3 メナリシスアルテ
化物に食われたところまでがまた夢だったのだろうか。
気が付けば私は明るく暖かい部屋の中に居た。
湿った肉壁も不気味な水音もしない、ごく普通の生活領域である。
……あるのだけれども、私の住んでいた築二十年・家賃六万のワンルームではない様子。
いや、ワンルームではあるようだけれど、家賃がおいくらかは見当がつかない。
散らかしていた女子高生一人暮らしの部屋とは決定的に違うのは、まずフローリングの床が綺麗に磨かれて見えたこと。
私の部屋は畳六畳一間。上からカーペットを敷いて洋室にみせかけていたが、此処は紛れもなく洋室。
次に、豊富な収納と家具一揃え。足の踏み場も無いくらいに物が散乱していた私の部屋と違い、きちんと整理整頓されている。
ベッドの上に鞄や服は置かれていないし、化粧道具もテーブルに散らかされてはいない。
シーツも掛け布団も、枕の膨らみまでもぴしっと整えられた寝具があって、向かいには憧れていたお姫様みたいな立派なドレッサー。 三面鏡がついていて、横に三段ある引き出しにもたくさんのメイク道具がしまってある。ブランドの品名シールは貼っていないが、リップも欠けていないしパフも汚れていない。全部新品のようだ。
私は得体の知れない部屋の探索を続けていく。
水道がある。小さな洗面台は、蛇口を捻れば水が出る。お湯は出ない。
側に食器棚。高級そうなカップとソーサーのセット。紅茶の葉っぱが入った瓶と、葉っぱをカップの中に沈めて抽出するための道具。一人用のポットの代わりかな。
観音開きのクローゼットの中には着替えがある。どれもみな買ったばかりかクリーニングに出したばかりのように綺麗な服。年頃の女性用。中にはちょっとつけるのが恥ずかしいような派手な下着もあった。
見て回るうちにふと、化物に食われる前、聖人のような身なりの理不尽な人物の言っていた事を思い出す。
(『君は今日からこの化物の腹の中で暮らすんだよ』? 腹の中……? どういう意味? 本当は私、化物に食べられてなんかいないんじゃ……)
部屋の何処かに、私がどこにいるのか答えになるものがあるのではないか。手掛かりは一体。
生活環境が整っている。つまりきっとこの部屋は私ではない誰かの使っている部屋。だとしたら、誰かが住んでいる証拠があるはずだ。
でも、住んでいる気配はまるで無かった。何もかも新品で、もしも全てが私の為に用意されているのだとしたら。
私はぞっとして身震いした。
ドレッサーの鏡に映って困惑している姿は、食べられる前に見た金髪の女の子。見慣れない姿形だけれど、これが私自身。瞳の色は青くて色白。濡れたはずの体も服も今は綺麗に乾いている。舐められた跡はない。
くるりと回って背中を見せると、鏡の中の女の子も同じように回る。
(やっぱり私なんだ。これは夢じゃない……でも、だったら何で……?)
不意に外に出られるドアを見付けたのは、自分の姿を確認しながら壁伝いに部屋を見終わって最後のところだった。
(……ここから外に出られるの?)
外ではなく隣に続く部屋があるようならば、また違う部屋を調べればいい。
私は恐る恐る扉に手を掛けると、思いきって一度頷く。ドアがあるからには先に進めるのだから、先を見に行くしかない。この部屋で調べられる所は一通り見て、手掛かりが何も無かったのだから。
息をとめて決心。ドアノブを回して両手をかけ一気に扉を押し開けた。
「は……? え、えぇ…………?」
視界に広がったのは隣の部屋ではなく外の景色だった。
しかし、外といっても正しく外との表現は出来なかった。
ドアを開いた向こう側にはまごうことなく。
此処が生き物の体内であることを思い出させてくれた。
内臓を連想させる赤い肉の分厚い壁が広がっている。
無数の血管を浮き立たせ、どくどくと脈動しながら空間のずっとずっと奥先、見えない暗がりまで果てしなく長く続いていたのだった。
だから、部屋には窓が無かったのだろうか。私に現実を忘れさせるために、部屋を作った人が配慮してくれていたのだろうか。
扉を開けたことを後悔したが、私には現実を受け入れるほか無かった。
扉から抜け出て一歩を踏み出せば、ぬちゃりと靴底が地面に沈む。
壁が肉で出来た壁なら地面ももちろん同様に、部屋の敷居を跨いだ向こう側は赤く滑り気を帯びた臓腑で出来た地面だ。
履かされていた靴は幸い数センチの高さがあったので、そのままめり込んで足をとられてしまうことはなかったが、感触が何とも気持ち悪い。
振り返って見れば、私が今まで居た部屋はショールームのようなつくりになっていたことが解った。
まるで人形遊びの人形のように、家具の入った四角い部屋にいたのだ。
ただし、その外壁は植物の根のように絡み合う肉に覆われていて、今にも取り込まれてしまいそうなほどしっかりと固定されていた。
大きな木の上に家を造るのとはまた違い、木の根っこの中に家を建てたようなそれは悪趣味な外観だった。
(うわぁ……。私、今まであの中にいたんだ……気持ち悪い……)
思い返して混み上がってきた吐き気を抑えていると、どこからか、
「きゅきゅーっ!」
と、高い悲鳴のような鳴き声が聞こえてきて。
慌てて後ろを見ると、両先端が細まった人の腕ほどもある巨大なミミズが、白い毛玉に巻き付いてもんどりうっていた。
「ぴーっ! んぴぴーっ!」
悲鳴を挙げているのは絡み付かれている毛玉の方だ。
一抱えくらいの大きさで丸い頭がついた毛玉が、ミミズの締め付けに抵抗して暴れている。
毛玉は私が気付いたことで鳴き声を発し、きゅるんとした大きな赤い目で私を見上げて訴えてきた。
「わ! なに、あなた……私に助けてって言ってるの?」
「ぴきゅ!」
長い睫に縁取られた涙目を必死に見開いてこちらを見られ、放っておくわけにはいかなくなってしまう。返事もしてくる毛玉なのだ。助けてあげよう。
慌ててミミズを蹴飛ばすと、気持ち悪い肉感が片足に再び。
(うええ……っ。勘弁してぇ……)
私の蹴りを受け、衝撃に驚いた目玉の無い方の虫は毛玉を放り出し、急いで肉の地面に噛み付き穴を開け逃げていった。
「ゆぴぃ……ぴゅ、ぴゅきゅ……」
「はいはい。良かったね……」
「んーぴっ!」
ミミズから解放された毛玉は、ころんと私の足元に転げて安心したような声で鳴く。お礼を言っているような気がするけれど、きゅうきゅうぴゅうぴゅうの音だけで何て言ってるかは解読不能。
鳴く度に大きな目の上辺りについた二本の短い触角がぴこぴこ動いている。
猫くらいの大きさのふさふさ毛玉は、遠くで見たら動物だったが近くで見ると少し虫っぽくもあった。何かの幼虫や毛虫のような外見だと言えばそうにも見える。迂闊に触らない方がいいかもしれない。
「きゅー、んぴぴ。ゆーゆっ!」
「何言ってるかわかんないよ~」
距離を離したつもりだったのだが、毛玉の方から私に近付いてきて。呼ぶような声に思わずしゃがみこんでしまうと、頭を私の手にくっ付けて頬ずりをしてきた。
手を中心に丸まってもふもふの長い毛で擦り寄ってくる。
(へんてこないきものだけど、良く見るとかわいいかもしれない……)
撫で返してやれば心地良さそうに目を細めて笑い、寝っ転がってお腹を出してくる毛玉虫。見た目はどうあれ仕草は犬や猫と変わり無い。
お腹の白い毛を両手でわしゃわしゃすると、喜んで「ゆぴぴ!」と鳴く。何となくコミュニケーションがとれてきたような気がする。
何て生き物かは知らないけれど、ペットのような愛嬌がある毛玉に段々愛情が芽生えてきてしまった。
「この子、名前つけようかな……? 何がいいかな……」
「ぴぴひゅ?」
そうだ。と、言った私に対して人語を話せなくても理解は示す。賢い毛玉ちゃんを抱えて持ち上げ目を合わせる。
何か愛称を付けて呼ぼう。お返事もするし絶対かわいい。ちょっと連れて帰りたい。
そう思って真剣に向き合って考えていると、
「その子たちはメナリシスアルテ。地上の言葉で、ちいさな星屑の掃除屋という意味だよ」
鳴き声しか発せない毛玉に代わって、はっきりとした声が上から落ちてきた。
聞き覚えのある穏やかで優しい男声。顔を上げればまた見知らぬ人間が立っていた。
私を化物に食わせたキュリオフェルの畜生とは違う、奴が金の装飾がついた真っ白な法衣を着ていたのに対して相対的に黒いフォーマルな衣服の人物。
漆黒の髪は前髪と襟足の少し長いウルフカット。切れ長の赤い瞳。
赤い瞳は抱っこしている毛玉ちゃんと同じ色で、思わず見比べてしまった。
「君が何か名前をつけて可愛がってくれるのなら、この子も私も嬉しいけれど」
男性が私に合わせて屈みながら毛玉ちゃんを一撫ですると、「ぴひゅう!」と毛玉も彼の言葉に同意して機嫌良く鳴いた。
何処から現れたのか気配も感じなかった彼が話すのを見て私はきょとんとしてしまっていたのだろう。
視線が重なってそれに気付いた男性が、思い出したように言う。
「名前……といえばまだ君の名前も聞いていなかったね。私はさっきキュリオフェルから紹介があった通り、深淵で穢れを喰らう者ことエルトダウン。今、君がいるこの体の主だ。……改めて、君の名前を教えてくれるかな?」