4 私の体の彼女の名前は
築二十年、家賃六万の六畳一間。風呂場にトイレと洗面台がついたアパートの一室。エアコンは修理中だけれど、ガスの点検作業は立ち会って朝方して貰った。今日からここが私のマイルーム。
春から大学生になるからと、高校卒業後にアルバイトでつくった貯金を全部下ろして上京。
実家を離れて私だけの部屋で新生活を始めようとしていた矢先、湯船で頭を打ったんだっけ。それとも、浴槽の底が抜けたんだっけ。
思い返すこれまでのこと。遡る記憶。
今、目の前で起きていることを認識して、私は自分の名前を探した。郵便受けに入っていたはがきの宛名。前もって契約していた電気会社から届いていたお知らせだ。そこに書いてある、私の名前。
「ゆ、百合花……早乙女……」
「ユーレカ? そう、何だか懐かしい響きだ」
聞き返すエルトダウンの復唱した名前は思い切り聞き間違えている。
ちょっと待って。ちゃんと聞こえてなかったの? 名字はどこにいってしまったの? あいむじゃぱにーず!
と、いう突っ込みからするべきなのだろうか。
「あの、ユーレカ……じゃなくて……」
「ゆーゆぴ? ゆーゆぴっ!」
あなたもちゃあんと間違えて復唱するのね。真似っこちゃん。
きっと流暢に私達と同じ言語で喋ってるつもりのメナリシス……なんだっけ? ああ、もうメナちゃんでいいや。命名します。が反応した。
曖昧さならもうメナちゃんと一緒で、私の名前もユリカだろうがユーレカだろうが大して変わらない気がしてきた。まして本当の自分の姿でもないんだし。金髪碧眼になった私に和名は似合わないかも。
この世界での私の名前はユーレカ。そう命名することにします。
今から私はユーレカ。
毛玉虫ことメナちゃんをあやしていたエルトダウンの片手が持ち上げられ、そのまま私の顎に触れる。
顔を近付けてじっと私を見つめられると、緊張でひきつってしまいそうになる。
近くで見るエルトダウンは予想以上に整った顔立ちだった。
下を向いた睫毛がとても長くて、色白で。黒髪のせいで東洋人のような妖艶さもあるけれど、骨張った大きな手や彫りの深い雰囲気は、古典的な洋画の登場人物のよう。
例えるなら、少し耽美な無声映画に出てくる顔の綺麗な悪役といったところ。そういうところもキュリオフェルとは対照的な様だった。
「え、えっと……な、何か付いてます私の顔……?」
「ぴひゅ!」
私が困っているのを察したのだろう。メナちゃんが腕の間でぴょこんと背伸びをして私と彼の距離を離してくれた。ぐっじょぶメナちゃん。
「すまない。同じ目線で人間を見るのが久しぶりだったので、つい……」
理由の言い方がもう自分は人間ではありませんを表して全く隠さないエルトダウン。
聞きたいことは山程あるが、私が口を開くより先に彼が後方を指差した。
「ところで、ユーレカ。部屋は気に入って貰えたかな? 何か足りない物は無いかい?」
なるほど、やはりあの不思議な居住空間を用意したのは私だ。と、その質問で彼のしたことの大体は理解が出来た。
自分の腹の中に女の子を閉じ込めておくために、女の子が想像する理想の暮らしのお部屋についてリサーチし予め準備をしていたから出来る発言だ。私は一人で納得した。
確かに、私がやって来ることを想定して何もかも新品で一式揃えられ、細かな気配りも出来ていた。
あの部屋に住むには何の不満もない。部屋から一歩出れば内臓感丸出しで、それを見せないために窓が無いことを除けばだが。
そもそも、部屋が良ければ済む問題ではない。住まいの問題ではないことに気付けよ。と、私は反抗心から敢えて言う。
「たっくさんあります! 全然足らないです!」
「そうか。それは配慮が至らず申し訳ない。では、近いうちに一緒に街へ買い物に行って揃えてこよう」
いや、でもね。そうじゃあないんですよ。と、苦笑いをするつもりだったのだが笑みが真顔になってしまった。
意外な返事だった。てっきり文句を言わずに部屋にいろと返され、これから軟禁されるものだと思っていた私は間抜けな声を出す。
「えっ? そ、外に出してもらえるんですか? っていうか出られるんです……?」
「勿論だとも。必要なものがあるなら街で探さなくてはいけないだろう? 私にも仕事があるから、いつもというわけにはいかないけれど……」
それが当然といったように頷くエルトダウンに私は肩透かしをくらった。頭のなかで鳩が豆鉄砲を受け止めてぱくぱく食べだしてる。
答え方が変質者や誘拐犯のものではない。休日にショッピングに連れていってとおねだりする娘を甘やかして車を出してくれるお父さんのそれではないか。
動揺する私の胸元でメナちゃんは呑気に揺れて笑っている。
「メナちゃん……」
「メナちゃん?」
「は、はいっ。その、この子の名前……」
ふかふか毛玉を、きゅっ。と鳴かせて抱き留める。
「それは単に短くしただけでは……」
その通りです。名前長くて聞き慣れなくて一度では覚えられなかったので。
そう返したくなる気持ちを留め、にっこり笑顔になったメナちゃんを差し出すとつられてエルトダウンも微笑んだ。案外普通に笑うみたい。
先程から意外や案外が連続していて、突っ込みが追い付かないな。
「あの……此処がエルトダウンさんのお腹の中なら、どうして貴方自身が此処にいるんですか?」
「この姿は内臓の一部さ。人間を真似て擬態させているだけだよ。君が気にしないのなら、その辺りの壁に口だけ生やして話すことも出来るけれど……そのほうが良かったかな?」
「いえ。今のままでいてください」
多分、肉壁を伸ばして唇だけで会話なんてされたら卒倒していた。絶対口をきくまえから気を失っていた。
「私の実際の体は君も入る前に見た通り。深淵……と、地上の人々は呼ぶそうだ。人々の穢れが集まる湖の遺棄場が私の住処でね」
「とても大きかった……」
「君たちからしてみればきっと途方もなく大きな体だ。不気味だったろう?」
彼の自嘲に私は何故だか正直には答えられなかった。
正直に、というにはどうだろうか。と感じられるほどに、自分が見たままの巨大な怪物を不気味だと思わなかったのだろうか。確かに、体を登ってきた奇妙な虫の大群は不気味ではあったし、水面に浮かんだ死骸を食べる様子も気持ち悪いとその時は思った。
けれども、足を踏み外した私を受け止めてくれたことやキュリオフェルの発言を諭してくれていたことを思い出すと一概に、不気味の一言で彼を表現するのは違う気がする。
「そんなことない……っていうのは嘘になっちゃいますけど、多分、その……それだけじゃないって思ってます。こうしてお話ししてみなくちゃわからないから。エルトダウンさんのこともっと知らなくちゃ、って……」
「君は変わっている……いや、感性が豊かなんだね。状況を受け入れてなお冷静でいられる度胸もある」
確かに、置かれている状況を見たら普通の女の子ならきっと泣き出しているだろう。肝が座っているという意味の変わっているなら私だってそう思うわ。
「ありがとう。私も君のことが知りたい」
言い直した後、エルトダウンは少し嬉しそうに微笑んだ。