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1 はじまり

多分、おそらく。私はお風呂で滑って頭を打った。

いや、湯槽の底が突然すこんと抜けたのかもしれないし、脱衣所でずっこけたのかもしれない。


何が起きてそうなったかなんて確かなことは解らない。けれど、一瞬で視界が真っ暗になって意識が吹き飛んだのだ。


世界が私を突き放したように。時空と切り離されたように。体にさよならを告げる間も無く、私は私の体だったものを遠目に見ることになった。


離れて、戻る。引っ張られるような感覚が急に来る。


重力。圧迫する胸、頭。一度浮いた意識が今度は突然引き寄せられて、力強く叩き付けられた。

すっ転んで抜け出た時とは別の体に。別の場所で。



硝子、金属、氷の薄い膜。何かが軋んで割れる音の真ん中に私はいた。

今いるのが夢の中だって解るのは、また体に感覚が無いからなのかな。


意識が離れたときに居た場所とは全然関係ない場所だって感じて解っているからなのかな。

見たことのない景色は、天井が何処までも遠くて白くてふやけて滲んでいる。


何人も傷付いた人々の影が降って落ちて来ては、私の側で砕けた足場に混ざりながら更に下へと落ちていく。突き刺さった銀の杭を払いながら塗り分けられて。

鳥の羽根も蝙蝠の翼も、もつれあってちぎれて、骨が折れて血を流して形を崩して、ぐちゃぐちゃでばらばらになった生き物が、地表の破片と一緒に真っ暗な闇へ。


私が背を向けている方向へ引き込まれるようにして消えていく。


「………んっ、あっ……! う……」


声を出して何かに捕まろうとした。

けれど、伸ばそうとしても手が動かなくて、私も割れた地面に優しく受け止められながら彼らの後を追う。


ゆっくりとゆっくりと、温かな闇に包まれながら体が下へと落ちていく。

水に潜るように、空に還るように。星々を真似て、残骸達は最後の場所へ向かっていくのだ。そうして、行き先には何を想像するだろう。


広がる波の中、風の降る音にぼんやりとイメージを浮かべる。


此処は何処? どの世界の、どの時間の、どの辺りにいるの?


いつか本の中で見た神様が言語を別けた塔?


あの世とこの世を繋ぐ冷たい川のほとり?


科学の進歩で埋め立てられてしまった海の底?


私が知っている場所なのかすらわからない。


色々浮かべて考えてみたけれど、実際に行ったこともない場所を並べて比べてみたところで、正しいかどうかもわからない。


私の記憶は途切れ途切れで、いつだってヒントを中途半端に投げ付けてくるだけで。眩暈がする。


やっと目の前に映る暗闇に目が馴れてきた。

粉塵のようにキラキラと人の形が星のかけらになって夜空に舞い散る場所。

さっきからとても恐ろしい高さから落下している筈なのに、怖くないのはやっぱり夢の中だからなのかな。


知らない場所なのに、知っているような気もする。

私は畳んでいた足をゆっくりと伸ばして、爪先から着地し、柱のように狭い一つの高台に降り立った。

私以外の人々はみんなもっともっと下に落ちていく。

ぱちゃん。ぼちゃん。と、音がして、私のいる柱の下が真っ黒い海のようになっているのが解った。


振り返り下を見れば落ちてきたたくさんの遺体が水面にぷかぷかと浮いている。沈んだりもしている。

とても遠くてここからじゃ空から射す白色に反射した粒が光っているようにしか見えないけれど。確かに。


取り残されてしまったような寂しい気持ちになるけれど、水の上に放たれているのは亡くなった者達で、私はそっちには行けなくて、長い高い柱の上からそれを見下ろしているだけ。


上へ上がるにも翼が無い私じゃ飛んで逃げ出す事も出来そうになくて、ただ黙って空から降る死者たちが水に飛び込む様子を見守っていた。


一つ、人々よりも際立って大きな塊が私の立っている足場の隅を掠めて海に落ちた。

一抱えの銀の大きな箱のようなもの。傷が付いた鉄の塊。

空から投げ出されたように落ちてきた無機物は、一直線に地下の水面に波紋を広げて着水した。

何故なのか。私は親しみを感じて、それから目が離せない。


受け止められる訳がないのに両手で掬おうとして前のめり。危うく自分も躓いて落ちてしまいそうになった。

途端に、私に来るなと言っている。そんな気がする唸り声が水の中から挙がってきて返事をしてしまう。


「い、いいえ。私は……わ、私は大丈夫です。何ともないです。でも…………えっと? ……あ……れ……?」


同じように落とされた人々の死骸を分けて水面に浮いていた鉄箱が割れ、輝く黒い塊が現れた。何か様子がおかしい。他の遺骸たちとは違う雰囲気がある。

水から伸びる蔦のような泥のような黒が鉄箱を包み込む。

広がる悪意が一帯を灰色に。黒ずみ、艶やかな黒、冷ややかな漆黒、あでのない隙の無い真黒、時間と共に停まる色の黒色に変えていく。


形容できない闇が水に浮かんだ鉄箱を覆って飲み込み膨張を始める。

拡張していく黒色のただならぬ気配に空気が微振動し、押し戻すように水波が舞う。

影へと振りかかり霧散、更に押し広げる成長する闇の波間は殻を突き破るような音をぱきりぱきりと鳴らした。


黒染めの水面を氷の膜に見立て、罅割れた空間から突き出したのは闇を長く集約し固めた粘土細工のような貌の何も描かれていない頭部。

頭部として認識出来るようになったのは二分するように裂けた間に生成された牙と牙、鍾乳洞のような口腔が見えてからのこと。


側面に凹凸が浮き出し開いた赤い光の点った目玉と目玉。

首が繋いでいる人型の胸板は浮き上がる無数の血管を沈ませて構築されていく。

赤い筋肉を包みあげ、ぶちり。と繊維を千切る音が響き幾倍に成長した長い腕が地鳴りを伴って投げ出される。

それで漸く先端が上半身に支えられた頭の先だと解った。


上半身が構築されきったそこまでで既に生物体として逸脱した巨体。

闇の塊が脈動して組み上がり出来た化物。生きているうちに見たいきものの、何よりも大きな大きな魔物の姿がそこに現れた。

一振で山を薙ぎ崩しそうな剛腕を広げた体。背には何重にもなって震えている皮膜の透けた綺麗な蜻蛉羽。


首の付け根まで裂けた口は、開けば足下の海を飲み干してしまうほど大きくて、噛み合わせた剥き出しの牙に溢れた唾液が煌々と滑って濡れている。


「グゥオオオオオオ……」


呻きと共に、続けて下半身が水の下から這い顕れた。

腰から地続きの芋虫のような尺体。後方に伸びて、腹の横からは外骨格の十対ある脚が生えた。尖った一本一本が波を重ねながら水面を突き破って。

水面から現れ波を連ね支える重量体の前方正面には空間に渦大輪の輪郭を描く口。

一周に牙を揃えそれを覆う花弁状の捕食器は無数の針の如く歯牙が敷き詰められていた。


「グルルルル……」


凶悪な轟啼を獣の唸りとして吼えた。さっきの鳴き声とまた違う、響き渡る何かを求める声。

怪物は下半身の口から吐き出した触手を水面に這わせ、餌になる物や者を嗅ぎ回る仕種を始めた。

各々が脳を持って動いているかのように唾液塗れの触手たちは巨体の舌としての役割を全うして、喰らうモノを探し次々に口腔から飛沫を伴って飛び出すと、ぐちゅりべちゅりと水音をたてて這い回り拡がってゆく。


巻き込み引き入れる餌を求めて開かれた口腔の上、上半身との継ぎ目についた同じ形状のもう一つの口は花開く前の蕾のように捩れ塞がったまま先端から涎を溢れ流してはいるものの開かない。堪えるようにして黙っている。

グネグネと付根の筋に張り巡らされた血管を縮膨繰り返しながら頭を振る巨大植物さながら蠢いている。

暫く這い回っていた舌達は辺りの死骸を摘み上げては花弁に放り、引きずり込み呑み込んで全ての残骸の取り込みを終えた。


小さな小さな星屑のように映っていた人々の亡骸を見る間も無く、静かに穏やかな波に泳がせ呑み込んでいった口は、最後に輝きの消えた水面を一瞥。

他に捕え喰らえるものがないことが解ると、ゆっくりと花弁口腔の円の内側奥底へ蔦の身を退いて行く。下側の口腔も上に備わったものと同じく口を綴じて絞るように唾液を噴き出したあと頚をもたげて収まった。


大人しくなった下半身の双口を見下ろす上半身の灼眼と双口の真横の獣瞳孔の目が細められ、化物が思案するような表情を見せた。


「ひっ……あ、あのぅー……うんと……」


今なら話が出来るかもしれない。なんて思えるのはその大化物の頭の位置が私のいる足場の高さ丁度だったから。

そもそも人語が通じるかすら解らない。

此処へ落ちてきた者の遺骸や漂流物を一つ残らず食べてしまった恐ろしい怪物。目の前にいるのはそんな規格外の何かだ。


強大で不気味な山岳のような外見の相手に何かを伝えようと、落ちてからようやく動くことに馴れた足を私は動かして近付く。

牙の一本ですら人一人以上の大きさで、鼻先に近付いただけでも圧巻だった。単純に、純粋に怖い。


予想はしていたけれど、怪物は私に気付いていないようだった。

それもそう。大きさが違いすぎる。怪物からしたら私なんて小虫程度に映ればいいほうなんだろう。

私一人の小さな小さな呼び掛けでは気をひけそうになかった。囁きにすらなれそうもない。


「……あのっ! ちょっと、いい、ですか……!!」


私は思いきって声を張り上げた。

伝わるかどうかも解らない言葉で、虫が飛ぶ音より細くて高い声で。

相手が気付いてくれるとは思えなかったけれど、私の精一杯をお腹と喉から吐き出してみた。

米粒大の私を見付けて貰えるとは思わなかった。

でも、化物は私の存在に微かに気付いてくれたみたい。私を探しているようだ。

複数ある目を歪ませ細めてぎょろりと辺りを見回し、頭の先を傾げるようにゆっくりと捻って見せている。


「こっち! こっちです、私! ここにいるの!」


大振りに手を振り上げ、叩いて音を出す。

なんとか魔物を振り向かせようとして体を乗り出す。

と、


「わっ、わわわっ!?」


足を滑らせて高台から落ちそうになってしまい、慌てて崖端を掴んだところ。すぐに足場が現れて、私は受け止められていた。

怪物の大きな手の平の上という足場に。掌じゃなくて指先だったかもしれないけれど。


「きゃっ……た、助けてくれたんです、か……? えっと……」


呼び掛けたのは自分のほうだったのに急に意識を向けられ圧倒されて思わず後退りをしてしまう。

怪物は人の言葉を話せないようで、手の上の私を見つめているだけ。赤い複数の目。その視線が全部私に注がれている。

何か言わなくちゃ。悪寒がする程怖いけれど。誰が見ても普通の状況じゃないけれど。


「わ、私はその……上から落ちてきてしまって、ええと……あ、あなたは……? ……!」


何かに見上げられているような気がしふと下を見る。

魔物の長い体とそれを浸けている黒い水の暗い大きな水溜まりがあって、自分以外の人気は感じられないのに。


「な、なに…………?」


私を見ているのは人でも人の亡骸でもなかった。

水面から抜け出て怪物の体を這い上がってくる別の生き物たちがいたのだ。

無数の赤い目と灰の体、忙しく蠢く虫の足。がちがちと鳴らされながら迫る牙の音。一つではなく、二、三匹でもない。寄り集まり湧いてくる黒い影のざわめき達に息を呑む。


尺体をうねらせながら怪物の体を登りこちらへ集まり近付いてくる何十匹もの蛭虫のようなものを認識して、悍ましさに背筋が凍りつく。

夢の中で覚めたばかりなのにまた夢の中で意識を手放すってどんな感じなんだろう。

今がそれみたいで、冷静でいられなくなっている私は大群の虫を目の当たりにしたショックで気を失った。


数ある素敵な作品の中からお目にとめて頂きありがとうございます!

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2022.6.22 追記

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