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インフルエンザさっちゃん

本製品はホラー成分と汚物成分を少量ですが含みます。お体に合わない方は直ちに使用をとりやめてください。

 

 §

「さっちゃん」という女の子がいる。大学生の私に酒とタバコとパチンコと、女体の素晴らしさ、その他もろもろ、おそらくこの世のほとんどの快楽を教えてくれた素敵な女性、それが「さっちゃん」だ。彼女の左の二の腕には、元カレの名前がガッツリ入ったタトゥーもある。さっちゃんと枕を共にするとき、決まって彼女はそのタトゥーを隠そうとする。基本的に私はさっちゃんの行動と言動に対してすべて肯定的にとらえる。だが、その行為だけは許さなかった。


 §

「さっちゃん……ちょっと、具合悪いかも……」

 ある夏の日のことだった。彼女は自らの体調不良を私に訴えた。事あるごとに彼女は私に判断をゆだねる。ちなみに彼女は私と二人きりになると一人称が「さっちゃん」になる。あと喋り方はおろか、行動も5歳児並みになる。もしかすると、さっちゃんはちょっとヤバい人なのかもしれない。

「うーん……お医者さん、行かなきゃね。頭痛いの?」

 夕暮れ時のアパートの一室で、その日も彼女の大好物のオムライスを作ろうと冷蔵庫の中身を確認していた私は頭の中の予定を組み直しながらいった。

「……うぅ」

 冷蔵庫の扉をそっと閉めて呻き声のする方へと視線をやると、飲みかけのペットボトルや酒の空き缶、アイスやお菓子のゴミ、カップ麺のゴミ、使用済みの洗っていない食器、おそらく洗濯していない畳まれてもいない衣類などなど、そうそうたる顔ぶれがひしめき合う部屋の壁際のベッドにさっちゃんは埋もれていた。不思議なことに毎回掃除して帰っても、次に来た時にはその部屋はいつもそうなっていた。さっちゃんはこの魔法の部屋の主だった。ちなみに彼女はバンドをやっていて、ニートで、親の仕送りとパチンコだけで生活をしている。もしかすると、さっちゃんはかなりヤバい人なのかも知れない。

「保険証は?」

 今の時間ならギリギリ診てもらえる。会話の無駄を省きたかった私は必用な情報だけを彼女から抜き取ろうとした。

「保険証……おうち」

 さっちゃんは声だけでなく体も震わせていた。顔色は青白く、相当に辛そうだった。私は焦った。ただの風邪じゃなさそうだ。世にも珍しい夏のインフルエンザかもしれない。だとしたら、これから熱が上がって体の具合は今よりももっと酷くなる。

「おうちって……」

 私は魔法の部屋を見まわした。……無理だ。このアベンジャーズメンバーたちを打ち倒してピンポイントであの小さな保険証を見つけ出すことは不可能。時間をかければ、それもできるかもしない。しかし今は猶予がない。

「大体でいいよ?あっちのあたりに置いた、とか。引き出しにしまった、とか……」

 せめてヒントが欲しかった。記憶をさかのぼってみる。基本的にさっちゃんはいつも元気で、彼女の保険証は見た事がなかった。

「おうち……おうちにあるから……ない」

「ん~?」

 私は彼女の与えたもうた問答に頭をひねった。しかしすぐに考えるのをやめた。問答を創造したものに直接聞いた方が早いと気付いたからだ。

「どういうこと?あるけどないって……失くしちゃったってこと?」

「ちがう……さっちゃんのおうち、ぐんまけん」

 これより、私とさっちゃんの大冒険は始まる。


 §

 ちゃんと手続きをすれば、保険証は後日提出でも大丈夫です。今だったら胸を張って答えきれる。しかしながら、当時は若く無知だった。さっちゃんを不安がらせないために表面上は落ち着いて見えたかもしれないが、私は冷静ではなかったと思う。白い軽自動車に旅に必要なアイテムを詰めるだけ詰め、助手席のシートを倒してさっちゃんを毛布でグルグル巻きにしてそこへ寝かせた。車はさっちゃんの所有するものだったが、運転はいつも私だった。この車で二人でよく行ってたのはパチンコ屋とスーパーマーケット。さっちゃんは凄くパチンコが強かった。滅多にないことだったが、パチンコ屋に行って彼女が負ければもう大変だった。そういう時は、いつもよりちょっとだけいいご飯を食べさせてご機嫌を取ることしかできない。それ以上に気を遣うのはスーパーマーケットだった。会計を通す前に毎回「他に欲しいもの無いね?」と彼女に確認する。彼女は力強く頷く。にもかかわらず、買い物が終わって車を少し走らせると彼女はすぐにぐずり始める。「どうしたの?」と私が訪ねると「……アイス、ほしかった」なんて返事が返ってくる。それで帰りにコンビニに寄ってアイスを買って帰るわけだ。彼女といると節約できない。ただ、それをして得られるものよりも上回る『何か』はいつも手に入れていた。

「あっくん……さっちゃん、しんじゃうかも……」

 えー、ただいまご紹介に与りました、私「あっくん」と申します。本当はもっとエグい名称で呼ばれているのですが、便宜上そうさせていただきます。

「大丈夫、寝てる間におうち着くから……」

 なるべく安心させる言葉をかけた。滅多に病気をしない彼女は大いに不安を感じていることだろう。熱が上がっていないか彼女の首筋に手を当てる。いつもより少し温かいぐらいで本番はこれからといった様子だった。熱が上がりきる前に途中で冷却シートと水分補給用のスポーツドリンクを買わなければならない。旅の計画を頭の中で立てているうちに、さっちゃんは静かに寝息を立て始めた。

「……よし」

 まずはドラッグストアに向かう。そして最終目的地は……ぐんまけん。私の記憶によればナビに彼女の実家の場所が記録されていたはずだった。ナビを操作しそれを探し出す。彼女のいう『おうち』に目的地をセット。やや間があってから、お馴染みの機械的な音声が流れた。


『目的地まで4時間24分です』


「はぁ?」

 思わず声が出た。どう考えてもそんなにかかるわけがない。現在地からの距離から推測すると、かかっても3時間弱ぐらいだと思っていた。この1時間以上の認識のズレは何だ?ルートの確認をする。高速道路なしのルートだ。高速道路なしは構わない。急にとまりたくなった時に困るし、予算もそんなに余裕はないからだ。

「うーん?」

 私は漠然とした不安を抱えながら車を発進させた。


 §

 時刻は18時。夏の夕方は長い。まだまだ明るい時間帯にいつも利用しているドラッグストアに到着した。車の冷房は効かせ過ぎないようにしてから店へと向かう。店の脇のベンチがある喫煙所で軽く一服することにした。さっちゃんも喫煙者だがさすがに今は隣で吸えない。ベンチに座り、店で買うべきものを頭の中で思い描きながらタバコに火ををつけた。

「坊や、タバコ1本くれないかね?」

 突然私の隣に現れたかなり高齢のおじいさんが話しかけてきた。

「……」

 私はそのおじいさんの風貌を無言で観察した。杖を持っていてカーディガンとスラックスをキッチリと着こなしている。髪は禿げあがっていて後頭部に少しだけ髪の毛の名残がある。額と目の大きい、賢そうな老人だった。

「坊や?」

 その老人の右手はタバコを持つためにちゃっかりと待機していた。

「あ……どうぞ」

 老人にタバコを一本だけ差し出し口元に持っていったのを確認してから火をつけてやると、彼は実に美味そうに煙をくゆらせた。私は口元を緩めてその様子を見た。

「……まったく、君のような者たちは。しかし、これが最期だ」

 老人の意味不明な言葉が自分に向けられていることに私はしばらく気づかなかった。

「今日みたいな日は気をつけなさい。あの子も。坊やの連れだろう?」

 ようやくピンと来た私は確認の意味を込めて老人に質問することにした。

「……ここへはよく、来られたのですか?」

「いや……ただ、タバコだけはやめられなかった」

 その言葉だけで私は老人の正体がわかった。

「行かれないのですか?」

「もうじきだ。さっきいっただろう?これで最期だって」

 私は老人の言葉をかみしめるように何度も頷いた。

「これ、持ってってください」

 中身の入ったタバコの箱とライターを老人に渡す。

「どうもありがとう。くれぐれも気をつけなさい。いいね?」

「……はい」

 私は吸い殻を灰皿に入れて立ち上がり、店内ではなく喫煙所から少し先のトイレへ向かった。


 §

「まいったね……」

 小さくため息をつきながら小便器で用を足した。初っ端から高齢者にたばこのカツアゲをされた。いや、自分の意思であげたんだけど。用を足したあとは手を洗う。洗った手はジェットタオルで乾かす。そこで私はある問題に気付いた。

「さっちゃんのトイレ……どうしよう?」

 トイレから出て早足で車に戻った。車の外側から窓の中のさっちゃんの様子を確認する。ぐっすり否、ぐったり寝ている……どうする?ここで彼女をトイレに連れ行くことは可能だ。多目的型トイレもある。しかし問題はその後だ。私のことだ。彼女の身を案じてスポーツドリンクをがぶがぶ飲ませることだろう。するとどうなる?人間は尿を排出する。長い旅路だ。この先、いついかなるときも多目的型トイレで彼女をサポートできるとも限らない。

「もーう、パパ!!メイコとしっかり手つないであげて!!」

 一組の親子連れが近くで会話を繰り広げ始めた。両親と子供二人の四人家族のようだった。母親の方は赤ん坊を抱いている。その時、母親が放った言葉がこの窮地を救った。

「あー、この子のおむつも買わなきゃ」

 それだああああああああああああああああああああああああああああ。


 §

 勢いよくおむつ売り場まで来たはいいものの、わからないことだらけだったことに気付いて私は冷静になっていた。まずどれがどれなのか。大人用を買えばいいのか。それとも子供用か。さっちゃんは人よりちょっとだけ小さい。いやでもさすがに子供用はサイズが合わない……のかな?じゃあ、大人用か?

「すみませーん」

 悩んでいる時間がもったいない。私は近くにいる店員さんにすべてを委ねることにした。

「えーっと、若い大人の女性が履けるような、割と小柄な子なんですけど……あ、でもそんなスリムってわけでもなくて、かといってぷにょでもないんですけど、そんな人用のおむつってありますか?」

 めちゃくちゃなオーダーだというのは自分でもわかっている。しかし、相手はプロだ。こちらの要求に限りなく近いものを選んでくれるに違いない。

「ございます」

 ござった。マジか。

「こちらの商品がぴったりだと思います。下着のような履き心地で色とデザインも可愛いので若い女性でも抵抗感が少ない、そういった商品でございます。万が一サイズが合わなかったら返品、交換の対応もしておりますのでお気軽にお申し出ください」

 私は言葉を失った。完璧だ。まさかこんな近くにおむつマイスターがいるなんて。

「……お客様?」

 なおも言葉を失い続けていた私におむつマイスターは優しい笑みを浮かべながらこちらの次の出方をうかがっていた。

「ありがとうございます」

 精一杯のお礼の言葉をおむつマイスターに送り、私は商品を受け取った。ありがとう、おむつマイスター。フォーエバー、おむつマイスター。


 §

「さっちゃん、おしっこいこう?しばらくトイレ寄れないかもしれないから」

 ドラッグストアで買い込んだものを車に詰め込み、私はさっちゃんを多目的トイレに連れ込むことにした。おむつを手に持ちながらさっちゃんを抱え込む。背負うよりも楽に便器に座らせられるからだ。

「むふ、むふふ」

 妙な笑い声をあげて、どことなく嬉しそうなさっちゃんを多目的トイレの便座に座らせる。

「おしっこ出たら、パンツは履かないでコレ履いてね?」

 さっちゃんにおむつを手渡す。猫背で一点をボーっと見続けるさっちゃんが頷く。

「おしっこバトル……」

「おしっこバトルしないよ。ここ、おうちじゃないから」

 おしっこバトル……世界最悪の闇のゲームである。発案者はもちろんさっちゃん。無敗のチャンピオンでもある。競技場はお風呂場。あまり詳しく説明したくはないが、器用なさっちゃんは浴槽の縁の所にしゃがみ、照準を合わせることのできる私は空の浴槽の中に寝転ぶように構えてスタンバイする。……忘れてください。やっぱりなんでもないです。そんなおぞましいバトルはこの世に存在しません。ただ、絶対に物理的に私は不利だなって。いつもそう思うのです。試合直後の私の姿を見て、さっちゃんはゲラゲラ笑うのです。それを見て私は幸せを感じるのです。

「でた」

 不要な報告をさっちゃんがする。

「じゃあ、拭いたらそれ履いて」

 ガラガラと雑に大量のトイレットペーパーを手に取り、拭きとり始めるさっちゃんを見て私は日常生活の謎をひとつ解明した。どうりでトイレットペーパーがなくなるのが早いわけだ。めっちゃ使ってる。

「パンツ履かないよ」

 予想通りの行動をとったさっちゃんを優しく注意する。

「あ、そっか」

 思ったよりもスムーズにさっちゃんはおむつに履きかえた。

「……はけた」

 おむつマイスターのいうとおりだった。そのおむつはまるで普通のパンツのような外見で、ピンク色で模様もおしゃれな感じがする。

「これ、パンツよりいいかも」

 問題はそのおむつが良すぎて、さっちゃんの嗜好に刺さってしまったことかもしれない。

「戻ろうか、体大丈夫?痛い所はない?」

 さっちゃんはもったりと頷いた。


 §

 車を走らせて1時間半くらいは経っただろうか。ドラッグストアを出発してからすぐに日は沈んだ。夜の知らない道はなかなかのストレスとなった。さっちゃんは大人しく意識を失っている。ぐんまけんはまだまだ先だ。いや、ぐんまけん自体はもうすぐだ。問題はそこからさらに、1時間半くらいの時間をかけて山道を走ることになる、ということだった。出発前に私が感じたズレの正体はおそらくそれだろう。夜の山道はさすがに不安だ。もしかしたらナビが予定する到着時刻よりも少し遅れることになるかもしれない。それにしても、さっちゃんの実家がそんな山奥の田舎にあるなんて……田舎?……いなか??……いなかぁ??私はちょうど都合よくあった道路沿いの休憩エリアに立ち寄った。

「さっちゃん、ちょっといいかな?」

「……むぅ?」

 さっちゃんは仙人のような返事を返した。

「さっちゃんのママと少しお話したいことがあるから、電話繋いでくれる?」

 自分のサコッシュからさっちゃんのスマホを取り出して手渡す。

「……うむ」

 政治界の重鎮のような返事をしてさっちゃんはスマホをうけとり電話をかけ始めた。頼む……繋がってくれ。

「……」

 さっちゃんの沈黙がおそろしい。このまま電話が繋がらなかったら最悪詰む可能性もある。私は知っている。私のおじいちゃんおばあちゃんも田舎暮らしだから。そう、田舎の夜は早い。時刻は20時少し前。田舎暮らしのさっちゃんの家族が眠ってしまっている可能性は結構高い。田舎に暮らす家族のお母さんはおそらく最後に寝る存在のはず。もしもこの電話が繋がらなかったら……そしたら、どうする?

「……あ、おかあさん?」

 はいーーーー。杞憂でしたーーーー。あぶねあぶねあぶね。うっかりしていた。そもそも人の家に行くわけだから。最初にアポイントをとらないでどうするんだって、ね。それにしてもよかった。さっちゃんのママ、起きていてくれてありがとう。さっちゃんのお母さんってどんな人なんだろう……どんな、ひとなんだろう??

「あっくんが、おかあさんとおはなししたいって……うん」

 初めましてだよ。はじめましてだよ??どうするんだよ、緊張するよ。

「……うん。はい」

 さっちゃんがスマホをこちらへ寄越した。受け取った私はおそるおそるスピーカーに耳を傾け相手の声色をうかがう。

「……」

 何も話さない。そらそうだ。こっちが話あるっつってかけたんだから。ここで人見知りを発揮したってしょうがない。私は開き直ることにした。

「あのー……はじめましてぇ……」

「あらー!!あなたがあっくんね!?もーう、本当にうちのバカ娘がお世話になってます!!こんにちわ!!あ、もうこんばんわだわねえ!!さちから聞いてますよ!!頭が良くて、何でも知ってて、美味しいご飯も作ってくれるって!!ごめんなさいねぇ!?あの子は末っ子だから、ちょっと甘やかしすぎたみたいで!!あの子の口からお付き合いしてる男の子の話聞くの初めてだから、もう嬉しくってね!!あなた国立大に通ってるんですってえ!?そんなエリートの方がわざわざうちの娘なんかに!!こちらとしてはありがたいんですけどね!!あははははははは!!」

 やだー。すっごいしゃべる。しかも何?さっちゃん、お母さんに私の自慢話してるっぽい。……嬉しい。すごく嬉しいけど、浸っている場合じゃない。こちらの要件をちゃんと伝えないと。

「あ、夜分遅くに申し訳ございません。実は娘さんが……」


 §

 最悪の危機は脱した。私はさっちゃんのお母さんに事情を説明し、もしかしたら到着が夜中になるかもしれないことも伝えた。夜中の山奥に締め出されるというやってはいけない行為を回避することができたのだ。

「さっちゃん、トイレ行っとく?」

「うーん……出ない」

「そっか。飲み物、ちゃんと飲んでね?」

「うーん……でもちょっと苦いかも」

「そうだね。でも頑張って飲んでて偉いね」

 飲みなれないスポーツドリンクを一生懸命摂取している彼女を称える。

「ちょっと、あっくん休憩してくるから。寒くない?大丈夫?」

「うん……あっくんも」

 さっちゃんはもごもごと、はっきりしない喋り声になってきた。眠気が襲ってきたのだろうか。

「あっくんも、なにか飲んでね。ごはんも食べていいんだからね……」

 さっちゃんは意識を失いかけながらも、私に労いの言葉をかけてくれた。

「……ありがとう」

 彼女にはすでに聞こえないとわかっていても、その言葉をいわずにはいられなかった。サコッシュの紐を肩にかけ、私は車外へと出た。深呼吸を大きくする。その場所はトイレとその前に灰皿が置いてあるくらいで自動販売機ひとつ見当たらない狭い駐車場だった。街灯もLEDではない旧型のものが一つあるだけ。まわりには誰もいない。私は車の施錠を確認してからタバコに火をつけ、灰皿に向かって歩き始めた。


 §

 辿り着いた灰皿に灰を一つ落とした。

「お兄ちゃん、大人?」

 突然5、6歳くらいの女の子が灰皿の隣に現れ、私に話しかけてきた。

「……」

 無言でその子を観察する。白を基調とした赤い花柄のワンピースを着ていて、斜視用の分厚いレンズの眼鏡をかけていた。メガネのフレームはピンク色でオシャレへのこだわりを感じる。肩より少し長い髪の毛を編み込んだ横の毛で後ろに結んでいる。

「お兄ちゃん?」

「……パパか、ママは?もういないのかい?」

「……うん」

 女の子は下を向いた。私はタバコの火を消し、灰皿へ放り込んだ。

「ねぇ、お兄ちゃんは大人なの?」

「さて……どうだろうね?」

 我ながら酷い返答だ。しかし他に答えようもない。

「大人ってなに?」

「そうね……」

 考えながら私は一番近い縁石に座り込んだ。ズボン越しにまだ縁石に残っていた昼間の熱気を感じる。

「おいで」

 私は女の子を手招きした。するとその子は小走りで近づいてきて私の太ももあたりに腰かけてきた。少女の体は縁石に残っているものとは正反対のエネルギーを私に伝えた。私はその悲しいエネルギー体の頭を優しく撫でた。

「大人は……いないのかもしれない」

「……えぇ!!?」

 女の子は子供らしく驚いた。

「みんなさ、大人のふりしてるだけなんだと思う」

「……ふーん」

「君はどう思う?」

「うーん……わからない」

 少しの沈黙が流れた。この質問は……少し難しすぎた。私にも、この子にも。

「あのお姉ちゃん、だいじょぶなの?」

「うん……大丈夫」

「でも、あんまりだいじょぶそうじゃないかも」

「……お兄ちゃんが大丈夫にさせるさ」

「それなら、だいじょぶそう」

「……ひとりで行けるかい?」

「うーん……もう少し、よしよししてほしいかも」

 私はその子の望むままに頭を撫でた。しばらくすると少女は立ち上がって私に笑顔を見せた。

「……気をつけてね」

「うん!!」

 道路の方へと駆けだしていく少女の背中はやがて消えていった。私の目からは自然と涙がこぼれていた。

「……子供は……つれぇって……」

 涙を手の甲で拭いながら立ち上がり、再び灰皿へ向かった。私はそこでタバコを一本取り出し、火をつけた。


 §

 つかの間の休憩から戻った私は再び車を走らせた。そしてついに、車がぐんまけんへと突入したちょうどその時だった。私は変化に気付いた。隣で横たわるさっちゃんがもぞもぞと動き始めたのだ。

「ぬぅ……うむぅ……」

 呻く彼女の首筋に手を当てると先ほどまでとは比べ物にならないほどの高熱を感じた。ついに熱が上がり始めたのだ。急いでどこかにとまらないと。毛布を剥がして、冷却シートを貼って……。

「でそう……」

「とまれそうな所でとまるけど、どうしても我慢できなかったらそのまましちゃってもいいからね?」

 彼女の欲求を察知して話しかける。そのためにおむつまでさせたんだ。普通の女の子だったらおむつを履かせるかどうかで迷うと思う……たぶん。でもさっちゃんだから。相手はあのさっちゃんだから、私は安心しておむつを履かせた。思考しながら同時にどこかに人目につかなくて広めのスペースはないかと目を凝らす。

「あっくん……しゅき」

 告白しながらさっちゃんは排便した。なんでわかったかって?匂いが全然違うから。排尿じゃない。排便だ。おっきい方です。私は笑いをかみ殺しながらどこかとまれそうな場所を必死に探した。すごいよ、さっちゃん。マジで。普通オシッコの方だもん。あとやっぱり野菜もちゃんと食べようね?えぐい。臭いがえぐい。


 §

 その後、しばらくの間よさげな場所は見つからなかった。車は完全に山道に入った。さっちゃんのおうちに近づくほど道幅は狭く細くなっていった。ようやくたどり着いたのはダムのような施設の上にある広い駐車場。そこは車も人もいない、私たちだけの楽園だった。雑に駐車を終え、私はすぐにさっちゃんの体を清潔にしてやった。色々配慮してあまり詳細なことは報告できない。ただ、おっきい方の処理はすごく大変だということを身を持って学んだ。粘着性の高い物質は手に付き、顔に付き……もう、このへんでやめておこう。


 ――しばらく、お待ちください――


 おそらく……どうだろう。自分の子供のおしめを替える前に彼女のおしめを替えたことのある方は共感していただけるんじゃないかと思う。ただただ、彼女が愛おしい。この言葉に尽きる。替え終わった後ほっぺにチューしちゃった。もう愛おしすぎて。もちろん、おしめを替える前も愛していたよ?ただ、なんだろう。今の方が以前の3倍ぐらい愛が強くなった気がする。メタルではぐれなあのスライムを倒した時の感覚が近いだろうか。明らかに自分のレベルが上がった。人によっては手袋をしたい、なんて思うかもしれない。でもさっちゃんだったら私は素手でいける。いけるというか、素手でやりたい。もう早く次を漏らしてもらいたいくらいだ。そしたら今度はもっと素早く、より完璧にできる自信がある。改めて隣のさっちゃんを見つめた。クークーと静かに寝息を立てている。クラクラと眩暈がしたような気がした。どうやら今度は自分に水分補給が必要なようだった。ドラッグストアの袋からペットボトルのお茶を取り出し半分ほどガブ飲みしてからガソリンメーターを確認する。残り半分よりもちょっと下ぐらいというところだろうか。ガソリンは帰りに入れれば大丈夫そうだ。必要なものがすべて入った愛用のサコッシュの紐を再び肩にかけて、冷房を強風にしてから車外へと出る。星空が近い。目的地まであと少しだ。山道も思っていたほど酷くない。休憩の恒例スポットの灰皿を探す。どうやら灰皿は落下防止用のフェンスの張られた所にあるようだった。私は虫のようにその場所に近づいた。


 §

 灰皿の近くには腰かけられる飲料メーカーのロゴの入ったベンチがあった。私がそこに座ろうと近づくと、先ほどまでは絶対にいなかったはずの先客がいることに気付いた。

「……よう、いい女手に入れたなぁ?」

「……」

 私は無言でその先客を観察した。やや細身でガラの悪い若い男だった。これまでとは少し違う存在に細心の注意を払った。

「ちょっと優しい言葉をかけりゃあ、簡単に股開くもんなぁ?」

「……」

 下卑た言葉を投げたその男は赤いシャツと白いズボンに身を包んでいた。左腕には手首までびっしりとトライバル柄のタトゥーが刻まれている。髪色は金で坊主に近い短髪。つり上がりすぎているくらいにつり上がった目を見開いて私を睨みつけていた。

「どうした?怒らないのか?ホントのこと言われて怒れねぇか?」

 男は立ち上がり私を挑発するように腕を広げた。

「……去れ。お前に人の言葉はもったいなさすぎる」

「ははははは!!インポ野郎め!!何なら今から俺があの女を犯してやろうか!?お前の目の前でなぁ!!」

 私はサコッシュの中の巾着袋からビー玉サイズの水晶玉をひとつだけ取り出し、男に投げつけた。すると男は叫び声ひとつあげずにこの世から消え去った。

「……忠告を聞かないからだ、下郎」

 私は投げつけた水晶玉を拾い上げ、ある専用の器具にセットした。セットした水晶玉に穴をあける専用の自作器具だ。器具の横についたハンドルを回すと中心の針が動き出し、ゴリゴリと水晶玉に針が通りやがて針は貫通する。穴を空けた水晶玉を器具から取り外して、フェンスの向こう側へと放り投げる。浄化もクソもない。私は文字通りヤツを消滅させたのだ。

「……クソ」

 自分に向かって悪態をつく。放っておけばよかった。なのに出来なかった。たばこを吸う気にもなれなかった私はそのまま踵を返して車に戻ることにした。


 §

 車に戻るとおでこに冷却シートをつけたさっちゃんがこちらを心配そうに見ていた。私は急いで車に乗り込んだ。

「あっくん……怒った?」

「……うん。ごめん」

 彼女は熱い両手で私の手をとると、ものすごい力で私の体を引き寄せて抱擁した。

「あっくんは悪くないよ。あっくんを怒らせた相手が悪いんだから。さっちゃんは知ってるもん。いつも、そうなんだから」

「……うん」

 彼女だけだった。私の秘密を知ったうえでずっと一緒にいてくれたのは。実の親兄弟からも気味悪がられた。学校の友達も最初こそ持ち上げるものの、すぐにその不気味さに気付き、やがて私から離れていった。

「さっちゃんのおうち、まだかなぁ?もう少しでつきそう?」

「……うん」

 彼女だけだった。私に普通の、何でもない日常を送れる人間関係を提供してくれたのは。

「さっちゃん、チューしてほしいかも。して?」

「……うん」

 彼女だけだった。私をこうして優しく抱きしめてくれるのは。


 §

 ほどなくして私たちは長い旅路を終えた。さっちゃんのお母さんはあらん限りの家中の明かりを駆使して私がわかりやすいように家をライトアップしてくれていた。そして夜中にもかかわらず私の訪問を歓迎してくれた。

「よく来てくれたね。さぁ、入って。お風呂も沸かしてありますから。遠かったでしょう?さち、部屋にお布団敷いてあるから。あっくんのお布団とふたつ並べてあるからね。あんた、壁際でいいんでしょ?あ、ごめんなさいね。あら?あっくん、あなた……顔色悪いわよ?」

 旅のオチとして、私はさっちゃんのインフルエンザウイルスをモロにくらった。感染者とチューしてんだから、それも当たり前だ。翌日、私とさっちゃんは仲良くぐんまけんの病院へ行き、その後は二人とも寝込んだ。さっちゃんの快復は私よりも1日早かった。


 §

「さっちゃん、このタトゥー早く消したい。消してあっくんの名前、新しく入れたい」

 すっかり元気になったさっちゃんはまだ寝込んでいる私に話しかける。

「そんなこと……しなくていいよ」

 いつもの問答が始まった。後はいつも通りの、お決まりの流れだ。

「なんで?あっくん、さっちゃんのこと嫌いなの?」

 そんなわけないだろ。今でもあらん限りの愛の言葉を君に浴びせかけたい。だがそんな粗末もの、さっちゃんには伝わらない。

「大好きだよ、ずっと……ずっとだ」

 ぼんやりとした意識の中で私は魂の叫びを力いっぱい言葉にした。



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