事を聞くのか、ルフラムがどれだけ考えてもマリアの思考なんてこれっぽっちも理解できる気がしなかった。

 だからこそ、ルフラムは純粋に強い意志を持ってはっきりと答えた。

 閉じていた目は開いていたつもりだったが、真っ暗闇で何も見えなかった。


「うん。強くなりたい」

「……そっか、分かった……悪かったわね、変なこと聞いて。それじゃ、おやすみ」

「……おやすみ」


 ルフラムには、マリアその言葉が、悲哀をはらんでいる様に感じた。

 マリアの方を振り返ってみるが、結局何がそう思わせるのかは分からなかった。


「おやすみなさい、お姉ちゃん」


 ルフラムは、もう一度マリアの声が聞きたかった。


「おやすみ」


 柔らかく包み込んでくれる様な優しい声だった。


 次の日、またルフラムが、笑顔の練習をした後に家に入ると、マリアが見慣れない物を持っていた。


 曲がった木に、細い糸の様なものがくくりつけられている物と、先が鋭く整えられ、反対側に鳥の羽の様なものが付いている真っ直ぐな棒が何本か並んでいる。

 全てがツヤツヤと光っていて、ルフラムでさえ、手入れが行き届いている事がよく分かる品だった。


「あぁ、お帰りルフラム。今日は、どうだった?」

「ただいま! 今日は運動する時間が多くて、大活躍だったよ!」

「そう、さすがは私の自慢の弟」

「お姉ちゃん、これ何?」

「……ちょっと外に出ようか」


 見た事の無いものを抱えるマリアに連れられ、外に出た。

 二、三分ほど歩いて連れてこられたのは、少し広く開けた平野だった。

 今立っている場所から、五十メートル程先に薪が縦に置かれている。

 近くに水場があり、鳥がのんびりとどこか遠くを見つめていた。


「見ていてね」


 そう言うと、マリアは、腕を持ち上げ、曲がった木と糸の間に、棒を挟み、羽を持ちながら、ゆっくりと糸と共に棒を顔元まで引き下ろした。

 ピンと伸びた背筋に、見た事もない程に真剣な眼差し、ぴったりと肩幅に開いた足と、キリキリと張りつめていく糸、それに合わせて柔軟に曲がる木、きらりと光る鋭い先端。


「うわぁ!」


 マリアのその姿は、思わず声が出てしまう程に、ルフラムの心を強く魅了した。


 ぴゅん


 一瞬の風切り音の後、ルフラムの視界から棒が消えた。

 まるで世界がゆっくり切り取られている様な感覚に陥った。

 棒が消えたと同時に、マリアがふうと、小さく息を吐く。

 マリアの決して乱れる事のない姿勢と、横顔からのぞく鋭い眼光が、ルフラムの心を強く魅了した。

 緊張から解き放たれた糸と木が放つ美しい残り香に見惚れていると、バシンという音が響いた。

 水場にいた鳥達が一斉に大きく羽ばたく音がした。

 薪に、先程の棒が刺さっていた。


「すごい! すごいやお姉ちゃん! こんな事が出来るなんて!」

「ルフラム、これはね、弓と言って、さっきの矢を放って的に当てる物なの」


 興奮しているルフラムを他所に、マリアは真剣な眼差しでルフラムを見つめている。


「僕もやりたい!」

「簡単に出来るものじゃないの。だから、一緒に訓練していきましょう」


 それから、ルフラムは、弓を扱える様になるまで、マリアから熱心に指導を受けた。

 ルフラムサイズの弓を作ってもらい、飛び跳ねて喜んだ。

 しかし、筋力が足りず、弦を引けなかった為、しばらくは薪割りをする様になった。

 最初のうちは、薪が思う様に割れず、斧を振るう事がすぐに出来なくなった。

 相変わらず学び舎での嫌がらせは止まず、薪割りで全身筋肉痛の状態でやられるのは、一層堪えた。

 弓を教えてもらいだしてから、マリアは、あまり笑顔を見せなくなった。それも、ルフラムにとっては辛い事だった。

 それでも、ルフラムは、今までみたいに笑顔の練習をする事は無くなった。

 帰って来るなり、ボロボロの体を引きずって重い斧を抱えて、一心に薪を割る。

 下半身に力を入れて、真っ直ぐ力を伝える様に振り上げる。

 この時に、木目をみて、力が伝わりそうな場所を選んで狙っていく。

 軽く振り上げ、狙いを定めた所に、斧を振り下ろす。

 身体中が痛みで軋みだすが、それでも手を止める事はなかった。

 あの時、マリアが見せてくれたあの一射に心を奪われてから、体が自然と動く。

 体が自然と動くと、心が勝手についてきた。不思議とそれで嫌な事は全部忘れられた。

 あの美しい弓を自分も手に入れたい。

 ルフラムは、自分がここまで欲望に素直になれる事に驚いていた。


 そんな日々をしばらく過ごしていると、体が筋肉痛になる事が減ってきた。

 それと同時に、不思議な縁が舞い込んできた。

 学び舎で、ホルミとフレロという二人が唐突にルフラムの元を訪ねてきたのだ。


 黒い髪を肩下辺りまで伸ばした、やんちゃそうなホルミと、堅物という言葉が似合いそうな、同い年とは思えない大きな体を持ったフレロの二人は、ルフラムの前に対峙した。


「よー! ルフラムだな! うちはホルミ! こっちのでかいのはフレロ! よろしくな!」

「や、やぁ……僕に何か用?」

「あぁ、友達なろうぜ!」

「え!」


 ルフラムは、ホルミの思ってもない誘いに体が一瞬浮いてしまった。


「でも、僕と友達になると君らもいじめられるよ?」

「私と、ホルミなら大丈夫、強いからな」


 息ぴったりの様子で、二人揃って筋肉をアピールする様なポーズをとった。


「そう……でも、なんで急に?」

「最近、お前急激に強くなっているだろ? 心も身体も」

「囲われていた時は、いつもおどおどと被害者ヅラが激しくて見ていられんかったが……最近のお主は見どころがある。いや、見どころしかない! ぜひ私達と友達になってくれ」


 そう言われて、ルフラムは、身体にグッと力をこめてみる。

 確かに、最近ようやく薪割りの成果が出ている様な気がする。肉体の強化は実感できたが、心も強化されていた事は、言われるまで気が付かなかった。

 弱い自分はあまり変わっていない様に思えたが、少なくとも涙は出ない。


 しかし、そんな事よりも弓の事がルフラムの頭から離れなかった。


「何か見えるものでもあったのだろう? 言葉にすると目標、と言うやつか。私達は、強いものと共にこれからを歩みたい。ルフラム殿は、まさにぴったりだ。最近の貴殿を見ているとよく分かる」

「……僕は、そんなすごい奴じゃないよ」


 ただルフラムは魅せられていただけなのだ。

 弓というものの高潔さに、マリアが見せてくれたあの一射に。

 ルフラムには、それ以上の事は何も分からなかった。


「そんな事ねぇさ。自分は卑下するもんじゃないぜ」

「じゃあ、そういう事で、我らはもう友達だ」

「ちょっ……勝手に……」


 ホルミとフレロは、高笑いをしながら、ルフラムの肩をバシバシと叩いて去って行った。


 叩かれた両肩は、いじめっ子のどんなパンチよりも重く、いつまでもビリビリと残り続けた。


 ホルミとフレロは、どうやら学び舎では有名人だったらしく、いじめっ子がルフラムをいつもの様にいじめようとした時、二人がすぐに助けに来てくれたおかげで、何事もなく済んだ。

 お礼を言うと、友達として当たり前の事をしただけだと言ってまた両肩を叩かれ去って行った。


 その事を、帰ってマリアに報告すると、最近パッタリと見せてくれなかった笑顔で、ルフラムを強く抱きしめてくれた。


「良かったね! 良かったね!」


 その優しい声を聞いた時、ルフラムは、何故か涙が止まらなかった。

 笑顔の練習をしておけば良かったと後悔したが、この涙は放っておいてもいい様な気がした。


 それから、しばらくが経ち、矢が前に飛ぶようになった。

 十メートル程の距離なら、十のうち、三は当たる様にもなってきた。

 まだ、あのマリアの美しい姿には程遠いが、弓というものに触れて、自らでそれを体現しようとする事が出来るのはルフラムにとってこの上ない幸せだった。


 気がつけば薪を割っても体が痛まなくなっていた。

 ルフラムは、マリアに褒められたくて成長を定期的に報告していたが、マリアの表情は日に日に暗くなっていった。


 ルフラムは、必死に考えた。

 何故、またあの笑顔を見せてくれないのだろうか。


 ルフラムは、確実に強くなって理想の英雄像に近づいているはずだった。

 なのに何故、最も大切な人の表情は曇っていくのだろうか。

 もしかして、強くなる事は、マリアにとって良くない事なのではないか。

 そう考えてはみたが、ルフラムは、何故強くなる事がいけないのか見当もつかなかった。

 弱い自分が強くなる事の何がいけないのだろうか。

 ルフラムは、いくら考えても答えが出なかった為、自分よりも確実に強いホルミとフレロに聞いてみる事にした。


「ねぇ、ホルミさん、フレロさん、相談があるんだけど」

「水臭ぇな、さん付けなんてよぉ」

「あぁ、呼び捨てで構わない。それで、相談とはなんだろうか」

「じゃ、じゃあ……ホルミ、フレロ」

「おう」

「なんだろうか」

「大切な人が、僕が鍛える事に関してあまりいい顔をしてない様な気がするんだ。どうしてだと思う? 強くなる事は良くない事なのかな?」

「いや! 強くなる事は正義だ! ウチが保証する!」

「そ、そっか……なら、なんで……」

「うむ……実用性、といった所か」

「実用性……?」


 ルフラムは、強く首を傾げた。


「ただ強くなるだけでは、なんの役にもたたないだろう? だから、その強さがもたらす実益があればきっと喜んで貰えるのではなかろうか?」

「実益……」

「ウチは最強だから、強くて、いーことしかねぇけどな!」

「お前はただ何も考えていないだけだろう」

「あ! ウチだって、普段考えながら生きてんぞ! 飯の事とか!」

「あー、もう、ちょっと静かにしてろ脳みそ筋肉女」

「誰が筋力もりもり女だ! 頭じゃなくてもっと別のとこによこせ!」

「まぁ……まぁ……ちょっと落ち着いて……」


 ルフラムは、喧嘩を諌めた後、フレロの言っていた事について考えてみた。

 強さに対して、そういう角度の考え方はした事が無かった。

 確かに、ただ鍛えて的に向かって弓を打つのは自己満足以外の何ものでもない。

 そんな事の為に、マリアは自分に弓を教えたのだろうか。

 強くなるとは、なんだろうか。

 ルーンの力を持っていない自分が弓を得て、何が出来るのだろうか。

 何故、マリアは強くなるという言葉の裏に弓を用意したのだろうか。


 家に帰り、いつもの様に弓を引く。

 この瞬間が、ルフラムにとって一番集中出来る時間だった。

 構えと姿勢を意識して、体と弓を一体化させていく。

 溶け込む様に照準を合わせ、ギリギリと力を溜める。

 体は、弓を引く力は入れたまま、脱力をする意識で狙いを細く小さく絞っていく。

 集中、とにかく集中。


 その瞬間、ぎゃあ、ぎゃあと水辺にいた鳥が鳴き喚いた。


「あっ」


 体から力が抜け、矢が放たれた。

 あらぬ方向へと飛んで行った矢を見て、ルフラムは己の未熟さを実感させられた。


「鳥が鳴いたくらいで打てない様では……」


 未だに、水辺をうろうろしているその鳥を見て、深くため息をついた。


「いや、待てよ……」


 そこでふと、ルフラムは思い立ってしまった。

 弓で、鳥を打てばいいのではないだろうか。

 的を狙うよりも、動いている獲物を取る方が、練習になる。

 決して、さっきの一射の仕返しではなく、ちゃんとした考えだ。

 その上今晩の飯も手に入り、フレロが言っていた実用性も兼ねている。

 ルフラムの家では、肉という肉が食卓に並んだ事は無かった。

 ルフラムは、特別肉が食べたいわけでもなかったが、他の家は普通に食卓に出るものだと知っているし、何故食卓に並ばないのかも、何となく察していた。


 そうか、弓というのは、こう使うべきなんだ。

 あくまでもこれは武器なんだ。

 獲物を狩る為の、命を奪う為の武器。


 ルフラムの中で神聖化されていた弓というものが、メッキが剥がれていく様に、バラバラと崩れ落ちる感覚がした。

 その感覚は、マリアの一射を穢す様で気持ちの悪いものではあったが、やけに自分にしっくりきた。


 地に足のついた、生きていこうとしている実感。

 自分の足で歩いていく、その為の知恵と技術を得ていく感覚。


 ルフラムは今、自分が確実に強くなったと確信した。


「ふぅー」


 息を強く吐く。

 的から、水場へと狙いを変える。

 のんびりと水を飲みながらフラフラと歩いている大きめの渡り鳥に照準を定めた。

 的を狙う時と違い、心臓の音が強く聞こえて集中がしづらい。

 生き物に刃を突きつけ、その命を奪わんとする行為の重大さが、ルフラムにのしかかる。


 重圧のせいで、無理矢理にでも考えさせられる。

 今ここで、あの鳥を射らずとも、自分もマリアも飢える事は無い。

 しかし、ルフラムは矢をつがえ、力一杯弦を引き、狙いを定めている。


 何の為にあの鳥を射る?

 あの鳥を射るとどうなってしまう?

 あの鳥は……死を迎える。

 自分は……どうなる?


 ざわざわと心臓の音がうるさい。

 しかし、ルフラムには関係なかった。

 全てを薙ぎ払う様に、力一杯引いた弦から手を離した。


 ルフラムは覚悟を決め、一歩踏み出した。

 人間として強くなる道を選んだ。


 びゅうと、風を切る音を鳴らす。


 水辺にくる魚を緩急のある動きで捉えて飲み込んでいた鳥が、ぐぇっという、鈍い悲鳴と共に、倒れた。

 他の鳥が飛んでいく羽音が聞こえる。

 倒れてピクリとも動かない鳥が遠目に見える。

 その体には矢がしっかりと突き刺さっていた。


「はぁ……はぁ……」


 手が小刻みに震えている。

 自身の体温を全く感じなかった。


 ルフラムはこの日、初めて生き物を殺めた。

 20メートルからの射撃という、初心者にしては長い距離の狙撃を成功させていた。


 射った鳥の側により、両手で持ち上げる。

 まだ少し温かいが、体は強張ってピクリとも動かない。

 ルフラムは、死を感じると同時に、自分自身の生を感じていた。

 生きる為には、他者の犠牲、ひいてはそれに対しての感謝が必要だ。


「ありがとう」


 そう囁いた後、ルフラムは鳥を抱えて持ち帰った。


「ただいま」

「おかえり、ルフラム!」


 明るい声で出迎えたマリアは、ルフラムが抱えている物を見て、血相を変えた。


「ルフラム……あなたもしかして……」


 ルフラムは黙って頷いた。


「弓矢というのは、こうして使う物なんだね。僕は、この子のおかげで強くなった気がするよ」

「あぁ……そうなのね……あなたは……やはりそう……」


 マリアは、呆然とした表情で膝から崩れ落ちた。

 まるで、この世の全てが終わったかの様な表情に、ルフラムはひたすら困惑した。


「お姉ちゃん! 大丈夫!?」

「……行かなきゃ……」

「え? どこに? 何しにいくの?」

「ルフラム……良く聞いて」

「え? うん……」


 マリアは瞳一杯に涙を溜めながら、ルフラムをそっと抱きしめた。


「世界の……この世界の出口を見つけなさい」

「世界の……出口?」

「えぇ、そうよ。この世界の出口。あなたはこの世界から飛び出すの」

「どういう事?」

「いずれ分かるわ」


 マリアは、ルフラムを更に強く抱きしめた。

 さすがに苦しかったが、それでも姉からのこうしたスキンシップは、やはり嬉しかった。


「もう行かなきゃ……」

「おでかけするの?」

「えぇ、少しね……」


 そう言って、マリアはルフラムの頬に口付けをした。


「愛してるわルフラム、強く生きるのよ」

「え、お姉ちゃん?」


 次の瞬間、ルフラムは、突然強い眠気に襲われた。

 立っていられないくらい、頭をぐらぐらと揺らされている様な気持ち悪さが、全身を支配していく。


「お姉ちゃん……待って……」


 二度と、帰って来ない様な気がした。

 うっすらと見えるマリアに手を伸ばすが、それを掴む者はいなかった。

 ルフラムは、眠気に抗えずばたりと倒れた。



 目を覚ました時には、次の朝だった。

 まるで、何事もなかった様に布団で眠っている。

 きっと悪い夢でも見たのだ。

 そう言い聞かせ、布団から出る。


 隣にはいない。

 部屋の中にも、風呂場にも、薪割り場にもいない。

 マリアは、どこにもいなかった。

 いたのは、綺麗に並べられたルフラムとマリアの弓と、キッチンの上に、いたルフラムが狩った鳥だけだった。


「あぁ……! お姉ちゃん! お姉ちゃんー!!」


 ルフラムは、一人叫び続けた。

 最愛の姉を一日中、雛鳥の様に呼び続けて回った。

 学び舎にも行かず、辺りをひたすらに探し回った。

 しかし、返事が来る事は無かった。


「行かないで! 僕を一人にしないでよ! お姉ちゃん!」


 願いも虚しく、マリアが帰ってくる事は無かった。


 ルフラムは、たった今一人になった。

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