8 リメロ
「お、落ち着いてくださいってば!」
がっちりと掴まれた手首とエルトの顔を交互に見比べながら首を振る。
拒否の姿勢をとったけれどだめだ。私が嫌がっているのと反対に彼は嬉しそうに舌舐りをする。ちょっと。本当に待って欲しい。
折角のイケメン擬態がこれではただの痴漢の変態じゃないですか。家族は家族でもとんでもないろくでなしのDV夫じゃないですか。たんま。たんまって何処の方便だったっけ。
「エルト、ねぇ、ちょ、ちょっと……!」
人の形をしているとはいえ、流石はあの大きな魔物の体の一部なだけはある。
たしか彼はお腹の中では内臓の肉塊で、外へ出て自分と歩くときは片手の指先を使って人間の姿を型どっているとか言っていた。
人外の化け物の爪のほんの先端だけとはっても、見た目のままか弱い少女並み私の力では絶対に押し戻せるわけがない。
……と、諦めそうになったが、これが意外なことに。
(あ、あれ……?)
掴まれた手首を曲げてエルトの手の甲に爪をたてると、私のピンクの指先が発情期の野獣の手に食い込んだ。
皮膚を越えてずぶり。血の通ったところに刺さる、生暖かな感触が指先に伝う。
確かに力で押し戻せはしなかったが意外な方法で彼に怪我をさせることができてしまった。
「ぐっ……!」
エルトが小さく呻いて怯んだ。私の必死の抵抗が伝わったみたいで、傷付けた場所を見るからに痛がっている。その隙に振りほどいて後ずさろうとすると、彼の方が私を解放してサッと手を引っ込めた。黙って自分が負った傷に視線を落としている。
「ユーレカ……? 君は、その力も……」
「も、もうっ。変なことしようとするからですよ! ……って、やりすぎちゃった? そんなに?」
エルトの皮膚は私の爪を引っ掻けたくらいで破れるほど脆弱ではないはずだ。と思っていた。それが、私がぎゅっと力をいれたところの傷が裂け、刃物で切りつけられたかのように血を流してしまっている。
なんだかかわいそう。私も連られて彼が怪我した手の甲を見る。驚いたように私を見つめ押し黙る彼が心配になり、少し近くに寄って。
「きゃっ!」
その時、スパーンッ。と、とても良い音が頭上で響いた。
まるで忌まわしく這いずる虫をスリッパか雑誌で叩くような。そんな音。
「真っ昼間から公衆の面前で何してるの?」
上から降ってきた声は、呆れたような蔑むような女性の声。
エルトに鉄槌をくだし、私を気にかけてくれたのは見知らぬ白衣のお姉さん……個性的な出で立ちの女性だった。
タイトスカートにぱきっとしたシャツを着こなす彼女は褐色肌、碧眼の銀髪。髪には緑のインナーカラーをいれていて、かきあげた髪の中にあると思っていた耳が顔の横にはなく頭の上に三角の黒い猫耳が生えている。尻尾もあって同様に黒く、ひょろりと長い。
「リメロ……」
小さく唸るように人名を呟くエルト。猫耳女性が彼の後頭部を再び手にした雑誌でパシンッとひっぱたく。
「貴方ねぇ、地上には地上のルールがあるの。勉強しなさい。でないと王国騎士団を呼ぶわよ?」
「……面倒には巻き込まれたくない」
「そう。だったら解ってるわね?」
リメロに叱られ、何かを呼ぶと言われて萎縮するエルト。バテンなんとかは今の状況とニュアンスからしてこの世界の警察官か何かなのだろう。
「突然すまなかった。ユーレカ。彼女は……」
「リメロ・キャスパル。そこの角で産婦人科をしてるの」
「ユーレカです」
叩かれた頭をおさえながら謝罪してくるエルトが紹介するよりも先にリメロのほうがフルネームを名乗った。慌てて私も自己紹介をしようとするのだが、彼女は少し勘違いをしているらしく、
「私ね、そういうことで辛い目にあってる女の子を何人も見てきてるから。貴女も油断したら駄目よ。とくにコイツみたいな性欲丸出しの化け物は……」
「あのう。ええっと……私とエルトダウンさんはそういう関係ではなくって……」
早口で話すリメロに困っていると、
「私から詳しく話すから場所を変えようリメロ。君も休憩時間中なんだろう?」
私が付けた傷を擦り、立ち直ったエルトが近くのカフェを顎で指しながら提案した。